戻ってきた足跡
同じ傷だ、とバルトが言った。
鏡晶の回廊、第八層。床に走る細い引っかき傷が、三度目に、また目の前に現れた。水筒の水は、ダリウスが量ったところ、残り一日ぶんしかない。四周目に入る前に、この輪から抜け出さなければならなかった。
「さっきも見たよな、これ」
「見たわ」
シンは二つ目の曲がり角に、小石をひとつ置いて目印にしていた。その石が、傷のすぐ脇に転がっている。
フィオナが膝をつき、傷を手帳に写した。一本の長い線に、短い線が三本ぶら下がっている。魚の骨のような形だ。
「同じ模様、同じ場所。まっすぐ歩いて、曲がり角は二回、どちらも覚えているのに、ここに戻ってくる」
スノウが低く唸った。シンの外套の裾を噛んで、後ろへ引っ張る。白い毛が逆立っていた。
「何を怖がってる」
シンは顔を上げた。左右の壁は、磨いた水晶の板だった。その一枚一枚に、五人と一頭が映っている。重なって、延々と奥まで続く同じ顔の列。バルトが手を振ると、百人のバルトが一斉に手を振った。
ただ、一番奥の小さな鏡の中で、スノウだけがこちらを見ていなかった。
シンは膝をつき、自分の靴を床の足跡に重ねた。ぴたりと重なる。ぴたりすぎる。
「俺たちの足跡を、俺たちが踏み直してる。同じところを、ぐるぐる回ってるんだ」
「目で見える距離を、そのまま地図に写せないってこと?」
フィオナの声が、少し震えた。鏡の中の五人が、そろって同じ顔でこちらを見返す。
「鏡の森って、そういう意味か」
バルトが呻いた。
「帰りたくなってきた」
「帰る道が、今は分からないのよ」
「なお悪い」
ダリウスは、鍋の蓋で自分の映る顔を隠した。
「何が本物かわからねえ飯屋は、潰れる」
誰も笑わなかった。笑えない代わりに、全員が一歩だけ、互いの近くに寄った。シンは腰の縄を解いて、全員の胴に通していった。
「迷子防止。これ以上、増えたくない」
「何が増えるんだ」
「同じ顔が」
バルトが吹き出し、鏡の中の百人のバルトも吹き出した。笑っているのに、背中が冷える光景だった。ダリウスが縄の結び目をきゅっと引く。
「誰か一人でも、本物か分からなくなったら、縄を二回引け。返ってくる重さが、本物の証拠だ」
縄の重みは、五人と一頭分、確かに腰に乗っていた。
***
「灯りを消してくれ」
シンが言うと、ダリウスが顔をしかめた。
「正気か。真っ暗になるぞ」
「灯りを増やすほど、鏡に映る顔も増える。道が見えないのは、光が多すぎるからだと思う。だから、一本だけ残す」
ダリウスは舌打ちしながら、ランタンを遮蔽布で一つずつ覆っていった。五つあった光が、四つ、三つ、二つと消え、最後の一本になる。回廊が、闇に沈んだ。
暗闇の中で、バルトが急に声を上げた。
「誰かいる、俺の隣に!」
「縄を引いて」
シンの声に、バルトが縄を二回引いた。同じ重さが、二回、まっすぐ返ってきた。
「……お前か」
「俺だ」
バルトは大きく息を吐いた。ランタンのひとすじの光が、壁の一枚に当たる。光はまっすぐには進まなかった。壁で折れ、天井で折れ、別の鏡で折れる。三方向に分かれて、それぞれ別の板で、ひとつに戻ってきた。
「うわ、見えた。光が、編み物みたいになってる」
フィオナが炭で、床に光の経路を書いていく。
「一本ずつ通せば、構造が分かる。ダリウス、次はこの角度に」
「分かってる、分かってる」
ダリウスはぼやいた。
「調理場じゃ火加減の話しかしねえのに、なんで俺が光の調整役なんだ」
「できるから頼んでるのよ」
「褒めてんのか、それ」
「褒めてるに決まってるでしょ!」
光を一本ずつ通し、折れた経路を炭で写す。ひとすじなら、折れた回数を数えられる。数が合わない場所があれば、そこだけ壁の正体が違う。やがて床の上に、蜘蛛の巣のような図ができあがった。
シンは図を指でなぞって、ある一点で指を止めた。
「ここだけ、光が戻ってきてない。右の壁の三枚目の板は、鏡じゃない。光を吸ってる」
バルトが、三枚目の板を拳でこんこんと叩いた。鈍い音がした。本物の岩の音だった。
「やった!」
「やったのは、光を一本ずつ通した人」
「いや、調整は俺だ」
ダリウスが胸を張り、誰も否定しなかった。シンは岩の面に炭で小さな印をつけ、帳に位置を書き込んだ。この回廊で、初めての確かな一点だった。
シンはスノウを抱き上げた。白い毛玉は、まだ小さく喉を鳴らしている。
「お前だけ、鏡の中でこっちを見てなかったな」
スノウは、シンの顔を一度見て、それから三枚目の板のほうへ、ちょんと鼻を向けた。
「教えてくれてたのか」
「カルクは、虚像の濃淡を嗅ぎ分けるって話だったでしょう」
フィオナが手帳に書きつけた。
「偶然じゃなかった。お手柄よ、スノウ」
「よし、褒美の干し肉だ」
バルトが干し肉をスノウの頭に近づけた。がぶ、と指に噛みつかれる。
「いてえ!」
「先に出さないからよ」
スノウは干し肉をくわえたまま、ふんと鼻を鳴らした。バルトの指には、小さな歯形がくっきりと残った。
本物の壁は見つかった。けれど、岩の面をいくら撫でても、継ぎ目も扉もない。壁沿いに歩き出した五人の後ろで、鏡の中の自分たちだけが、ほんのひと呼吸遅れて動いた気がした。




