白い罠の中
「出発の前に、これを止める」
シンは第五層の記録室で、台座に手を置いた。
「運転権を切る。灯りと水路が半日止まる。剣の力が設備に縛られているなら、今日ここで分かる」
フィオナが砂時計を立てた。半日で戻せなければ、保守班が困る。試すなら、手早くやる必要があった。
遠征の途中で設備が止まる日が、来ないとは限らない。そのときになって丸腰だと知るより、足場のある今日のほうがいい。台座の光が、ふっと消えた。部屋の空気が冷え、灯りが半分落ちる。
「風呂は!?」
「風呂は第八層の別系統よ、バルト。止まるのはこの第五層の灯りと水路だけ」
「湯が冷める……」
「そんなに早く冷めるわけないでしょ」
シンは足元の小石を拾って、念じた。小石が、掌にずしりと沈んだ。
「使える」
試験場へ移って、大岩に触れる。ここなら崩れても、誰にも当たらない。重さを増すと、岩は地面にめり込み、床がみしみしと鳴った。重さを抜くと、岩はふわりと浮いた。バルトが口を開ける。
「俺が三人がかりでも動かねえ岩だぞ」
「運転権がないのに動かせてるのよ」
フィオナが、静かに嬉しそうに言った。
「記録と運転は、別の欄。設備を手放しても、貴方の剣に宿った記録は消えない。貴方を縛る設備は、ないの」
シンは拳を握って、開いた。ずっとどこかで、怖かったのだと思う。この力が、設備の気まぐれで取り上げられるのではないかと。
「それなら、俺が歩いた道は、全部、誰でも読める地図にしておく。運転権が誰の手に渡っても、道は残るように」
「とんでもなく面倒な仕事よ」
「知ってる」
「付き合うわ」
シンは記録室の壁に、歩いた道の図を一枚貼り出した。誰でも読める場所に、誰でも読める形で。
シンが台座に手を戻すと、第五層の灯りと水の流れる音が、半日待たずに戻ってきた。バルトが叫ぶ。
「風呂は!?」
「戻ったのは、この階の灯りと水路よ! 第八層の湯は、最初から止まってないの!」
***
シンは入口の大木の根元に、最初の目印の杭を打った。誰でも読める地図の、最初の一点だった。
鏡晶の樹海に着いたのは、昼過ぎだった。木々の樹皮が鏡のように光を返し、枝から枝へ光が跳ねて、あたり一面に星屑を撒いたように見える。
「きれい……。でも、すごく甘い匂い。樹液でしょうか」
「鼻を信用しすぎないで。この森は、匂いも光も嘘をつくから」
フィオナの忠告が終わる前に、ティナの耳がぴんと立った。
木の根元に、縄の罠にかかった幼い獣がうずくまっていた。子犬ほどの大きさで、白い毛並み。額に小さな角のようなこぶがある。
脚には細い縄が食い込み、血が滲んでいた。日が傾けば、森は暗くなる。罠を張った誰かが見回りに来る前に、外してやりたかった。
罠は、獣道の高さに合わせて張ってあった。引き縄の位置も、杭の打ち方も、素人の仕事ではない。シンはその仕掛けを帳に写し取ってから、獣に目を戻した。フィオナは結び目の形だけを、別の頁に描いている。
駆け寄ろうとしたティナの肩を、シンが押さえた。
「急に近づくと、怖がる」
シンは水筒の蓋を開けて地面に置き、後ろへ下がった。獣は唸り、後ずさろうとして縄に引かれ、きゅう、と鳴いた。バルトがそわそわと身を揺らす。
「俺が切ろうか」
「待ってくれ。もう少し」
光の粒が、獣の毛の上で淡く揺れる。やがて水の匂いに惹かれたのか、獣が鼻先を水筒へ伸ばし、ぴちゃ、と喉を鳴らした。
「バルト、今だ」
巨体に似合わない慎重さで、バルトが刃を当てた。ところが、縄は切れなかった。細い針金が編み込んであり、大槌の刃先が滑る。獣が身を固くした。
「貸せ」
ダリウスが腰の袋から小さな鋏を出し、針金を一本ずつ噛み切っていった。
縄がほどけると、ティナが背中の袋から薬草を出して、脚の傷に貼った。白い獣は一瞬縮こまり、それからそろそろとシンの足元へ寄って、足首に鼻をこすりつけた。ダリウスが目を丸くする。
「幻獣の子だ。カルクという。霧や虚像の濃淡を嗅ぎ分けるって話だが、実物は初めて見た」
獣はシンの膝に飛び乗って丸まり、手を伸ばしたバルトを完全に無視して、その頭によじ登った。赤茶の短髪の上に、白い毛玉がちょこんと座る。バルトは石になった。
「名前、つけないと」
「スノウ。白いから」
「単純」
「いいだろ」
スノウはバルトの頭の上で、ふわあ、と欠伸をした。バルトは動いたら落ちると本気で信じて、夕方まで、そのまま歩いた。
野営の焚火のそばで、ダリウスが拾った縄の切れ端を、指で何度も確かめていた。
「……まだ新しい。結び目も、素人の仕事じゃねえ」
「誰かが、この森で罠を張ってるってこと?」
「幻獣の子は高く売れる。そういう商売をする連中は、いる」
ティナが森の奥へ耳を向けた。
「さっき、風が変でした。誰かが木の陰で、息を止めたみたいな」
全員が暗がりを見た。鏡のような木々が、焚火の炎を何十にも増やして映している。その中のどれかに目が混じっていても、おかしくなかった。
シンは、膝の上で眠るスノウを抱き直した。罠の主は、獲物が消えたことに、もう気づいているはずだ。見回りに来るのは、夜明け前だろう。
「迎え撃つか、先に離れるか」
バルトが小声で訊いた。シンは首を振った。
「まだ決められない。この子をどこに隠すかが、先だ」




