風を聞く少女
日没でギルドの精算窓口が閉まる。それまでに話をつけなければ、ティナの報酬は半分に削られたまま確定してしまう。
薬種商の机の前で、白狼族の少女は笑っていた。灰白の髪の隙間で白い耳がぴくりと動き、尻尾は先ほどから落ち着きなく揺れている。
「もう一回、言ってもらえますか」
「案内料として、報酬の半分を引くと言ってるんだ。山の道を教えてもらったのは、こっちだろう。道案内は『無料のお手伝い』が慣例だ」
そんな慣例は聞いたことがない、と言いかけて、ティナは口を閉じた。十四歳。小柄で細身。それでも背中の袋には薬草と鉱石がぎっしり詰まっている。山を一人で歩いて、風の音で道を選んで、採ってきたものだ。
商人は、でっぷりした腹の上で指を組んだ。
「嫌なら、他の採取人に頼むだけだ。獣人の子供なんぞ、いくらでもいる」
ティナの笑顔は動かなかった。動かないまま、尻尾の揺れだけが止まった。
その様子を、シンは入口の柱の陰から見ていた。二週間の山の測量の帰り、同じ道を行く採取隊の案内役がティナだった。
落石の位置も、安全な足場も、水場も、ここ三日は彼女が選んだ道を測っただけだ。その図の写しを一枚、この商人に渡してある。帰りの荷車を通したいと頼まれたからだ。
商人の机の隅に、畳まれた紙が挟まっていた。見覚えのある紙だった。
シンは前へ出て、その紙を抜き取った。
「その採取には、俺たちも同行しました。道を選んだのは彼女です」
「なんだ、お前は」
「地図描きです。この図の右下を見てください」
紙を広げる。落石の位置、足場、水場が金色の線で引かれ、右下にはシンの字で『道案内 ティナ』と書き込んである。
「あなたの帰りの荷車は、この写しを見て出ましたよね。道を使っておいて案内は無料の手伝いだと言うなら、この図も無料だったことになります。ギルドの図書室なら、写し一枚で、薬草の報酬に近い値で買い取ります」
「写しを渡したのは、お前の勝手だろう」
「頼んだのは、あなたです。依頼の控えは、ギルドの窓口に残っているはずですよ」
隣でフィオナが、窓口の受付票をひらひらと振ってみせた。商人の顔から、血の気が引いた。
背後で順番を待っていた採取人たちが、ひそひそと囁き合う。
「案内料まで取られてたのか」
「あの店、二度と使うかよ」
商人は椅子の上で縮こまった。結局、報酬の全額と案内料の追加分が、ティナの手に渡った。窓口の閉まる鐘が鳴る、ひとつ前だった。
ティナは受け取った銀貨を、窓口の脇で二度数え直した。三つに分けて、二つは財布へ、残りのひとつは布に包んで上着の内側にしまう。シンは見ないふりをした。
ギルドを出ると、ダリウスが荷車に寄りかかって待っていた。ティナは尻尾を大きく振って、シンの周りをぐるぐる回った。
「ありがとうございますっ! 助かりました!」
「事実を言っただけだ」
「でも、嬉しかったです。あの、同行契約、してもいいですか」
「こっちから頼むつもりだった」
ティナの顔が、ぱあっと明るくなった。それから、思い出したように手を叩く。
「あ、お腹空いてませんか? 近くにおいしい屋台が」
「うちには、ダリウスがいる」
「ほんとですか!」
遠慮が一瞬で消えた。ティナは指を折って、骨付き肉と焼き芋を数え始め、指が足りなくなったところで、フィオナが紙の端でそっと止めた。
「三つ目から先は、明日にしなさい」
「明日も、いいんですか!?」
「毎日食べさせるつもりでいたんだけど」
ティナの尻尾が、目に見えて跳ねた。ダリウスが鼻を鳴らした。
「どんだけ食う気だ」
***
その夜、第八層の台所の戸を開けて、シンは固まった。
二週間、台所の鍵は保守班の老班長に預けてあった。その間に、鍋の位置が変わっている。調味料の棚は左右が逆になり、包丁の向きも、水瓶の蓋の向きも、知っているものではなかった。手が勝手に伸びた。
「直しておく」
「やめとけ」
後ろから、ダリウスの声が飛んだ。
「他人に任せた場所には、他人のやり方がある。お前の場所だが、お前だけの場所じゃなくなったってことだ」
シンは手を引っ込めた。右手でお玉を取ってみる。取りやすい。かまどから水瓶まで歩数を数えてみると、前より二歩も短かった。腹が立つほど、よく考えられた並びだった。
「悔しい」
「悔しがれ。それが、任せるってことだ」
深夜、みんなが寝静まってから、シンは足音を殺して台所に忍び込んだ。包丁立てに手をかけた瞬間、頭の上で、ごとんと音がした。梁の上に、ダリウスがお玉を構えて座っていた。
「小僧、寝ろ」
「はい」
翌朝、シンの額にはお玉の形の赤い跡がついていた。フィオナは朝食の間じゅう、それを見て笑っていた。
同行契約は、その朝のうちにまとまった。ティナがペンを走らせ、フィオナが一行ずつ確かめていく。氏名、報酬の割合、休養日。そして仕送り先の欄で、フィオナの指が止まった。
「ここ、空欄だけど」
「あ、それは」
ティナは笑った。それまでとは、少し違う笑い方だった。
「気にしないでください。大丈夫です」
フィオナは何も言わず、書類を畳んだ。畳む直前、欄の端に目が留まった。何かを書きかけて、指でこすって消した跡が、薄く残っていた。




