旗より先に台所
「団を作る。ただし、このままだと金が三か月でなくなる」
シンが帳簿を机に広げた朝、バルトは三杯目の粥を飲み込みながら言った。
「旗は赤にしようぜ。強そうだ」
「待って。先に決めることがあるでしょう」
フィオナの手帳が、机にばしんと叩きつけられた。
「記録室はどこ。食材は誰が買うの。薪代は。給金の締めは」
「……旗は?」
「後!」
黒鉄の第五層の保守室を記録室に、第八層の休養区画を台所にする。そこまではすぐ決まった。決まったあとで、全員が固まった。湯気の立つ鍋を囲んだまま、誰も皿を洗おうとしない。
「洗うのは、いちばん最後に食べ終わった人にしよう」
「それ、バルトが毎回当たるわね」
「食べるのが遅いからでしょう」
「お前らが速すぎるんだ!」
二人が押し問答をしている間に、鍋の底が焦げついた。バルトが焦げの欠片を指でつまんで口に入れ、重々しく頷く。
「料理人が要る」
「要るわね」
「あと、この焦げは俺のせいじゃねえ。シンが目を離したからだ」
「俺?」
「地図を見て、鍋を忘れた」
反論できなかった。ただ、シンは鍋をひっくり返して、底の焦げ方を眺めた。左半分だけが真っ黒で、右半分はほとんど白いままだった。
帳簿の数字も深刻だった。B級昇格の報酬と地図の売上を足しても、三人分の食費と薪と道具代で、三か月ともたない。フィオナが鉛筆の尻で額を叩いた。
「心当たりがあるわ。ギルド裏の食堂に、膝を悪くした元工兵の料理人がいるって」
バルトが勢いよく立ち上がった。
「肉は焼けるのか。連れてこい、今すぐ」
「今すぐは無理よ!」
皿を洗わずに外へ飛び出そうとしたバルトを、フィオナが襟首を掴んで連れ戻した。皿は、結局シンが洗った。
***
ダリウスは、ギルド裏の食堂で鍋を睨んでいた。三十八歳、無精ひげ。左膝には鉄と革を組んだ装具をつけている。元は魔装工兵で、いまは日雇いの調理人だ。昼の仕込みの最中に現れた三人を、彼は一瞥もせずに迎えた。
「何の用だ」
「第八層の台所で、毎日の食事を作ってほしいんです」
シンが頭を下げると、ダリウスは鍋の蓋を取り、ひと匙を味見してから、無言で紙を突き出した。
「見積書だ」
細かい字がびっしりと並んでいた。食材費。燃料費。調味料。予備の鍋。保守用の工具。最後の行だけが太い字で、日給は銀貨八枚、月に四日は完全に休むこと、分け前は他の団員と同率、と書いてある。
フィオナが声を出さずに数字を追って、顔をしかめた。
「高いわ。けど、妥当ね」
「安く使うなら他を当たれ。うまい料理は安売りしねえ」
ダリウスは腕を組んだ。
「もうひとつ。若い連中は無茶をする。俺は止める、何度でもな。うるせえと思うだろうが、それも仕事のうちだ」
左膝をぽんと叩くと、装具がからんと鳴った。シンは見積書を最後の行まで読んで、途中の一行で目を止めた。
「この保守用の工具は、火口の掃除にも使えますか」
「火口?」
「第八層のかまどです。鍋が左半分だけ焦げました。炎が片側に寄っている気がします」
ダリウスの眉が、ぴくりと動いた。見積書から顔を上げて、少年を上から下まで眺める。
「……口金に煤が詰まると、炎は偏る。そこに気づいたのは誰だ」
「焦げ跡を見ただけです。バルトには、俺が目を離したせいだと言われましたけど」
「半分は当たってるな」
ダリウスは首の後ろを掻いた。それから、見積書を指先で弾いた。
「で、値は。叩くなら今のうちだぞ」
「値切りません。全部、その条件でお願いします」
「あ?」
「止めてもらえるなら、助かります。俺は自分では止まれないので」
食堂の喧騒が、一瞬だけ遠のいた。ダリウスは、少年の旋毛をしばらく見下ろしていた。
「……変なガキだ。こっちはな、半分に叩かれると思って、倍の額を書いたんだぞ」
「えっ」
フィオナが、うっかり吹き出した。
「ごめんなさい。この人、見積書は読むのに、駆け引きは読まないの」
「ったく。値切らねえ奴は、金を払わねえ奴より怖い。……分かった、行く。ただし、俺の鍋は俺が運ぶ」
その日の夕方、第八層の台所に着いたダリウスは、荷を解くより先に火口を外した。細い針金で口金の煤を掻き出し、元に戻して火を入れる。炎は、五分で左右そろって青く立った。
「焦げの犯人は、これだ。小僧のせいじゃねえ」
「……悪かった」
バルトが、頭を掻いた。
その夜の食卓には、骨付きの塊肉を赤い酒と香草で半日煮込んだ皿が出た。匙を入れただけで、肉がほろりと崩れる。バルトはひと口食べて固まり、そのまま何も言わなくなった。皿は三回空になった。
翌朝、台所の壁に一枚の紙が貼られていた。
『台所の掟
一、食事の前に地図を広げるな。
二、鍋の前で目を離すな。
三、残すな。
四、皿を洗うのは、いちばん最後に食べ終わった者。(おかわりは三杯まで)』
「四番、俺だけ狙い撃ちじゃねえか!」
「文句があるなら、早く食え」
ダリウスは、振り向きもせずに言った。フィオナが紙の端に、鉛筆で小さく『五、食事中の手帳は没収』と書き足す。
「それは私にも当たるんだけど」
「書いたのは、お前だ」
「ええ。守れる自信はないわ」
笑いの輪の外で、バルトが四番の下に、自分の名前をこっそり署名していた。洗い物の係を、自分から引き受けた印だった。誰も気づかないふりをした。
シンが外套を取りに立つと、ダリウスが鍋をかき回しながら言った。
「遠征に出るなら、台所の鍵を誰に預けるか決めとけ。火の消えた台所は、三日で傷む」
鍵の束は、シンの手の中にあった。第五層の記録室、第八層の台所、水と灯りの弁。預けられる相手は、一人しか思い当たらなかった。




