第9話 オークションと八神
競売が始まってから、最初の数点は眺めているだけで済んだ。
古い銀貨。
獣の皮で綴じられた書物。
水に浸けると持ち主の夢を映すという鏡。
鏡の説明を聞いた天使さんが、「どういう仕掛けなの?」と尋ねた。
八神は「買えば調べられる」と答えた。
その時点で、警戒すべきだったのだろう。
次に運ばれてきたのは、掌に収まるほどの金の鳥だった。
細工物らしい。
台へ置かれると、誰も触れていないのに翼を広げた。
羽の一枚一枚が薄く震え、澄んだ音が会場へ広がる。
「綺麗……」
天使さんが小さく呟いた。
「そうか」
八神が指を上げた。
「二千万」
僕はジュースを飲み込んだ。
危うく、別の場所へ入るところだった。
「……何をなさっているのですか」
「入札だ」
「それは見れば分かります」
「では聞くな」
別の席から声が上がった。
「二千二百万」
「一億」
八神は、ほとんど間を置かなかった。
会場のどこかで笑い声がした。
驚いたような声も混じる。
女性司会者が一瞬だけ息を止め、それから滑らかに金額を復唱した。
競争相手は札を下ろした。
小槌が鳴る。
「落札でございます」
八神は、もう鳥を見ていなかった。
「待ってください」
「何を待つ?」
「二千二百万に対して、なぜ一億なのですか」
「長引く」
「長引かないために払う額ではありません」
「私の金だ」
そのとおりだった。
そのとおりだが、その数字を帳簿へ入れるのは誰だと思っているのか。
確認のために係員が近づき、八神が端末へ指を触れる。
電子音が一度鳴った。
本当に買ったらしい。
僕は卓上へグラスを置いた。
底を置く位置を、少しだけ誤った。
◇
そこから先は、ひどかった。
失われた王朝の腕輪。
「模様が細かいのね」
「三千万」
夜になると内側に別の空を映す小箱。
「これ、ずっと見ていられそう」
「八千万」
持ち主の足音を消すという靴。
「それは少し便利かも」
「五千万」
「天使さん」
僕は低い声で呼びかけた。
「何?」
「しばらく感想を控えていただけますか」
「どうして?」
本人には、まったく心当たりがないらしい。
八神は笑っている。
「彼女のせいにするな。買っているのは私だ」
「それは承知しています」
「なら、いいだろう」
「よくありません」
別の客が価格を上げれば、八神は五倍、十倍の額を平然と告げた。
相手が考える時間さえ、与えない。
最初こそ面白がっていた周囲も、次第にこちらを見る回数が増えてきた。
下の席で腕を組む者。
隣の客へ何かを囁く者。
僕たちの区画を露骨に睨む者。
そのたびに僕は、座る位置を少しずつ奥へずらした。
「あなた、いつもは封筒の再利用にまで口を出しますよね」
「あれはまだ使える」
「僕の食事代には、領収書が一枚足りないだけで――」
「証拠がなければ精算できない」
「ここまでの整合性について、説明を求めます」
「不要な金は使わない。欲しいものには使う」
八神はグラスの中身を揺らした。
「何か矛盾があるか?」
僕はこめかみを押さえた。
守銭奴という言葉を、この人物へ当てはめた自分が浅はかだった。
金を出し渋る対象と、出し惜しまない対象が、完全に分かれている。
そして僕は、前者に含まれている。
「あの、八神さん」
ようやく天使さんも気づいたらしい。
「私、買ってほしいって言ってるわけじゃないですからね」
「分かっている」
「本当に?」
「ああ。欲しいと言われてからでは面白くない」
「そういう話でもありません」
僕が口を挟む。
八神は、今度はこちらを見た。
「君は何も欲しがらないな」
「会計上の平穏を望んでいます」
「売っていない」
「あなたが買うのをやめれば手に入ります」
八神が喉の奥で笑った。
まるで通じていない。
次に出てきたのは、小さな透明の花だった。
ケースの中で、花弁がゆっくり開いていく。
天使さんの目が輝いた。
僕は彼女を見る。
天使さんは僕を見る。
口を開きかけて、閉じた。
八神が、二人を交互に眺めた。
「仲がいいな」
「あなたのせいです」
気づけば、学校を出たときよりも疲れていた。
◇
「それでは、第一部最後の出品となります」
女性司会者の声に、会場の空気が変わった。
話し声が減る。
前のめりになる人影が、あちらこちらに見えた。
僕は椅子へ深く座り直した。
ようやく休憩に入るらしい。
今すぐ部屋へ戻りたい。
ホテルのあの椅子で、目を閉じたい。
そう考えていたところへ、新たな台が運ばれてきた。
先ほどまでより、スタッフの人数が多い。
台を固定し、足元を確認し、係員が一人ずつ離れていく。
最後に残った女性が、厚い布へ手をかけた。
「原初精霊の力を宿す、十三種の精霊石。その完揃いでございます」
布が落ちた。
黒い台座の上に、十三の石が並んでいた。
赤。
青。
緑。
琥珀色。
ほかにも、ひとつの色では言い表せないものがある。
内側に細い光を抱く石。
光が当たっているはずなのに、底が見えない石。
透明なのに、その向こうを透かして見ることのできない石。
僕は息を止めた。
遠い。
舞台は、確かに遠くにある。
それなのに、水色の石の表面へ浮かんだ光が、指を伸ばせば触れられるところにあった。
冷たい水へ手を差し入れたときの感覚が、掌を過ぎる。
僕は無意識に指を曲げた。
石の中に、何かがある。
光が動いているのではない。
動いたものを、光として見ている。
「間久部君?」
声をかけられ、顔を上げた。
天使さんがこちらを見ていた。
「どうしたの?」
「……いえ」
僕は手を膝へ戻した。
いつの間にか、上体を前へ傾けていた。
八神は何も言わなかった。
ただ、グラスを持つ手が止まっていた。
「火、水、風、土をはじめ、それぞれ異なる力を宿した十三石。単体での出品例はございますが、この状態で揃ったものが公の取引に供されるのは、極めて稀でございます」
女性の説明が、ようやく意味を持って耳へ入ってくる。
「開始価格は、一億円相当から」
僕は椅子の背へ身体を戻した。
そうだろう。
この場に出てくるものが、僕の手に届く価格であるはずがない。
まして、この石だ。
惹かれた理由は分からない。
分からないが、値段を聞けば、考える余地もなくなる。
僕は水色の石から視線を外した。
給仕が新しい飲み物を置いてくれる。
礼を述べ、グラスへ手を伸ばした。
「それでは、入札を――」
「百億だ」
指が止まった。
会場も止まった。
上がりかけた札が、いくつも途中で静止している。
司会者の口が、わずかに開いたままだった。
僕は横を向いた。
八神が、足を組んで座っていた。
左手にシャンパン。
右手の人差し指を、何でもないことのように掲げている。
隣で、天使さんが小さく息を吸った。
「……八神さん?」
八神は舞台を見ていた。
笑ってさえいなかった。
それが、かえって悪かった。
冗談である可能性を、顔から探せない。
「百億、と……」
司会者が言い直した。
さすがに、声の調子が変わっていた。
そのとき、向かい側の上席から札が上がった。
「百一億――」
「二百」
八神が告げた。
天使さんが、僕の袖をつかんだ。
僕も何かをつかみたかった。




