第10話 うまれたひ
最初に聞こえたのは、短い笑い声だった。
続いて、あちこちで人が話し始める。
ざわめきが膨らみ、その中から鋭い声が飛んできた。
「ふざけるな!」
「支払う気があるのか!」
「さっきから何なんだ、あの席は!」
僕は背筋を伸ばした。
縮こまったところで、見えなくなるわけではない。
分かっていても、もう少し低い椅子であればよかったと思う。
「八神さん」
「何だ」
「いくら何でも、これは」
「欲しいと言った覚えはないか?」
「その金額の話です」
「足りる」
即答だった。
僕がさらに口を開く前に、区画の入口で一礼する人影があった。
それまで確認に来ていた係員とは、服装が違う。
責任者らしい男が、二人のスタッフを伴って立っていた。
「失礼いたします。ご入札額について、確認をさせていただきたく」
「二百億だ。聞こえなかったか」
「金額は承知しております。通常の確認枠を大きく超えておりますので、お支払いの手段と、ご本人様の――」
男の声が止まった。
僕の脇で、紐のほどける音がした。
見下ろす。
持たされていた包みが、動いていた。
誰も触れていない。
一本目の紐が落ちる。
二本目も緩む。
「八神さん」
呼びかけたときには、布が開いていた。
光が、こぼれた。
最初に現れたのは、七色に移ろう柄拵えだった。
細身の長剣。
露わになった刀身から、夜明けに似た明るさが溢れていた。
陽光覇剣。
その隣では、鈍色の曲剣が、周囲の光を吸い込んでいる。
こちらにも見覚えがある。
霧氷月影。
そして、三本目。
両刃造りの西洋剣だった。
刀身の内側に、小さな光が瞬いている。
光は細い線で結ばれ、見知らぬ星座を浮かび上がらせていた。刃がわずかに傾くと、星の配置まで奥行きを変える。
夜空を剣の形へ閉じ込めたようだった。
三振りが、開かれた布の上から静かに身を起こした。
倒れない。
僕の手を借りずに、そこに立っている。
ホールの照明が暗くなったわけではなかった。
ただ、ほかの光へ目を向けることができなくなった。
「……三星剣」
誰かが言った。
責任者の男が、八神を見た。
次に剣を見る。
言いかけていた言葉を飲み込む喉の動きが、はっきり見えた。
下の席で、椅子の軋む音がした。
立ち上がった者がいる。
向かいの席では、上がっていた札がゆっくりと下ろされた。
「三つ剣……」
「八神か」
名前が、人から人へ渡っていく。
先ほどまでの怒号は、戻ってこなかった。
八神はグラスを卓上へ置いた。
その小さな音まで聞こえるほど、周囲は静かだった。
天使さんも黙っていた。
剣を見ている。
綺麗だとも、すごいとも言わない。
ただ、膝へ置いた手が、いつの間にかきちんと揃えられていた。
「……これを」
僕は声を落とした。
「僕に持たせていたのですか」
「軽かっただろう」
そういう問題ではない。
責任者は姿勢を正し直した。
「ご本人の確認は、取れました。お支払いにつきましても、登録内容を確認いたしました」
「なら、問題はないな」
「ご決済に関しては」
男は、そこで言葉を切った。
八神がわずかに顎を上げる。
「ほかにあるのか」
「少々、やりすぎでございます」
丁寧な声だった。
けれど、そこには明確な抗議があった。
僕はこの人を、少し尊敬した。
「競売をお楽しみいただくことと、ほかのお客様が参加なさる余地をなくすことは、別でございます」
「対抗すればいい」
「できる方も、続ける気をなくされます」
八神は男を見た。
男も目を逸らさなかった。
しばらくして、八神が会場へ視線を戻す。
こちらを見上げる顔が並んでいた。
怒っている者。
困っている者。
様子を窺っている者。
華やかだった会場が、今は誰かの次の言葉を待つだけの場所になっている。
「……それも、つまらないな」
八神が呟いた。
反省している声ではなかった。
気に入っていた遊び場が、急に静かになってしまった。
そんな不満に聞こえた。
「では、石以外は大半を返す。先ほどまでの品を、もう一度出せばいい」
「落札のお取り消しをご希望、ということでしょうか」
「ああ。必要な費用はこちらで持つ。出品者への説明も任せる」
「出品者様の同意と、再競売の手順については、主催側で調整いたします。ただし、精霊石につきましては――」
「分かっている。こちらは買う」
八神は、まだ何かを言おうとする男へ、軽く手を振った。
「金額が不服なら、三百億でも構わんぞ」
僕は顔を上げた。
天使さんも、同時に八神を見た。
責任者だけが、表情を変えなかった。
「三百億で、よろしいのですね」
「ああ」
「承りました」
一礼。
あまりにも滑らかな動作だった。
僕が口を挟むより早く、男は襟元の小さな機器へ指を添えた。
「最終入札額の変更です」
嫌な予感がした。
いや、もう予感ではなかった。
舞台の女性司会者が、耳元へ軽く手を当てる。
こちらを見る。
それから、見事な微笑みを浮かべた。
「皆様、大変お待たせいたしました」
明瞭な声が、ホールへ響き渡った。
「ご入札者様より、最終ご提示額の変更を承りました。十三種の精霊石は――三百億円にて、落札でございます」
小槌が鳴った。
乾いた音が、やけにはっきり聞こえた。
僕は責任者を見た。
責任者は、深く頭を下げていた。
「お買い上げ、誠にありがとうございます」
隣で天使さんが口を開いた。
何も言わずに閉じた。
もう一度開く。
「……今、百億、増えた?」
「ええ」
自分でも驚くほど平坦な声が出た。
「おそらく、増えました」
八神が黙っている。
さすがに怒ったのだろうか。
僕は恐る恐る、その顔を見た。
八神は、責任者を見上げていた。
唇の端が、ゆっくりと持ち上がる。
次の瞬間、笑い声が弾けた。
「は、はははっ!」
僕は目を疑った。
八神が笑っていた。
いつもの、口元だけを動かす笑い方ではない。
肩を揺らし、顔をわずかに上へ向け、声を立てて笑っている。
金色の髪が、そのたびに胸元で揺れた。
「やるじゃないか!」
責任者は頭を上げた。
その顔には、礼儀正しい微笑みがあるだけだった。
「ご提示を、正確に承ったまででございます」
「まったくだ。私が言った」
八神はまだ笑っていた。
シャンパンのグラスを取り、男へ向けてわずかに掲げる。
「いいだろう。三百億だ」
「ありがとうございます」
僕は二人を交互に見た。
何が面白いのか、分からない。
分からないが、八神が心底愉しんでいることだけは分かった。
責任者が下がる。
天使さんが、僕へ顔を寄せた。
「ねえ。止めなくていいの?」
「どの時点まで戻れば止められるのか、考えているところです」
学校を出る前だろうか。
あるいは、一か月前に請求書を受け取ったときか。
八神は笑いの余韻を残したまま、グラスへ口をつけた。
「いい顔をするな、二人とも」
「あなたは、ずいぶん楽しそうですね」
「ああ。来た甲斐があった」
その一言で百億を納得できる人間に、僕は生涯なれそうにない。
やがて舞台から、先ほどまでの落札品について説明が入った。
出品者の了承が得られた品は、改めて競売の機会を設けること。
該当品と手順は、休憩中に案内すること。
会場のあちこちで、止まっていた会話が戻り始めた。
精霊石の決着に呆れたような顔もあれば、再競売の案内を待ちかねて資料を開く者もいる。
少なくとも、大半の客にとっては、競売を続けられる形に収まったらしい。
僕だけが、まだ収まっていなかった。
頭の中で、二百という数字を消す。
三百と書き直す。
たった一文字の違いだった。
それが、今日いちばん恐ろしかった。
休憩に入ると、会場が少し明るくなった。
立ち上がる客が増え、下の通路を人が流れ始める。
三星剣は、いつの間にか元の包みへ収まっていた。
布は閉じている。
紐まで結び直されていた。
僕はなるべく、そちらを見ないようにした。
「あの剣も、売り物なんですか」
天使さんが尋ねた。
八神は首を振る。
「違う」
「……そうですよね」
彼女は包みから視線を外した。
何かを続けて尋ねたそうだったが、言葉にならなかったらしい。
ほどなくして、先ほどの責任者が戻ってきた。
今度は、小さな箱を携えている。
決済の完了。
受け渡しの確認。
箱の封印が解かれていないことの確認。
いくつかの手続きを経て、箱が卓上へ置かれた。
八神が留め具を外す。
十三の石が現れた。
間近で見ても、先ほどとの距離の違いが分からなかった。
あのときから、僕の目にはこの大きさで映っていたような気がする。
水色の石が、静かに光を返した。
僕は意識して視線を八神へ向けた。
「そろそろ、教えていただけますか」
「何を」
またそれか。
「僕をここへ連れてきた理由です」
天使さんも顔を上げる。
「そうですよ。買い物なら、八神さん一人でもできたでしょう」
「できるな」
「でしたら、なぜ」
「麗。手を出せ」
僕は黙った。
八神は箱の中から、水色の石をつまみ上げた。
細い指の間で、光がゆっくり動く。
「何をするつもりですか」
「確かめる」
「先に説明を」
「右手でいい」
八神の声は、ひどく穏やかだった。
僕はその穏やかさを信用していない。
信用していないのに、石へ視線が戻った。
冷たい水へ触れたときの感覚が、掌に蘇る。
迷った末、僕は右手を出した。
八神が手首を取る。
次の瞬間、人差し指に小さな刺激が走った。
「っ」
反射的に手を引いた。
引けなかった。
いつの間にか、指の付け根を押さえられている。
力を込められた感触はない。
それなのに、動かせない。
「動くな」
「何を――」
「ちょっと、血が出てるじゃない!」
天使さんが立ち上がりかけた。
八神はそちらを見なかった。
僕の指先に、小さな赤い玉が膨らんでいた。
それが落ちる。
水色の石へ触れた。
赤い色は、表面を伝わらなかった。
石の中へ、静かに吸い込まれていった。
僕は息を止めた。
光が動く。
さっきまでとは違う動きだった。
奥にあったものが、こちらへ向き直ったような。
八神が手を離した。
指先を見る。
血は、もう出ていなかった。
「あなたは、本当に説明を――」
八神の指が開いた。
石が放られた。
僕へ向かって、小さな弧を描く。
考えるより早く、両手が出た。
受け止める。
掌の中で、水色の光が一度だけ揺れた。
三百億。
十三個。
割り算をしようとして、やめた。
「何をするんですか!」
僕と天使さんの声が、ほとんど重なった。
八神は、愉しげに目を細めた。
騒がしい会場の中で、その唇の動きだけが妙にはっきり見えた。
「ハッピーバースデー」
僕は、八神を見た。
言葉の意味は分かる。
けれど、それが自分へ向けられたものだと理解するまでに、少し時間がかかった。
「……間久部君、今日なの?」
天使さんの声に、返事ができなかった。
掌の石へ視線を落とす。
冷たいと思っていた。
触れていると、不思議と、そうでもなかった。
その日、僕は十七歳になった。




