第8話 華やかな舞台 弍
鏡の中に、見慣れない自分がいた。
濃紺のスーツに白いシャツ。落ち着いた色のタイは、係員が用意したものだ。袖口から覗くシャツの幅まで整えられ、普段は特に気にしていない髪にも手が入っている。
服を替えただけで、ここまで印象が変わるものらしい。
ただ、疲れた目までは替えてもらえなかった。
「お似合いでございます」
「ありがとうございます」
礼を述べると、係員は満足そうに一礼した。
何度も袖を確かめ、背中の皺を直してくれた人だ。その手間に対してまで、愛想を惜しむ理由はない。
扉の外へ出ると、天使さんはすでに支度を終えていた。
淡い青のドレス。
衣装掛けにあったときより、ずっと柔らかく見えた。
腰から広がる布が、動くたびに光を変える。髪はまとめられ、普段は隠れている耳元で、小さな石が揺れていた。
彼女は僕を見るなり、口を開いた。
何か言いかけて、閉じる。
「……ちゃんとすると、ちゃんとしてるのね」
「普段から、相応に身だしなみには気をつけていますが」
「そういう意味じゃなくて」
天使さんは自分の髪飾りへ手を伸ばしかけ、途中でやめた。
せっかく整えてもらったものを崩したくないのだろう。
「あなたはどう思う?」
「何についてですか」
「見れば分かるでしょう」
僕は改めて彼女を見た。
普段、制服の袖をまくって人を追いかけている姿とは、ずいぶん違う。
本人が少し落ち着かない様子なのも、その違いを大きくしていた。
「よく似合っています」
天使さんが瞬きをした。
「……ありがとう」
それから、少しだけ声を落とす。
「歩きにくいけど」
「先ほどのような動きは控えてください」
「しないわよ。何もなければ」
条件がついた。
何も起きないことを願うしかない。
「いいじゃないか」
八神が、長椅子から立ち上がった。
僕たちを順に見て、唇を緩める。
「見違えた。連れて歩く甲斐がある」
「品評会に出される予定はありません」
「君は褒められるのが下手だな」
「褒め方にも問題があるのでは」
八神は答えず、天使さんへ視線を移した。
「君もよく似合っている。その色にして正解だ」
「ありがとうございます」
天使さんは素直に頭を下げた。
「それで、これから何をするんですか」
礼と追及は、別らしい。
八神は笑ったまま、扉へ向かった。
「歩きながら話そう」
◇
廊下には、ほとんど足音が響かなかった。
厚い絨毯が、僕たちの靴音を吸い込んでいく。
壁に掛かった絵も、等間隔に置かれた花も、値段を想像したくないものばかりだった。
八神は慣れた足取りで進んでいた。
行き交う係員が、そのたびに立ち止まって頭を下げる。
「そろそろ説明をお願いします」
「何を?」
「依頼の内容です」
「依頼?」
八神が、さも不思議そうに振り返った。
あまりに自然だったので、一瞬、自分が聞き間違えたのかと思った。
「僕たちをここへ連れてきた理由です」
「正装して出かける理由が、仕事とは限らないだろう」
「あなたに呼ばれて、仕事ではなかったことがありません」
「君は今日、休みだったはずだが」
足を止めそうになった。
今、その言葉を盾に使うのか。
「でしたら、なぜ僕はここにいるのでしょう」
「それを今から確かめに行く」
「八神さん」
天使さんが割って入った。
「説明するって約束しましたよね」
「しているだろう」
「してません。さっきから言い方を変えてるだけです」
八神は彼女を見て、楽しそうに目を細めた。
僕が同じことを言ったときより、少しだけ興味深そうだった。
「二人いると、賑やかだな」
「誰のせいだと思ってるんですか」
天使さんの声が大きくなる。
近くにいた係員がこちらを向いた。
彼女はそれに気づき、口を閉じてから、小声で「すみません」と謝った。
八神には謝らなかった。
それでいいと思う。
角を曲がったところで、待っていた黒服の男が一礼した。
腕には、細長い包みを抱えている。
八神は受け取らず、顎で僕を示した。
「麗に」
男が僕へ差し出す。
両手で受けると、見た目ほどの重さはなかった。
丈夫な濃色の布に包まれ、数か所を紐で留めてある。長さはあるが、抱えて歩くのに苦労するほどではない。
「これは?」
「持っていてくれ」
「中身を伺っています」
「必要なものだ」
「何に使うのですか」
「必要なときに必要になる」
僕は包みを見た。
次に八神を見た。
相手は微笑んでいた。
もう一度尋ねても、得られる情報は増えないだろう。
僕は包みを抱え直した。
「……分かりました」
「分かっちゃうの?」
天使さんが驚いた顔をする。
「これ以上の問答が無駄だということが、分かりました」
「物分かりのいい助手で助かる」
その言葉に返事はしなかった。
◇
扉が近づくにつれ、人の声が増えてきた。
話し声に、食器の触れ合う音が混じっている。
廊下の先には、礼装した男女が何人も立っていた。
髪の色も、肌の色もさまざまだ。身につけているものは上等なのに、靴だけがひどく使い込まれている人もいる。杖を持った老人の隣を、片腕のない若い女が歩いていった。
何人かは、八神を見ると足を緩めた。
顔を確かめるように見つめ、そのまま連れの者へ何かを囁く。
八神は気にした様子もなかった。
係員が両開きの扉を開けた。
その向こうへ足を踏み入れ、僕は思わず立ち止まった。
大きなコンサートホールだった。
中央に円形の舞台があり、その周囲を客席が取り巻いている。
客席は舞台へ向かって段々に下がっていた。すり鉢の底へ舞台を置き、縁まで人で埋めたような構造だ。
向こう側の席まで、隙間なく人影が続いている。
そのさらに上には、張り出した小さな区画がいくつもあった。
僕たちが案内されたのは、そのひとつだった。
独立した入口を持つ、上階の席。
舞台も客席も見渡せる位置に、ゆったりとした椅子が三脚置かれている。傍らには小さな卓。後方には給仕が控えていた。
「演奏会?」
天使さんが下を覗き込んだ。
僕も舞台を見る。
譜面台も、楽器もない。
代わりに、重そうな扉が舞台の奥にあった。
床には、細い線が幾重にも描かれている。
装飾だろうか。
目で追いかけていると、途中から線の重なり方が分からなくなった。
「二人とも」
振り返ると、八神はもう座っていた。
足を組み、細い脚のグラスを持っている。
淡い金色の液体の中を、小さな泡が上っていた。
「いつまで立っているつもりだ」
「状況を把握しているところです」
「座ってもできる」
八神はグラスを口へ運んだ。
その横顔には、これから何かを説明しようという気配がない。
「腹も空いているだろう。食べておけ」
「そういえば、お昼まだだったわね」
天使さんが椅子へ座った。
早い。
「飲み物をいただけますか。ジュースがあれば」
「オレンジ、りんご、ぶどうなどをご用意しております」
「では、オレンジをお願いします。それと……こちらを」
差し出された小さな献立から、軽食を選んでいる。
僕が見ていると、天使さんは顔を上げた。
「何?」
「順応が早いですね」
「座って食べるだけでしょう。説明は、食べながらでも聞けるし」
それはそうだ。
そうなのだが。
「麗。君は立食が好みか」
「違います」
「なら座れ。君だけ立っていると、私が普段から酷使しているように見える」
「普段から酷使していますよね」
八神は、僕の抱えている包みへ目を落とした。
そのままでは腰も下ろせない。
僕は椅子の脇へ慎重に立てかけ、座った。
給仕が静かに近づいてくる。
「……彼女と同じものをお願いします」
「シャンパンは?」
八神がグラスを少し持ち上げた。
「結構です」
「少しくらい、味を覚えておいても損はないぞ」
「僕は酒を飲みません」
「私もです」
天使さんも、きっぱりと言った。
「まだ高校生なんですから。勧めないでください」
二人の返事を聞いて、八神は小さく肩をすくめた。
「つまらないな」
「飲食で雇用主を楽しませる契約はしていません」
「君は、何にでも契約が必要だな」
「必要なところで省略され続けている反動です」
給仕が口元を引き締めたまま、一礼して下がった。
◇
運ばれてきた皿には、小ぶりのサンドイッチが並んでいた。
一つ口へ運ぶ。
思っていた以上に空腹だったらしい。
飲み込んだ途端、胃がようやく仕事を始めたような感覚がした。
「おいしい」
天使さんが呟く。
八神は何も言わず、会場を見下ろしていた。
やがて、中央の舞台に数人のスタッフが現れた。
厚い布に覆われた台が運び込まれる。
続いて、黒いドレスを着た女性が中央へ進み出た。
照明が変わる。
客席がわずかに暗くなり、舞台へ光が集まった。
「皆様、大変長らくお待たせいたしました」
女性の声が、明瞭に響いた。
口元の動きと、聞こえる言葉が合っていない。
僕が眉を寄せると、八神が横から告げた。
「翻訳は席についている。細かいことは気にするな」
細かいこと、の範囲が広すぎる。
「本日ここに、第一部の競売を開会いたします」
拍手が起こった。
口笛まで聞こえる。
静かな演奏会を想像していたらしい天使さんが、目を丸くした。
「オークション?」
「そういうことだ」
八神は満足そうにグラスを傾けた。
女性の挨拶が続く。
数年のうちに幾度かだけ開かれる、祓い屋とその周辺業者のための大規模な取引の場。
各地で回収された財宝や呪物。
魔物、妖異の身体から得られる希少な素材。
宝石、霊具、対魔道具の新製品。
滅びた部族の遺物から、特別禁止令によって普段は流通しない品まで、条件を整えたうえで持ち込まれるのだという。
今回は、とりわけ伝説に名を残す品の出品が多い。
参加者数も過去最高だと、女性は誇らしげに告げた。
僕は改めて客席を見た。
この人数が、同じ稼業に関わっている。
事務所を訪れる客や、買い出し先の店主たちとは比較にならない。
僕がこの一か月で見たものは、入口の、そのまた手前にすぎなかったらしい。
「ここにいる人、みんな八神さんと同じお仕事なの?」
「同じとは限らない。売るだけの者もいれば、研究する者もいる」
「へえ……」
天使さんは舞台を見つめていた。
祓い屋という仕事を、彼女はまだよく分かっていない。
旧校舎での出来事も、記憶のところどころが欠けたままだ。
奇妙な商売ではあるけれど、本当に幽霊を相手にしているのかは怪しい。
彼女の反応は、その程度のものだった。
舞台の布が取り払われた。
透明な容器の中に、黒い角が一本、収められていた。
緩やかに湾曲した表面には、幾筋もの溝が走っている。
磨かれた黒い石にも見えた。だが、光が当たっても、その奥まで明るくなることはない。
僕には、角の周囲だけがわずかに歪んで見えた。
熱気に揺らぐ景色に似ている。
ただし、肌へ触れたのは冷気だった。
「大きい。何の角かしら」
天使さんが身を乗り出した。
確かに、大きい。
台座との比較でしか分からないが、あれだけで人の腕ほどもある。
しかも、根元だと思った箇所は、不自然なほど細かった。
僕は目を凝らした。
あれは、根元ではない。
折れている。
「こちらは、第二部の特別出品に先立ちまして、皆様にご覧いただくものでございます」
女性司会者が、角の傍らへ立った。
「本展示品は、角の先端部のみとなります」
会場の話し声が、少しだけ減った。
天使さんが瞬きをする。
「先っぽだけで、あれ?」
司会者は微笑んだ。
「全容につきましては、第二部にて」
舞台奥の扉へ、視線が向けられる。
その扉は、ただスタッフや商品を出し入れするためにしては大きすぎた。
「今回の特別出品は、ドラゴンの全身剥製でございます。こちらの角も、その個体の一部としてお納めいたします」
ざわめきが広がった。
笑い声も、感嘆の声も聞こえた。
けれど僕の目に留まったのは、黙ったまま舞台を見ている人たちだった。
ある老人は手元の資料を閉じた。
その隣の女は、角から一度も視線を外さなかった。
「ドラゴンって……竜のことよね」
天使さんが僕へ尋ねる。
「そのようですね」
「全身って、どれくらいあるのかしら。よくホテルへ運び込めたわね」
精巧な見世物か、珍しい標本を想像しているらしい。
僕は返事をせず、角を見ていた。
死んだものの一部。
しかも、先端だけ。
それでも、喉の奥が狭くなるような感覚があった。
あれが頭につき、その下に首と胴が続いていたとしたら。
大きさを思い描こうとして、途中でやめた。
「八神さん」
「何だ」
「あれは、本物なのですか」
八神は舞台を見たまま、グラスを傾けた。
「偽物に、これだけの客は集まらないだろう」
答えになっているようで、なっていない。
僕がもう一度尋ねる前に、角へ布が掛けられた。
透明な容器ごと、台が運び出される。
舞台奥の扉が開いた。
暗い隙間だった。
ほんの一瞬、その向こうまで見ようとしてしまった。
「麗」
八神に呼ばれ、顔を向ける。
「食べないのか」
皿には、サンドイッチが残っていた。
「……食べます」
返事をして、ひとつ取った。
扉が閉まる音がした。
それでようやく、自分が肩へ力を入れていたことに気づいた。




