第7話 華やかな舞台 壱
車が走っていた時間は、長くなかった。
少なくとも、僕の感覚では。
目隠しをされてからも、天使さんは隣にいた。
一度だけ、座席越しに僕の袖へ指が触れた。僕が軽く応じると、その手は離れた。
怖くないわけではないのだろう。
怖さを理由に退くという発想が、この人には乏しいだけで。
停車してから、何度か歩かされた。
途中で足元の感触が変わった。
舗装路から硬い床へ。さらに、靴底が沈むほど厚い絨毯へ。
一度だけ、耳の奥が詰まる。
同時に、空気まで変わった気がした。
乾いて、少し冷たい。
「段差がございます」
「分かりました。間久部君、気をつけて」
「あなたも見えていませんよね」
「言っておいた方がいいでしょう」
最後まで世話を焼く余裕があるらしい。
扉が開き、歩みが止まった。
「目隠しをお外しいただいて結構です」
僕は布を引き下ろした。
最初に隣を確かめる。
天使さんは髪を押さえながら瞬きをしていた。
すぐに振り返り、出入り口と、そこに立つ男たちの位置を確認する。
それから、僕と同じように言葉を失った。
壁の大部分を占める窓の向こうに、青灰色の水面が広がっていた。
岸辺に並ぶ建物は、淡い黄や赤褐色の壁を持ち、急な屋根を空へ突き出している。
船の並ぶ港も、石造りの街並みも、先ほどまで歩いていた街のものではない。
窓から視線を戻す。
天井の高い居間だった。
磨き上げられた木の家具。淡い色の長椅子。
大理石の暖炉には細かな彫刻が施されている。
奥には食卓を置いた部屋があり、その先にも扉が続いていた。
広さを持て余している感じがしない。
家具も花も、あるべき場所を最初から知っていたように収まっている。
「……何、ここ」
天使さんが呟いた。
僕は卓上の案内へ目を向けた。
ホテル名の下に、ストックホルムの住所が記されている。
「ホテルのようですね」
「それは分かるけど」
「案内が正しければ、スウェーデンです」
天使さんが黙った。
窓を見る。
僕を見る。
「……外国?」
「北欧です」
「飛行機、乗ってないわよね」
「おそらく、乗っていません」
腕時計の針は、教室を出てから一時間も経っていないことを示していた。
何度見ても、経過時間は増えない。
「ようやく来たか」
奥の扉から声がした。
八神が現れた。
いつものコートは着ていない。
艶を抑えた黒い上着に、襟元の緩いシャツ。金色の髪を片側へ流し、片手には薄い磁器のカップを持っている。
これだけ贅沢な部屋にいても、その姿は少しも埋もれなかった。
「今日は休みだと伺いましたが」
「電話でも聞いた」
「返事をいただいておりません」
「ここをどこだと思っている。ホテルだぞ」
「勤務先以外なら休日扱いになる、という理屈でしたらお断りします」
八神は笑った。
否定しなかった。
天使さんが僕の袖を引いた。
「ねえ。この胡散臭い人が、雇い主?」
「ええ」
「……すごく納得した」
「二人とも、聞こえているぞ」
「聞こえるように申し上げています」
天使さんが一歩前へ出た。
「あなたが、お迎えを頼んだんですよね」
「そうだが」
「いきなり腕をつかまれたんですけど。ああいうやり方は、おかしいと思います」
八神の視線が、彼女の肩越しに動いた。
入り口に立つ男の一人が、わずかに顎を引く。
その手首には、もう薄い湿布が貼られていた。
「ずいぶん丁寧に断ったらしいな」
「普通に断りました。聞いてもらえなかったから、手を外しただけです」
「二人倒していましたが」
「間久部君は黙ってて」
八神の口元が緩んだ。
天使さんは、その笑みを見ても引かなかった。
「それと、間久部君を働かせすぎです。この1ヶ月、学校でもずっと疲れていて――」
始まった。
僕は額へ手を当てかけた。
そのとき、八神がカップを置いた。
陶器の触れる、小さな音。
八神は天使さんへ歩み寄った。
彼女の言葉が途切れる。
長身の影が落ちても、天使さんは後ろへ下がらなかった。
顔を上げ、相手を真っすぐ見返している。
八神は少しだけ身を屈めた。
金の髪が、肩から滑る。
残された左目が、天使さんの瞳を覗き込んだ。
「……何ですか」
返事はなかった。
八神の視線が動かない。
顔を見ているというには、焦点が深すぎた。
目の色でも、表情でもない。その奥にある何かを、見定めているようだった。
天使さんが眉を寄せる。
「話を聞いてます?」
「ああ」
返事までに、わずかな間があった。
八神の親指が、人差し指の節をゆっくりと撫でた。
仕入れた品の真贋を確かめるときに、一度だけ見た仕草だった。
「君は、名前を?」
「天使翼です。それより――」
「翼」
八神はその名を、声に馴染ませるように繰り返した。
それから、薄く笑った。
「面白いな、君は」
「……はい?」
「褒めているんだ」
「初対面で言われても困ります」
「そうだろうな」
八神はあっさりと身を起こした。
近づいたときと同じように、滑らかに距離を取る。
いつもの笑みに戻っていた。
けれど僕は、戻る直前の顔を見ていた。
ほんの短い間だけ、八神は僕たちとの会話を忘れていた。
「麗」
「何ですか」
「退屈しない学校生活を送っているじゃないか」
「おかげさまで、校外でも暇がありません」
八神は答えず、天使さんをもう一度見た。
僕は二人の間へ、半歩だけ位置を変えた。
八神の目が僕へ戻る。
何かを見透かしたような笑い方が、ひどく不愉快だった。
「それで、僕たちを連れてきた理由は……」
「支度をしてもらう」
「理由を伺っています」
「その制服では入れない席でね」
八神は奥の扉を示した。
「服は用意してある。彼女の分もあるはずだ」
「着替えるより先に、帰る方法を教えてください。私たち、家に連絡もしてないんです」
「連絡はしよう。係の者に言ってくれ。帰りの足もこちらで用意する」
「……何時に帰れるんですか」
「それも含めて、このあと説明しよう」
天使さんがさらに口を開こうとする。
八神は先に続けた。
「ただ、向こうでは仕立ての人間を待たせている。そちらを先に済ませてくれると助かる」
天使さんの口が止まった。
奥の扉を見る。
「……待ってる人がいるんですか」
「ああ。君たちのためにね」
卑怯だと思った。
この人は、誰にどの言葉が効くかを見つけるのが早すぎる。
「支度が終わったら、ちゃんと説明してください」
「承知した」
八神が穏やかに頷く。
僕は長く息を吐いた。
帰ることも、抗議することも、忘れたわけではない。
順番がひとつ、後ろへ送られただけだ。
この一か月、そうやって増えていったものが、いくつあるだろう。
部屋の奥へ続く扉を開けて、天使さんが足を止めた。
「……え」
僕も、その肩越しに中を見た。
壁際には、何台もの衣装掛けが並んでいた。
濃紺、黒、銀灰色のスーツ。
その向こうには、淡い青や深い緑、真珠色のドレスが、互いの裾を押し潰さない間隔で掛けられている。
中央の台には、宝飾品が並んでいた。
首飾り。耳飾り。髪飾り。
窓から入る光を受け、石の内側で細かな色が動いている。
値札はなかった。
ない方が恐ろしい。
「お待ちしておりました」
礼服姿の人物が、静かに頭を下げた。
「当ホテルのコンシェルジュでございます。お衣装のお支度を承っております」
流暢な日本語だった。
その後ろにも、数人の係員が控えている。
天使さんは居住まいを正した。
「すみません。お待たせしてしまって」
待たせたのは僕たちではない。
そう言いかけて、やめた。
彼女は本気で、目の前の人たちに申し訳ないと思っている。
「どうぞ、お気になさらず。お好みのお色などはございますか」
「好みって……私が選んでいいんですか?」
「もちろんでございます」
天使さんの視線が、淡い青のドレスで止まった。
光沢のある生地に、細かな刺繍が施されている。
裾へ向かうにつれ刺繍が疎らになり、布そのものの色が柔らかく浮かんでいた。
「綺麗……」
小さな声だった。
彼女はすぐに咳払いをした。
「でも、あの。こんな高そうなもの、汚したら」
「お召しいただくための衣装ですので」
係員が微笑んだ。
天使さんは、そっと袖へ触れた。
指先で布を撫で、刺繍を覗き込む。
さっきまで黒服の手首をねじっていた手と、同じ手とは思えない慎重さだった。
「ねえ、間久部君。これ、刺繍なのよ。模様、全部」
「そのようですね」
「すごい。こんなの、写真でしか見たことない」
振り返った顔が、思いのほか近かった。
目が輝いている。
僕が黙っていると、彼女は慌てて付け足した。
「別に、怒ってないわけじゃないから」
「わかってますよ」
「帰ったら、ちゃんと話すからね。働く時間のことも」
「できれば、僕の休息を優先してください」
「だから、そのために話すんでしょう」
やはり、話は終わっていなかったらしい。
係員が耳飾りを二組差し出す。
天使さんは「ありがとうございます」と頭を下げ、それから真剣な顔で見比べ始めた。
青い石と、透明な石。
どちらを手に取るにも、いちいち目で許可を求めている。
僕はその様子を見届け、衣装掛けへ向き直った。
午後は風呂に入って眠る。
今朝立てた予定は、それだけだった。
今は北欧のホテルで、帰る手段も知らされないまま、着るつもりのなかった服を選んでいる。
考えれば腹が立つ。
が、考え続けるのにも、体力が要る。
僕は手近にあった濃紺のスーツを取った。
上質な布だった。持ち上げただけで、普段着ている制服との違いが分かる。
肩へ当ててみると、寸法はほとんど合っていた。
八神に採寸を許した覚えはない。
その件も、後で問いただすことにする。
「こちらをお願いします。必要な箇所の直しも含めて」
「かしこまりました。袖丈から確認させていただきます」
コンシェルジュの合図で、巻尺を持った係員が進み出た。
僕は鞄を椅子へ置き、腕時計を外した。
鏡の端に、天使さんが映る。
淡い青のドレスを身体の前へ当ててもらい、照れたように笑っていた。
少なくとも、彼女の午後には、多少の埋め合わせがあったらしい。
「お疲れでいらっしゃいますか」
鏡越しに、係員と目が合った。
「ええ。少し」
「お支度の合間にお時間がかかります」
「こちらで掛けてお待ちください」
「ありがとうございます」
素直に礼が出た。
これほど高価な椅子でなくていい。
背もたれさえあれば、今の僕には十分だった。




