第6話 終わりは突然に
校門を出ると、まだ高い位置にある太陽が眩しかった。
平日の昼間に、急ぐ用事もなく歩いている。
そのはずなのに、隣からは健康状態に関する質問が続いていた。
「それで、アルバイトは何時まで?」
「日によります」
「遅い日は?」
「翌日になることもあります」
しまった。
答えてから気づいた。
天使さんが足を止める。
「それ、おかしくない?」
「業種による事情がありまして」
「事情があったら、高校生を夜中まで働かせていいの?」
「僕に尋ねられましても」
「お店の人と話した方がいいわ。私も一緒に――」
「それだけはやめてください」
八神と天使さんが向かい合う光景が浮かんだ。
どちらも自分の理屈で動く。
しかも、一方は相手が困ることを承知で、一方は相手のためになると信じて、それを行う。
間に挟まれる僕の被害だけは、容易に予測できた。
「どうして?」
「僕の労働環境が、さらに悪化するおそれがあります」
「なおさら放っておけないじゃない」
話す順番を間違えたらしい。
訂正を考えながら前を向き、僕は足を止めた。
路肩に、黒い車が停まっていた。
その脇に一人。
前方の街路樹の陰に二人。
背後でも、足音が止まる。
天使さんの視線が動いた。
前方。車の脇。それから、僕の背後。
先ほどまで寄っていた眉が、静かに戻った。
「間久部麗様でいらっしゃいますか」
車の脇から歩いてきた男が尋ねた。
「ご用件は」
「お迎えに上がりました」
答えになっていない返答だ。
この手のお誘いはよくあることだが、今回は応じる気はない。
「どなたからの依頼ですか」
「ご同行いただければ、お分かりになります」
「それでは判断できません」
男は答えず、一礼した。
その左右から、別の二人が近づいてくる。
天使さんが僕の前へ出た。
「待ってください。この人、行くとは言ってません」
「お連れの方も、ご同行をお願いいたします」
「まず、質問に答えてください」
男が天使さんの腕へ手を伸ばした。
僕は口を開いた。
「触らない方が――」
遅かった。
天使さんが半歩だけ身をずらす。
伸びてきた手首を取り、その腕の下へ身体を入れた。男の肩が傾く。
姿勢を立て直そうと踏み出した足の先に、もう彼女の足があった。
黒い巨体が、路面へ落ちた。
鈍い音がする。
最後に彼女が袖を引いたので、後頭部は打たずに済んだらしい。
「――いいですよ」
僕は言い終えた。
二人目の男は、躊躇しなかった。
腰から短い警棒を抜き、振り上げる。
「武器を出すなんて!」
天使さんが怒った。
その声が、男には最後まで聞こえたかどうか。
腕が振り下ろされるより先に、彼女は間合いへ入っていた。
肘の内側を押さえ、手首を返す。
警棒が手を離れた。
彼女はそれを空中でつかみ、男の膝裏を払った。
二人目が膝をつく。
その肩口へ、警棒の先がぴたりと止まった。
「動かないで」
声は大きくなかった。
男は動かなかった。
僕は、通りの反対側へ目を向けた。
買い物袋を提げた女性が立ち止まっている。
少し離れたところでは、自転車に乗った少年がこちらを見ていた。
観客が増える前に、終わってほしい。
主に黒服の人たちのために。
天使さんに、剣術の心得があることは知っていた。
体育の授業で剣道を行った際、彼女は剣道部の上級生から次々に一本を取った。
様子を見に来た顧問も面を着け、結局、一度も彼女を打てなかった。
その後、勧誘に来た部員たちへ、彼女は申し訳なさそうに頭を下げていた。
風紀委員の仕事と、休日のボランティアで手いっぱいなのだという。
公式戦への出場歴はない。
だから弱い、という理屈が成り立たないことを、今、黒服の人たちが身体で学んでいた。
「天使さん。その辺で」
「まだ後ろにいる!」
「後ろの方、不用意に近づかないでください」
三人目が上着の内側へ手を入れた。
僕はそちらへ顔を向ける。
「やめておいた方がいいです」
男の手が止まる。
「次は、手首だけでは済まないかもしれません」
「間久部君!」
「何ですか」
「どうして、そっちの心配をしてるの!」
「今のところ、そちらにしか怪我人が出ていませんので」
天使さんが不満そうに振り返った。
警棒は男へ向けたままだった。
「私が悪いみたいじゃない」
「善悪と負傷の程度は、別の問題です。ひとまず、それを下ろしてください」
「でも、この人たち――」
「急に近づかなければ大丈夫ですよ」
黒服の人たちへ伝えると、天使さんの眉が跳ねた。
「私を何だと思ってるの?」
「刺激に対する反応が非常に速い方ですから」
「猛獣の説明みたいに言わないで!」
その声に、膝をついていた男の肩が小さく揺れた。
笑ったのではないと思う。
たぶん。
「失礼いたしました」
最初に話しかけてきた男が、両手を見える位置へ上げた。
今度は、天使さんの間合いの外で足を止める。
「手順に不備がございました。八神様からのご依頼です」
僕は目を閉じた。
今日一日くらい、その名前を聞かずに済むと思っていたのに。
「……最初から、そうおっしゃってください」
「お知り合いなの?」
「非常に不本意ながら」
男が名刺を差し出した。
天使さんがこちらを見たので、僕は頷いてから受け取った。
見慣れた事務所名と連絡先。
裏には、流麗な字で短い指示が添えられていた。
『すぐに来るように』
間違いない。
この理不尽さは、本人だ。
「確認の電話をしたいのですが」
「こちらからお繋ぎできます」
男が端末を取り出す。
数回の呼び出し音のあと、気怠げな声が聞こえた。
『どうした。もう着いたのか』
「今日は休みだと伺いましたが」
『その話は、着いてから聞こう』
通話は切れた。
僕はしばらく端末を見ていた。
「……知り合いだからって、こんなの許されないわよ」
天使さんの言うことは正しかった。
正しかったが、僕は今、その正しさを貫くために必要な体力を持ち合わせていなかった。
「送迎は依頼されていたようです。僕は行きますから、天使さんは――」
「一人で行かせられるわけないでしょう」
知っていた。
そう言うことも、分かっていた。
男は咳払いをした。
「移動の経路に機密がございます。車内では目隠しをお願いいたします」
「ますます怪しいじゃない!」
「同感です」
「同感で済ませないでよ!」
僕は名刺の裏を、もう一度見た。
天使さんは僕と名刺を交互に見て、長く息を吐いた。
「……何かしたら、今度は止めないからね」
誰に向けた言葉なのかは、あえて尋ねなかった。
警棒を返してもらった男が、深く頭を下げる。
僕も小さく会釈しておいた。




