第46話 新しい世界へ 下
「待ってください」
先に声を上げたのは、翼さんだった。
「私たち、高校二年生ですよ。これから夏休みで、進路も考えないといけない時期なんです」
「感心だな。よく考えたまえ」
「その時期に、いきなり学科を変えろって言われても困ります!」
もっともな抗議だった。
八神は、少しも困っていなかった。
「考える選択肢が増えたではないか」
「増やし方の話をしてるんです!」
翼さんの声を聞きながら、校舎へ目を向ける。
霊能科。
そんな学科があることすら、今日まで知らなかった。
授業の内容も、卒業後の進路も、何一つ分からない。まして、隣を歩く生徒の頭から角が生えている環境である。
普通なら、断る。
ただし、その普通を持ち出せる立場ではなかった。
七夜流星。
八神を最強たらしめる神具、三星剣。
その一振りを使うために、条件を聞くより先に了承した。
あの剣は特殊なのだと、八神は言っていた。
願いの叶え方も、制約も、実際に見た。
契約を破った者へ何が起きるかまでは、聞いていない。
今になって確かめたいとも思わなかった。
「……分かりました」
翼さんが振り返った。
「麗くん?」
「編入の件です。お受けします」
「本気?」
「約束しましたから」
八神の口元が緩んだ。
それを見て、少しだけ返事を取り消したくなった。
「でも、勉強とか、進路とか……」
「学科が変わること自体は、それほど支障にならないと思います」
「そんな簡単に」
「進学科の試験範囲であれば、自分で補えます」
今回の期末試験も、資料整理の合間に範囲を確認した程度だった。
それで解けない問題はなかったし、満点を逃す理由も、今のところ見つかっていない。
扱う内容が変われば、覚えることは増えるだろう。
それでも、勉強と名のつくもので立ち往生する姿は、どうにも想像しにくかった。
問題は、別にある。
「編入試験は、何をするのですか」
八神が、眉を上げた。
「試験?」
「ええ。筆記だけで済むとも思えませんが」
この環境へ、興味本位の生徒を受け入れるとは考えにくい。
霊能力の測定。
術の実演。
あるいは、何らかの怪異への対処。
あの研究所のように、事前説明もなく測定の対象にされる可能性もある。
表情に出ないよう、息を整えた。
「事前に確認できる範囲だけでも、教えてください」
八神は煙草を咥えたまま、あっさりと言った。
「そんなものはない」
間が空いた。
「……試験が、ですか」
「そうだ」
「筆記がない、という意味でしょうか」
「試験がない」
「では、能力の測定や、適性の審査などは」
「少なくとも、君が今身構えているようなものはないよ」
信用できなかった。
北欧のホテルへ連れ出されたときも、研究所へ向かったときも、面倒なことは後から分かった。
今回に限って、入口で話が終わるとは思えない。
「実地での確認を、試験と呼ばないだけでは?」
「呼び方の問題ではない」
「編入後に、何かを討伐してこいと言われたり」
「今日は言わん」
「今日は?」
「麗」
八神が煙草を指に挟んだ。
「君は、何かさせられないと納得できないのかね」
言葉が詰まった。
させられたくないから、聞いている。
「ただ、編入するだけだ」
「……それだけですか」
「それだけだ」
肩から、力が抜けた。
命まで持ち出して交わした約束の代償が、通う学科の変更。
危険な仕事を命じられるより、よほどよい。
よいはずなのだが、ここまで張りつめていたものの置き場がなかった。
隣で、翼さんが顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「ええ。少し、考えていたことが無駄になりました」
「いつものことではないか」
八神の一言で、背筋が戻った。
「誰のせいだと思っているのですか」
「ともあれ、強いて試験と呼ぶのなら、もう済んでいる」
八神は、来た道を指した。
「ここへ来られた。それが証だ」
並木の向こうに、霧は見えなかった。
「資格のない者は、そもそもこちらへ入れん。あの社へ参っても、そのまま山道を下りるだけだ」
「入口で、選別されていると」
「そう考えてよい。逆に言えば、資格があれば門は開く。一部、例外はあるがね」
視線が、翼さんへ移った。
彼女は八神を見て、それから自分を指差した。
「……私も?」
「何のために連れてきたと思っていた」
「付き添いかと」
「それだけなら、校門で待っていてもらったよ」
翼さんが黙った。
しばらくして、こちらを見た。
助けを求められても、今回は何も言えなかった。
「さて。せっかくだ。少し見て回ろうか」
八神は、機嫌よく校舎へ向かった。
納得を待つつもりは、初めからなかったらしい。
最初に案内された教室は、大学の講堂に似ていた。
奥へ向かって座席が高くなり、正面には大きな黒板がある。
通路は広く、机や椅子の大きさも揃っていない。
背もたれのない椅子。
座面の中央に穴のある椅子。
椅子そのものがなく、広く床を空けた場所もあった。
尻尾や翼のある生徒が座ることを考えれば、当然の造りなのだろう。
隣の教室を覗くと、今度は何もないように見えた。
「下だ」
八神に言われ、視線を落とす。
壁際に、小さな扉があった。
その向こうに、机と椅子が並んでいる。
黒板まで備えた、手のひらほどの生徒たちの教室だった。
「踏まないようにしたまえ。通路は分けてあるが、横着する者もいる」
ちょうど、小さな鞄を背負った生徒が廊下を横切った。
こちらの靴を見上げ、軽く手を振ってから、小さな扉へ駆け込んでいく。
足を置く場所まで、気にする必要があった。
「ここって、高校だけじゃないんですか?」
翼さんが尋ねた。
「小中高の一貫教育だ。年齢や種族によって、学ぶ速度も違う。所属する課程はあるが、希望すればほかの授業も受けられる」
「高校生が、小学生の授業を受けても?」
「学び直したいなら、受ければよい。逆も同じだ」
翼さんが、少し考え込んだ。
その顔を見ていると、目が合った。
「……何?」
「いえ。よい制度だと思いまして」
「今、私のこと考えたでしょ」
「基礎は大切ですから」
「やっぱり!」
八神が、楽しそうに笑った。
図書室の前では、歩みが止まった。
扉の向こうに、書架が延々と続いていた。
天井が高い。
二階、三階に相当する高さにも回廊があり、そこにも本が並んでいる。
背表紙の文字は、統一されていなかった。
日本語。
英語。
見覚えのある文字の隣に、言語として分類することすらできない記号が並ぶ。
曲線ばかりのものもあれば、傷を刻んだようなものもあった。
一冊の背表紙では、文字の位置が、見るたびに変わっている。
「……あれは、何語ですか」
「気になるなら、調べてみるとよい」
「辞書はあるのですか」
「あるものも、ないものもある」
中へ踏み出しかけ、八神が先へ進んでいることに気づいた。
「見ていかないのですか」
「案内はまだ途中だ」
「少しだけでも」
「随分と前向きになったな」
足が止まった。
八神が、口の端を上げている。
「古今東西、人の世界も異界も含めて集めてある。術書だけではないぞ。歴史、医学、工学、文学。君の読んだことがないものも、多かろう」
それは、そうだろう。
背表紙を読むことすらできない本がある。
「ただし、閲覧に許可の要るものもある。禁書指定の棚へ、勝手に手を出すなよ」
「表示はされているのですね」
「表示だけで済むなら、苦労はせん」
書架の奥で、鎖の触れ合う音がした。
気のせいということにして、扉から離れた。
「あとで来ればいいよ」
翼さんが、小声で言った。
編入の話に反対していたことを、二人とも一瞬忘れていた。
食堂は、声と匂いで満ちていた。
出汁の香り。
香辛料の刺激。
焼いた肉や、甘い菓子らしい匂いも重なっている。
料理を出す窓口が、幾つも並んでいた。
見慣れた定食の写真の隣に、名前からは材料を想像できない料理が載っている。
「学生の憩いの場、その一だ」
八神が言った。
「国や地域を問わず、大抵の食事は揃う。人気は日本食だな」
「あ、おにぎり」
翼さんの視線が、窓口へ吸い寄せられた。
大皿に積まれたおにぎりを、角のある生徒が次々と盆へ載せている。
その隣では、魚の頭をした生徒が、焼き魚の定食を受け取っていた。
何を食べるかを、見た目で判断するのはやめておこう。
食堂の奥には、食卓とは別の場所があった。
大きな水槽。
温かそうな石の床。
低い木々に囲まれた一角では、何人かの生徒が枝へ身体を預けている。
「あちらは?」
「食事以外にも、休息の仕方は様々だからな」
翼さんが、水槽の中へ手を振った。
中にいた生徒が、ひれのような手を振り返す。
「……何となく、分かってきたかも」
「何がですか」
「学校なんだね」
その言葉を確かめるように、周囲を見回した。
食卓を囲んで笑い声が上がる。
窓口では、料理を受け取る列が伸びていた。
空いた席を見つけた生徒が、友人へ手招きしている。
姿が違っても、昼休みの騒がしさには覚えがあった。
「学生の憩いの場、その二だ」
八神が、屋外へ続く扉を開けた。
今度は、返事が出なかった。
運動場と呼ぶには、広すぎた。
砂地の先に芝生があり、その向こうには岩場が連なっている。
水辺には桟橋のような足場が延び、さらに奥では、地面が赤く光っていた。
熱で空気が揺れている。
「……あれは」
「溶岩だ」
「見れば分かります」
「ならば、聞くこともあるまい」
溶岩の中から、何かが顔を出した。
向こう岸にいた生徒が腕を上げると、その何かが勢いよく泳ぎ出す。
水泳と呼んでよいのかは、分からなかった。
「自然に近い状態を残してある。得意な場所ばかり選んでいては訓練にならんが、休むときぐらいは好きにさせてやらんとな」
隣接する体育館も、大きかった。
高い天井から下がる設備の用途は、半分も分からない。
床には幾種類もの線が引かれ、場所ごとに生徒たちが分かれて動いている。
翼さんが、足を止めた。
少し離れた建物から、乾いた音が響いていた。
木と木が、激しく打ち合う音。
その方向へ向いた顔を見て、嫌な予感がした。
数分後。
翼さんは、赤い鬼と向き合っていた。
角が二本。
腕が四本。
制服の上着を脱いだ相手は、四つの手に、それぞれ木剣を握っている。
対する翼さんの手には、木刀が一本。
見学のつもりだったはずなのだが、どうしてこうなったのだろう。
きっかけは、道場を覗いた翼さんが、稽古中の動きへ感想を漏らしたことだった。
それを聞いた相手が振り返った。
やってみるか、と。
はい、と。
止める言葉を挟む余地は、なかった。
「大丈夫なのですか、これ」
「立ち会う者もいる。決まりもある。心配するな」
八神は、壁際で腕を組んでいた。
道場の中央では、二人が間合いを測っている。
先に動いたのは、鬼の生徒だった。
右上から、一振り。
受けようとした位置へ、左の木剣が回り込む。
翼さんは打ち合わず、半歩退いた。
空いたはずの場所へ、下の腕が突きを放つ。
木刀の鎬で逸らし、身体を横へ流した。
すぐに、もう一本が足元を払う。
四本が、ばらばらに動いているわけではなかった。
一つを避けた先へ、次が来る。
次を防げば、その動きで空いたところへ別の一撃が差し込まれる。
翼さんの足が、床を滑った。
木刀を立てて二つの打撃を受け流し、腰を落として突きを躱す。
息をつく暇もない。
それでも、下がる距離が少しずつ短くなっていた。
右。
左。
下からの突き。
同じ連なりが来た瞬間、翼さんが前へ出た。
突きを外へ押し流し、その腕の内側へ踏み込む。
木刀の切先が、赤い胴へ向かった。
届く。
そう見えた。
鬼の上の腕が、柄を押さえた。
木刀が僅かに止まる。
その隙に、残った一本の切先が、翼さんの喉元へ添えられた。
「そこまで」
立ち会っていた生徒の声が響いた。
静かになった道場で、二人の呼吸だけが大きく聞こえた。
翼さんが、木刀を下ろす。
「……参りました」
鬼の生徒も、四本の木剣を引いた。
「危なかった。最後、もう少し遠ければ入っていた」
「腕を使って止めるんですね」
「四本あるからな」
「そうですよね……!」
悔しそうに笑っている。
差し出された手へ、自分の手を重ねた。
大きな赤い手が、しっかりと握り返す。
「またやろう」
「はい。ぜひ!」
戻ってきた翼さんは、肩で息をしていた。
額に汗が浮かび、頬も赤い。
けれど、目は先ほどより輝いていた。
「強かった……」
「腕が四本ありましたからね」
「うん。でも、それだけじゃなくて。近づいたら、長い腕って動かしにくいと思ったんだけど、ちゃんと使い分けてて」
手を動かしながら、今の攻防を振り返っている。
「ほかにも、強い人がいるんだって」
「でしょうね」
「ここ、私に合ってるかもしれない」
学科の変更は横暴だと抗議していた人が、汗を拭きながら言った。
同じ人間のはずだった。
少なくとも、腕の数は同じだった。
それを理由に安心できる気は、もうしなかった。
校舎へ戻ると、八神は再び案内を始めた。
機嫌がよかった。
講義の内容や施設の使い方を説明する声にも、普段の事務仕事では見られない熱意がある。
その横顔を眺めながら、廊下を歩いた。
広い。
横幅だけではなく、天井までの高さにも余裕があった。
大柄な生徒とすれ違っても、肩が触れない。
宙を移動する者たちは、頭上の空間を使っている。
床や壁も、よく手入れされていた。
四本腕の生徒や、水を滴らせる生徒が通ることを考えると、維持するだけでも大変だろう。
行き交う生徒の制服には、見慣れた校章があった。
袖の数も、丈も、形も違う。
それでも、同じ学校の生徒だと分かるものが、そこに付いている。
視線を感じた。
すれ違った生徒が振り返る。
少し先でも、二人組が話をやめた。
初めは、こちらを見ているのだと思った。
人間が珍しいのか。
新しい生徒だと分かるのか。
違った。
「八神……?」
小さな声が聞こえた。
「あの、三星剣の?」
「本物?」
視線の先にいるのは、機嫌よく施設を解説している雇用主だった。
窓際にいた生徒たちまで、こちらへ顔を向ける。
憧れるような目。
確かめるような目。
その一方で、壁際へ寄る者もいた。
目が合う前に背を向けた生徒もいる。
「最強って……」
「あの異端児が、何でここに」
聞こえた呼び方のどれにも、八神は反応しなかった。
ただ、こちらへ向けられる視線には気づいているのだろう。
普段より、背筋がよく伸びている。
「格好いい……」
「近くで見ると、すごいね」
そんな囁きまで耳へ届いた。
見た目については、否定できない。
黙って立っていれば、絵になる人だ。
歩いているだけでも、目を引く。
しかし、その人は帳簿の整理を人へ押しつける。
説明を省く。
無茶をさせる。
給与の話になると、急に耳が悪くなる。
今も、こちらの了承を十分に得ないまま、編入先の案内を進めている。
歓声に近い囁きと、日頃の記憶が、どうにも噛み合わなかった。
「麗くん?」
「いえ。少し、目が回りそうになっただけです」
「疲れた?」
「認識の違いで」
翼さんは首を傾げた。
八神が、ちらりとこちらを見る。
「君たちも、もう少し私を敬ってよいのだぞ」
「普段の振る舞いから、検討していただけますか」
「照れなくてもよい」
やはり、同じ人だった。
最後に止まったのは、一枚の扉の前だった。
落ち着いた色の木製扉。
脇の札には、端正な文字で『校長室』とある。
「こちらで、手続きを済ませる」
八神が言った。
札を見直す。
「校長室?」
「読めただろう」
「学科ごとに、校長がいるのですか」
翼さんも、不思議そうに扉を見ていた。
「理事長は、荒金先生ですよね」
「理事長と校長は、役割が違う。まして、こちら側の学校には、こちら側を管理できる者が必要だ」
八神が扉へ手を伸ばす。
「あの男は厄介事を引き込むが、霊能力のほうは皆無でね。微塵子ほども期待できん」
「ずいぶんな言い方ですね」
「見えないものを管理しろと言うほうが、酷だろう」
その点には、頷くしかなかった。
「実務を任せられる者が、別にいるのさ」
八神は、軽く扉を叩いた。
返事を待たずに開けた。
「邪魔をするぞ」
赤い絨毯が、部屋の奥まで敷かれていた。
上質なソファー。
磨かれた机。
壁際の棚には、書物と、用途の分からない調度品が整然と並んでいる。
派手な部屋ではなかった。
ただ、目につくものが、どれも高そうだった。
奥の執務机に、老女が座っていた。
上下とも、真っ白なスーツ。
背筋を伸ばし、手元の書類から目を上げる。
その視線が八神を捉えた瞬間、室内の空気が重くなった。
「まだ、入っていいとは言ってないよ」
「ノックは聞こえただろう」
「聞こえたさ。返事を待つことぐらい、いい加減覚えたらどうだい」
八神は気にせず、部屋へ入った。
「紹介しよう。羅法院雪華。こちらの校長で、協会の相談役でもある」
老女の視線が、こちらへ移る。
「麗と翼くんだ。話は通してあるな」
「ああ。書類は読ませてもらったよ」
机の上に、二人分の紙が置かれていた。
「白夜叉姫と呼ばれている。札を使わせても、結界を張らせても、なかなかのものだぞ」
その呼び名には、覚えがあった。
事務所で読んだ資料の中に、幾度も出てきた名前だ。
封鎖の難しい場所へ結界を築き、数多くの悪霊を退けた祓屋。
なかなか、で済ませてよい経歴ではなかった。
「よろしく頼むぞ、雪婆さん」
八神が笑った。
机の上の紙が、動いた。
窓は閉まっている。
それなのに、紙の端が、一斉にこちらへ向いた。
「用が済んだら、さっさと帰りな」
床へ足を押しつけられるような重さが来た。
肩が沈む。
息を吸っても、胸が思うほど広がらない。
隣で、翼さんが背筋を強張らせた。
八神だけが、楽しそうだった。
「まだ済んでおらんよ」
「だったら、少し黙っておいで。あたしは、この子たちと話があるんだよ」
「客への扱いとは思えんな」
「お客はそっちの二人だろう。あんたまで数に入れた覚えはないね」
部屋が、もう少し狭くなったように感じた。
壁が動いたわけではない。
けれど、二人の間に立ち続けるのは避けたかった。
雪華さんが、こちらを見る。
圧迫感が引いた。
「悪かったね。立たせたままにして。二人とも、そこへお掛け」
こちらへ向けられた声には、先ほどの鋭さがなかった。
「……失礼します」
「失礼します」
翼さんと並んで、ソファーへ腰を下ろす。
八神も座ろうとしたが、雪華さんに見られて、その背へ片手を置くに留めた。
「この男と一緒じゃ、苦労するだろう」
何についてかは、尋ねる必要がなかった。
「悪いことは言わないよ。縁を切るなら、早いうちにしておきな」
「そうしたいのは、山々なのですが」
「麗くん」
「諸事情がありまして」
雪華さんは、静かに頷いた。
「……そうかい。まあ、そう簡単にはいかないんだろうね」
初対面なのに、話が早かった。
「さて。まずは、天使翼さんだね」
「はい」
翼さんが膝の上で手を揃えた。
雪華さんは、一枚目の書類へ目を落とした。
編入届だった。
氏名や在籍学科の下に、幾つもの項目が並んでいる。
少なくとも、本人が書いたものではない。
「素質は十分にあるよ。宿している天使の力は、普通の基準では測りきれないようだけれどね」
翼さんの顔が、少し強張った。
「身体能力も申し分ない。こちらの授業にも、ついてこられるだろう」
書類の下部に、評定が見えた。
総合評定、A。
「……ありがとうございます」
翼さんは、褒められたのかどうか判断しかねるように答えた。
「ただね、力があることと、それを使いこなせることは別なんだよ。そこは、よく覚えておきなさい。まずは自分の力を知るところから、一つずつ学んでいけばいい」
「はい」
今度の返事は、はっきりしていた。
雪華さんが頷き、次の紙を手に取る。
「次は、間久部麗くん」
「はい」
「生まれつき霊能力が高くて、霊媒体質でもある。小さい頃から、随分と干渉を受けてきたそうだね」
「そのとおりです」
「先日の研究所では、高位の精霊を使役したとあるけれど。これは、どういうことだったんだい?」
ポケットの中の石が、急に存在感を増した。
「使役という言い方が正しいかは、分かりませんが。力を貸してもらいました」
雪華さんの目が、僅かに上がった。
それから、また書類へ戻る。
紙面は、翼さんのものより白かった。
項目は同じように並んでいる。
だが、その多くには、何も書かれていない。
下部にだけ、判定があった。
総合判定、G。
G。
Aから数えて、七番目。
通常の成績評価であれば、随分と下のほうになる。
ただ、ここで同じ数え方をしてよいのかは分からなかった。
雪華さんが、顔を上げた。
こちらを見る。
書類を見る。
もう一度、こちらを見た。
何かを確かめるような視線だった。
説明を求められるのかと待っていると、彼女は背後の八神へ顔を向けた。
「……この子かい?」
何の、とは聞かなかった。
八神は、両手を広げた。
肯定にも、答えを避ける仕草にも見えた。
雪華さんは、しばらくその顔を見つめていた。
やがて、書類へ視線を戻す。
深い溜息が落ちた。
「……分かったよ」
それ以上は、尋ねなかった。
こちらには、尋ねたいことが増えた。
「判定について、伺ってもよろしいでしょうか」
「気になるだろうね。ただ、その前に、学校からの返事をさせてもらおうか」
雪華さんは書類を重ねた。
「二人とも、編入は認めるよ。ここで学びたいというなら、必要なことを教えられるように、こちらも準備をしておく」
「もう、決まったのですか」
翼さんが尋ねた。
「学校としては、受け入れられるということさ。二人の返事は、まだ聞いていないだろう?」
雪華さんの視線が、こちらと翼さんの間をゆっくりと動いた。
「ここで学ぶかどうかは、自分たちでよく考えて決めなさい」
背後の八神を見る。
口を挟まなかった。
「二人には、素質がある。ただ、学ばなければ、その力が消えてなくなるわけじゃないんだよ。知らないふりをしていても、向こうから関わってくることはある」
膝の上へ置いた手に、力が入った。
道端の影。
誰もいないはずの場所から聞こえる声。
それらから距離を取るために、できることはしてきた。
それでも、向こうから近づいてくることはあった。
「自分に何ができて、何ができないのか。それが分かれば、避けられる危険も増える。力の扱いを覚えておくことは、自分の身を守ることにもなるんだよ」
翼さんが、黙って聞いていた。
その手も、膝の上で握られている。
「今すぐ返事をしなくてもいい」
雪華さんは、書類の上へ手を置いた。
「ただ、自分には関係のない場所だと決めてしまう前に、今日見たものを、もう一度思い返してごらん」
図書室の書架が浮かんだ。
知らない文字。
読めない本。
それから、四本の腕を持つ生徒と握手を交わしていた、翼さんの顔。
ここへ来るまで、存在すら知らなかった場所だった。
知らなかったからといって、これからも知らずにいられるとは限らない。
「……少し、考えさせてください」
翼さんも、隣で頭を下げた。
「私も。ちゃんと考えてから、お返事したいです」
「ああ。それでいい」
雪華さんは頷いた。
「よく考えておいで。ここで学ぶと決めたなら、いつでも迎えるよ」
校長室を出ると、八神は鼻歌を歌い始めた。
よほど機嫌がよいらしい。
こちらは、行きよりも考えることが増えていた。
編入の条件。
Gという判定。
雪華さんの、あの問い。
この子かい。
八神との間では、それだけで話が通じていた。
廊下を歩き、校舎を出る。
並木道では、桜の花びらが黄色い銀杏の葉に引っかかっていた。
翼さんは、しばらく黙っていた。
道場の話をするでもなく、食堂を振り返るでもなく、鞄の紐を握り直しながら歩いている。
「八神さん」
鼻歌が止まった。
「何だね」
「なぜ、ここなのですか」
「気に入らなかったか」
「そういう話ではありません」
図書室には、興味がある。
学べるものがあることも、分かった。
雪華さんの言葉にも、反論は難しい。
けれど、それと、こちらへ身を置くことは別だった。
「約束した以上、必要なら従います。ですが、理由ぐらいは教えていただきたい」
八神は歩調を変えなかった。
「これまでのことでも、分からないことが増えています。そのうえで、さらにこちら側へ入っていくのですか」
返事がない。
「……これ以上、深入りはしたくありません」
翼さんが、こちらを見た。
八神の足が止まった。
少し先で振り返る。
からかわれると思った。
今さら何を、と笑われる覚悟もしていた。
八神は、笑わなかった。
「お前は、必ず行くことになる」
短い言葉だった。
命令なのか。
予告なのか。
問い返す前に、白いコートが翻った。
また、鼻歌が聞こえ始める。
結局、理由は聞けなかった。
翌日、八神の事務所で、その言葉の意味を身をもって知ることになる。
このときはまだ、いつもの強引な勧誘だと思っていた。




