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間久部くんの受難   作者: Undo
精霊は謳い天使が舞い踊る
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第46話 新しい世界へ 下

「待ってください」


 先に声を上げたのは、翼さんだった。


「私たち、高校二年生ですよ。これから夏休みで、進路も考えないといけない時期なんです」


「感心だな。よく考えたまえ」


「その時期に、いきなり学科を変えろって言われても困ります!」


 もっともな抗議だった。


 八神は、少しも困っていなかった。


「考える選択肢が増えたではないか」


「増やし方の話をしてるんです!」


 翼さんの声を聞きながら、校舎へ目を向ける。


 霊能科。


 そんな学科があることすら、今日まで知らなかった。


 授業の内容も、卒業後の進路も、何一つ分からない。まして、隣を歩く生徒の頭から角が生えている環境である。


 普通なら、断る。


 ただし、その普通を持ち出せる立場ではなかった。


 七夜流星。


 八神を最強たらしめる神具、三星剣。

 その一振りを使うために、条件を聞くより先に了承した。


 あの剣は特殊なのだと、八神は言っていた。


 願いの叶え方も、制約も、実際に見た。


 契約を破った者へ何が起きるかまでは、聞いていない。

 今になって確かめたいとも思わなかった。


「……分かりました」


 翼さんが振り返った。


「麗くん?」


「編入の件です。お受けします」


「本気?」


「約束しましたから」


 八神の口元が緩んだ。


 それを見て、少しだけ返事を取り消したくなった。


「でも、勉強とか、進路とか……」


「学科が変わること自体は、それほど支障にならないと思います」


「そんな簡単に」


「進学科の試験範囲であれば、自分で補えます」


 今回の期末試験も、資料整理の合間に範囲を確認した程度だった。

 それで解けない問題はなかったし、満点を逃す理由も、今のところ見つかっていない。


 扱う内容が変われば、覚えることは増えるだろう。


 それでも、勉強と名のつくもので立ち往生する姿は、どうにも想像しにくかった。


 問題は、別にある。


「編入試験は、何をするのですか」


 八神が、眉を上げた。


「試験?」


「ええ。筆記だけで済むとも思えませんが」


 この環境へ、興味本位の生徒を受け入れるとは考えにくい。


 霊能力の測定。

 術の実演。

 あるいは、何らかの怪異への対処。


 あの研究所のように、事前説明もなく測定の対象にされる可能性もある。


 表情に出ないよう、息を整えた。


「事前に確認できる範囲だけでも、教えてください」


 八神は煙草を咥えたまま、あっさりと言った。


「そんなものはない」


 間が空いた。


「……試験が、ですか」


「そうだ」


「筆記がない、という意味でしょうか」


「試験がない」


「では、能力の測定や、適性の審査などは」


「少なくとも、君が今身構えているようなものはないよ」


 信用できなかった。


 北欧のホテルへ連れ出されたときも、研究所へ向かったときも、面倒なことは後から分かった。


 今回に限って、入口で話が終わるとは思えない。


「実地での確認を、試験と呼ばないだけでは?」


「呼び方の問題ではない」


「編入後に、何かを討伐してこいと言われたり」


「今日は言わん」


「今日は?」


「麗」


 八神が煙草を指に挟んだ。


「君は、何かさせられないと納得できないのかね」


 言葉が詰まった。


 させられたくないから、聞いている。


「ただ、編入するだけだ」


「……それだけですか」


「それだけだ」


 肩から、力が抜けた。


 命まで持ち出して交わした約束の代償が、通う学科の変更。


 危険な仕事を命じられるより、よほどよい。

 よいはずなのだが、ここまで張りつめていたものの置き場がなかった。


 隣で、翼さんが顔を覗き込む。


「大丈夫?」


「ええ。少し、考えていたことが無駄になりました」


「いつものことではないか」


 八神の一言で、背筋が戻った。


「誰のせいだと思っているのですか」


「ともあれ、強いて試験と呼ぶのなら、もう済んでいる」


 八神は、来た道を指した。


「ここへ来られた。それが証だ」


 並木の向こうに、霧は見えなかった。


「資格のない者は、そもそもこちらへ入れん。あの社へ参っても、そのまま山道を下りるだけだ」


「入口で、選別されていると」


「そう考えてよい。逆に言えば、資格があれば門は開く。一部、例外はあるがね」


 視線が、翼さんへ移った。


 彼女は八神を見て、それから自分を指差した。


「……私も?」


「何のために連れてきたと思っていた」


「付き添いかと」


「それだけなら、校門で待っていてもらったよ」


 翼さんが黙った。


 しばらくして、こちらを見た。


 助けを求められても、今回は何も言えなかった。


「さて。せっかくだ。少し見て回ろうか」


 八神は、機嫌よく校舎へ向かった。


 納得を待つつもりは、初めからなかったらしい。



 最初に案内された教室は、大学の講堂に似ていた。


 奥へ向かって座席が高くなり、正面には大きな黒板がある。

 通路は広く、机や椅子の大きさも揃っていない。


 背もたれのない椅子。

 座面の中央に穴のある椅子。

 椅子そのものがなく、広く床を空けた場所もあった。


 尻尾や翼のある生徒が座ることを考えれば、当然の造りなのだろう。


 隣の教室を覗くと、今度は何もないように見えた。


「下だ」


 八神に言われ、視線を落とす。


 壁際に、小さな扉があった。


 その向こうに、机と椅子が並んでいる。

 黒板まで備えた、手のひらほどの生徒たちの教室だった。


「踏まないようにしたまえ。通路は分けてあるが、横着する者もいる」


 ちょうど、小さな鞄を背負った生徒が廊下を横切った。


 こちらの靴を見上げ、軽く手を振ってから、小さな扉へ駆け込んでいく。


 足を置く場所まで、気にする必要があった。


「ここって、高校だけじゃないんですか?」


 翼さんが尋ねた。


「小中高の一貫教育だ。年齢や種族によって、学ぶ速度も違う。所属する課程はあるが、希望すればほかの授業も受けられる」


「高校生が、小学生の授業を受けても?」


「学び直したいなら、受ければよい。逆も同じだ」


 翼さんが、少し考え込んだ。


 その顔を見ていると、目が合った。


「……何?」


「いえ。よい制度だと思いまして」


「今、私のこと考えたでしょ」


「基礎は大切ですから」


「やっぱり!」


 八神が、楽しそうに笑った。



 図書室の前では、歩みが止まった。


 扉の向こうに、書架が延々と続いていた。


 天井が高い。

 二階、三階に相当する高さにも回廊があり、そこにも本が並んでいる。


 背表紙の文字は、統一されていなかった。


 日本語。

 英語。

 見覚えのある文字の隣に、言語として分類することすらできない記号が並ぶ。


 曲線ばかりのものもあれば、傷を刻んだようなものもあった。


 一冊の背表紙では、文字の位置が、見るたびに変わっている。


「……あれは、何語ですか」


「気になるなら、調べてみるとよい」


「辞書はあるのですか」


「あるものも、ないものもある」


 中へ踏み出しかけ、八神が先へ進んでいることに気づいた。


「見ていかないのですか」


「案内はまだ途中だ」


「少しだけでも」


「随分と前向きになったな」


 足が止まった。


 八神が、口の端を上げている。


「古今東西、人の世界も異界も含めて集めてある。術書だけではないぞ。歴史、医学、工学、文学。君の読んだことがないものも、多かろう」


 それは、そうだろう。


 背表紙を読むことすらできない本がある。


「ただし、閲覧に許可の要るものもある。禁書指定の棚へ、勝手に手を出すなよ」


「表示はされているのですね」


「表示だけで済むなら、苦労はせん」


 書架の奥で、鎖の触れ合う音がした。


 気のせいということにして、扉から離れた。


「あとで来ればいいよ」


 翼さんが、小声で言った。


 編入の話に反対していたことを、二人とも一瞬忘れていた。



 食堂は、声と匂いで満ちていた。


 出汁の香り。

 香辛料の刺激。

 焼いた肉や、甘い菓子らしい匂いも重なっている。


 料理を出す窓口が、幾つも並んでいた。

 見慣れた定食の写真の隣に、名前からは材料を想像できない料理が載っている。


「学生の憩いの場、その一だ」


 八神が言った。


「国や地域を問わず、大抵の食事は揃う。人気は日本食だな」


「あ、おにぎり」


 翼さんの視線が、窓口へ吸い寄せられた。


 大皿に積まれたおにぎりを、角のある生徒が次々と盆へ載せている。


 その隣では、魚の頭をした生徒が、焼き魚の定食を受け取っていた。


 何を食べるかを、見た目で判断するのはやめておこう。


 食堂の奥には、食卓とは別の場所があった。


 大きな水槽。

 温かそうな石の床。

 低い木々に囲まれた一角では、何人かの生徒が枝へ身体を預けている。


「あちらは?」


「食事以外にも、休息の仕方は様々だからな」


 翼さんが、水槽の中へ手を振った。


 中にいた生徒が、ひれのような手を振り返す。


「……何となく、分かってきたかも」


「何がですか」


「学校なんだね」


 その言葉を確かめるように、周囲を見回した。


 食卓を囲んで笑い声が上がる。

 窓口では、料理を受け取る列が伸びていた。

 空いた席を見つけた生徒が、友人へ手招きしている。


 姿が違っても、昼休みの騒がしさには覚えがあった。



「学生の憩いの場、その二だ」


 八神が、屋外へ続く扉を開けた。


 今度は、返事が出なかった。


 運動場と呼ぶには、広すぎた。


 砂地の先に芝生があり、その向こうには岩場が連なっている。

 水辺には桟橋のような足場が延び、さらに奥では、地面が赤く光っていた。


 熱で空気が揺れている。


「……あれは」


「溶岩だ」


「見れば分かります」


「ならば、聞くこともあるまい」


 溶岩の中から、何かが顔を出した。

 向こう岸にいた生徒が腕を上げると、その何かが勢いよく泳ぎ出す。


 水泳と呼んでよいのかは、分からなかった。


「自然に近い状態を残してある。得意な場所ばかり選んでいては訓練にならんが、休むときぐらいは好きにさせてやらんとな」


 隣接する体育館も、大きかった。


 高い天井から下がる設備の用途は、半分も分からない。

 床には幾種類もの線が引かれ、場所ごとに生徒たちが分かれて動いている。


 翼さんが、足を止めた。


 少し離れた建物から、乾いた音が響いていた。


 木と木が、激しく打ち合う音。


 その方向へ向いた顔を見て、嫌な予感がした。



 数分後。


 翼さんは、赤い鬼と向き合っていた。


 角が二本。

 腕が四本。


 制服の上着を脱いだ相手は、四つの手に、それぞれ木剣を握っている。


 対する翼さんの手には、木刀が一本。


 見学のつもりだったはずなのだが、どうしてこうなったのだろう。


 きっかけは、道場を覗いた翼さんが、稽古中の動きへ感想を漏らしたことだった。


 それを聞いた相手が振り返った。


 やってみるか、と。


 はい、と。


 止める言葉を挟む余地は、なかった。


「大丈夫なのですか、これ」


「立ち会う者もいる。決まりもある。心配するな」


 八神は、壁際で腕を組んでいた。


 道場の中央では、二人が間合いを測っている。


 先に動いたのは、鬼の生徒だった。


 右上から、一振り。

 受けようとした位置へ、左の木剣が回り込む。


 翼さんは打ち合わず、半歩退いた。


 空いたはずの場所へ、下の腕が突きを放つ。


 木刀の鎬で逸らし、身体を横へ流した。

 すぐに、もう一本が足元を払う。


 四本が、ばらばらに動いているわけではなかった。


 一つを避けた先へ、次が来る。

 次を防げば、その動きで空いたところへ別の一撃が差し込まれる。


 翼さんの足が、床を滑った。


 木刀を立てて二つの打撃を受け流し、腰を落として突きを躱す。


 息をつく暇もない。


 それでも、下がる距離が少しずつ短くなっていた。


 右。

 左。

 下からの突き。


 同じ連なりが来た瞬間、翼さんが前へ出た。


 突きを外へ押し流し、その腕の内側へ踏み込む。

 木刀の切先が、赤い胴へ向かった。


 届く。


 そう見えた。


 鬼の上の腕が、柄を押さえた。


 木刀が僅かに止まる。


 その隙に、残った一本の切先が、翼さんの喉元へ添えられた。


「そこまで」


 立ち会っていた生徒の声が響いた。


 静かになった道場で、二人の呼吸だけが大きく聞こえた。


 翼さんが、木刀を下ろす。


「……参りました」


 鬼の生徒も、四本の木剣を引いた。


「危なかった。最後、もう少し遠ければ入っていた」


「腕を使って止めるんですね」


「四本あるからな」


「そうですよね……!」


 悔しそうに笑っている。


 差し出された手へ、自分の手を重ねた。


 大きな赤い手が、しっかりと握り返す。


「またやろう」


「はい。ぜひ!」


 戻ってきた翼さんは、肩で息をしていた。


 額に汗が浮かび、頬も赤い。


 けれど、目は先ほどより輝いていた。


「強かった……」


「腕が四本ありましたからね」


「うん。でも、それだけじゃなくて。近づいたら、長い腕って動かしにくいと思ったんだけど、ちゃんと使い分けてて」


 手を動かしながら、今の攻防を振り返っている。


「ほかにも、強い人がいるんだって」


「でしょうね」


「ここ、私に合ってるかもしれない」


 学科の変更は横暴だと抗議していた人が、汗を拭きながら言った。


 同じ人間のはずだった。


 少なくとも、腕の数は同じだった。


 それを理由に安心できる気は、もうしなかった。


     


 校舎へ戻ると、八神は再び案内を始めた。


 機嫌がよかった。


 講義の内容や施設の使い方を説明する声にも、普段の事務仕事では見られない熱意がある。


 その横顔を眺めながら、廊下を歩いた。


 広い。


 横幅だけではなく、天井までの高さにも余裕があった。

 大柄な生徒とすれ違っても、肩が触れない。


 宙を移動する者たちは、頭上の空間を使っている。


 床や壁も、よく手入れされていた。

 四本腕の生徒や、水を滴らせる生徒が通ることを考えると、維持するだけでも大変だろう。


 行き交う生徒の制服には、見慣れた校章があった。


 袖の数も、丈も、形も違う。

 それでも、同じ学校の生徒だと分かるものが、そこに付いている。


 視線を感じた。


 すれ違った生徒が振り返る。


 少し先でも、二人組が話をやめた。


 初めは、こちらを見ているのだと思った。


 人間が珍しいのか。

 新しい生徒だと分かるのか。


 違った。


「八神……?」


 小さな声が聞こえた。


「あの、三星剣の?」


「本物?」


 視線の先にいるのは、機嫌よく施設を解説している雇用主だった。


 窓際にいた生徒たちまで、こちらへ顔を向ける。


 憧れるような目。

 確かめるような目。


 その一方で、壁際へ寄る者もいた。

 目が合う前に背を向けた生徒もいる。


「最強って……」


「あの異端児が、何でここに」


 聞こえた呼び方のどれにも、八神は反応しなかった。


 ただ、こちらへ向けられる視線には気づいているのだろう。

 普段より、背筋がよく伸びている。


「格好いい……」


「近くで見ると、すごいね」


 そんな囁きまで耳へ届いた。


 見た目については、否定できない。


 黙って立っていれば、絵になる人だ。

 歩いているだけでも、目を引く。


 しかし、その人は帳簿の整理を人へ押しつける。


 説明を省く。


 無茶をさせる。


 給与の話になると、急に耳が悪くなる。


 今も、こちらの了承を十分に得ないまま、編入先の案内を進めている。


 歓声に近い囁きと、日頃の記憶が、どうにも噛み合わなかった。


「麗くん?」


「いえ。少し、目が回りそうになっただけです」


「疲れた?」


「認識の違いで」


 翼さんは首を傾げた。


 八神が、ちらりとこちらを見る。


「君たちも、もう少し私を敬ってよいのだぞ」


「普段の振る舞いから、検討していただけますか」


「照れなくてもよい」


 やはり、同じ人だった。



 最後に止まったのは、一枚の扉の前だった。


 落ち着いた色の木製扉。

 脇の札には、端正な文字で『校長室』とある。


「こちらで、手続きを済ませる」


 八神が言った。


 札を見直す。


「校長室?」


「読めただろう」


「学科ごとに、校長がいるのですか」


 翼さんも、不思議そうに扉を見ていた。


「理事長は、荒金先生ですよね」


「理事長と校長は、役割が違う。まして、こちら側の学校には、こちら側を管理できる者が必要だ」


 八神が扉へ手を伸ばす。


「あの男は厄介事を引き込むが、霊能力のほうは皆無でね。微塵子ほども期待できん」


「ずいぶんな言い方ですね」


「見えないものを管理しろと言うほうが、酷だろう」


 その点には、頷くしかなかった。


「実務を任せられる者が、別にいるのさ」


 八神は、軽く扉を叩いた。


 返事を待たずに開けた。


「邪魔をするぞ」


赤い絨毯が、部屋の奥まで敷かれていた。


 上質なソファー。

 磨かれた机。

 壁際の棚には、書物と、用途の分からない調度品が整然と並んでいる。


 派手な部屋ではなかった。

 ただ、目につくものが、どれも高そうだった。


 奥の執務机に、老女が座っていた。


 上下とも、真っ白なスーツ。


 背筋を伸ばし、手元の書類から目を上げる。


 その視線が八神を捉えた瞬間、室内の空気が重くなった。


「まだ、入っていいとは言ってないよ」


「ノックは聞こえただろう」


「聞こえたさ。返事を待つことぐらい、いい加減覚えたらどうだい」


 八神は気にせず、部屋へ入った。


「紹介しよう。羅法院雪華。こちらの校長で、協会の相談役でもある」


 老女の視線が、こちらへ移る。


「麗と翼くんだ。話は通してあるな」


「ああ。書類は読ませてもらったよ」


 机の上に、二人分の紙が置かれていた。


「白夜叉姫と呼ばれている。札を使わせても、結界を張らせても、なかなかのものだぞ」


 その呼び名には、覚えがあった。


 事務所で読んだ資料の中に、幾度も出てきた名前だ。

 封鎖の難しい場所へ結界を築き、数多くの悪霊を退けた祓屋。


 なかなか、で済ませてよい経歴ではなかった。


「よろしく頼むぞ、雪婆さん」


 八神が笑った。


 机の上の紙が、動いた。


 窓は閉まっている。


 それなのに、紙の端が、一斉にこちらへ向いた。


「用が済んだら、さっさと帰りな」


 床へ足を押しつけられるような重さが来た。


 肩が沈む。

 息を吸っても、胸が思うほど広がらない。


 隣で、翼さんが背筋を強張らせた。


 八神だけが、楽しそうだった。


「まだ済んでおらんよ」


「だったら、少し黙っておいで。あたしは、この子たちと話があるんだよ」


「客への扱いとは思えんな」


「お客はそっちの二人だろう。あんたまで数に入れた覚えはないね」


 部屋が、もう少し狭くなったように感じた。


 壁が動いたわけではない。

 けれど、二人の間に立ち続けるのは避けたかった。


 雪華さんが、こちらを見る。


 圧迫感が引いた。


「悪かったね。立たせたままにして。二人とも、そこへお掛け」


 こちらへ向けられた声には、先ほどの鋭さがなかった。


「……失礼します」


「失礼します」


 翼さんと並んで、ソファーへ腰を下ろす。


 八神も座ろうとしたが、雪華さんに見られて、その背へ片手を置くに留めた。


「この男と一緒じゃ、苦労するだろう」


 何についてかは、尋ねる必要がなかった。


「悪いことは言わないよ。縁を切るなら、早いうちにしておきな」


「そうしたいのは、山々なのですが」


「麗くん」


「諸事情がありまして」


 雪華さんは、静かに頷いた。


「……そうかい。まあ、そう簡単にはいかないんだろうね」


 初対面なのに、話が早かった。


「さて。まずは、天使翼さんだね」


「はい」


 翼さんが膝の上で手を揃えた。


 雪華さんは、一枚目の書類へ目を落とした。


 編入届だった。


 氏名や在籍学科の下に、幾つもの項目が並んでいる。

 少なくとも、本人が書いたものではない。


「素質は十分にあるよ。宿している天使の力は、普通の基準では測りきれないようだけれどね」


 翼さんの顔が、少し強張った。


「身体能力も申し分ない。こちらの授業にも、ついてこられるだろう」


 書類の下部に、評定が見えた。


 総合評定、A。


「……ありがとうございます」


 翼さんは、褒められたのかどうか判断しかねるように答えた。


「ただね、力があることと、それを使いこなせることは別なんだよ。そこは、よく覚えておきなさい。まずは自分の力を知るところから、一つずつ学んでいけばいい」


「はい」


 今度の返事は、はっきりしていた。


 雪華さんが頷き、次の紙を手に取る。


「次は、間久部麗くん」


「はい」


「生まれつき霊能力が高くて、霊媒体質でもある。小さい頃から、随分と干渉を受けてきたそうだね」


「そのとおりです」


「先日の研究所では、高位の精霊を使役したとあるけれど。これは、どういうことだったんだい?」


 ポケットの中の石が、急に存在感を増した。


「使役という言い方が正しいかは、分かりませんが。力を貸してもらいました」


 雪華さんの目が、僅かに上がった。


 それから、また書類へ戻る。


 紙面は、翼さんのものより白かった。


 項目は同じように並んでいる。

 だが、その多くには、何も書かれていない。


 下部にだけ、判定があった。


 総合判定、G。


 G。


 Aから数えて、七番目。


 通常の成績評価であれば、随分と下のほうになる。


 ただ、ここで同じ数え方をしてよいのかは分からなかった。


 雪華さんが、顔を上げた。


 こちらを見る。


 書類を見る。


 もう一度、こちらを見た。


 何かを確かめるような視線だった。


 説明を求められるのかと待っていると、彼女は背後の八神へ顔を向けた。


「……この子かい?」


 何の、とは聞かなかった。


 八神は、両手を広げた。


 肯定にも、答えを避ける仕草にも見えた。


 雪華さんは、しばらくその顔を見つめていた。


 やがて、書類へ視線を戻す。


 深い溜息が落ちた。


「……分かったよ」


 それ以上は、尋ねなかった。


 こちらには、尋ねたいことが増えた。


「判定について、伺ってもよろしいでしょうか」


「気になるだろうね。ただ、その前に、学校からの返事をさせてもらおうか」


 雪華さんは書類を重ねた。


「二人とも、編入は認めるよ。ここで学びたいというなら、必要なことを教えられるように、こちらも準備をしておく」


「もう、決まったのですか」


 翼さんが尋ねた。


「学校としては、受け入れられるということさ。二人の返事は、まだ聞いていないだろう?」


 雪華さんの視線が、こちらと翼さんの間をゆっくりと動いた。


「ここで学ぶかどうかは、自分たちでよく考えて決めなさい」


 背後の八神を見る。


 口を挟まなかった。


「二人には、素質がある。ただ、学ばなければ、その力が消えてなくなるわけじゃないんだよ。知らないふりをしていても、向こうから関わってくることはある」


 膝の上へ置いた手に、力が入った。


 道端の影。

 誰もいないはずの場所から聞こえる声。


 それらから距離を取るために、できることはしてきた。


 それでも、向こうから近づいてくることはあった。


「自分に何ができて、何ができないのか。それが分かれば、避けられる危険も増える。力の扱いを覚えておくことは、自分の身を守ることにもなるんだよ」


 翼さんが、黙って聞いていた。


 その手も、膝の上で握られている。


「今すぐ返事をしなくてもいい」


 雪華さんは、書類の上へ手を置いた。


「ただ、自分には関係のない場所だと決めてしまう前に、今日見たものを、もう一度思い返してごらん」


 図書室の書架が浮かんだ。


 知らない文字。

 読めない本。


 それから、四本の腕を持つ生徒と握手を交わしていた、翼さんの顔。


 ここへ来るまで、存在すら知らなかった場所だった。


 知らなかったからといって、これからも知らずにいられるとは限らない。


「……少し、考えさせてください」


 翼さんも、隣で頭を下げた。


「私も。ちゃんと考えてから、お返事したいです」


「ああ。それでいい」


 雪華さんは頷いた。


「よく考えておいで。ここで学ぶと決めたなら、いつでも迎えるよ」


 校長室を出ると、八神は鼻歌を歌い始めた。


 よほど機嫌がよいらしい。


 こちらは、行きよりも考えることが増えていた。


 編入の条件。

 Gという判定。

 雪華さんの、あの問い。


 この子かい。


 八神との間では、それだけで話が通じていた。


 廊下を歩き、校舎を出る。


 並木道では、桜の花びらが黄色い銀杏の葉に引っかかっていた。


 翼さんは、しばらく黙っていた。


 道場の話をするでもなく、食堂を振り返るでもなく、鞄の紐を握り直しながら歩いている。


「八神さん」


 鼻歌が止まった。


「何だね」


「なぜ、ここなのですか」


「気に入らなかったか」


「そういう話ではありません」


 図書室には、興味がある。


 学べるものがあることも、分かった。

 雪華さんの言葉にも、反論は難しい。


 けれど、それと、こちらへ身を置くことは別だった。


「約束した以上、必要なら従います。ですが、理由ぐらいは教えていただきたい」


 八神は歩調を変えなかった。


「これまでのことでも、分からないことが増えています。そのうえで、さらにこちら側へ入っていくのですか」


 返事がない。


「……これ以上、深入りはしたくありません」


 翼さんが、こちらを見た。


 八神の足が止まった。


 少し先で振り返る。


 からかわれると思った。


 今さら何を、と笑われる覚悟もしていた。


 八神は、笑わなかった。


「お前は、必ず行くことになる」


 短い言葉だった。


 命令なのか。

 予告なのか。


 問い返す前に、白いコートが翻った。


 また、鼻歌が聞こえ始める。


 結局、理由は聞けなかった。


 翌日、八神の事務所で、その言葉の意味を身をもって知ることになる。


 このときはまだ、いつもの強引な勧誘だと思っていた。

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