第45話 新しい世界へ 中
「少なかったかな?」
八神は、もう一度、封筒へ目を向けた。
翼さんの指が、紙の端を握っている。
力が入りすぎて、そこだけ小さな皺ができていた。
五千万円。
見間違いでないことは、もう十分に確かめた。
問題は、確かめたところで理解が追いつかないことだった。
「……すまんな」
八神が、眉を下げた。
「事後処理を協会へ任せた分、随分と持っていかれてしまってね」
翼さんが顔を上げる。
「施設の調査に、被害者の保護。現地の関係各所との調整もあった。経費も存外かさんだのだよ」
「けいひ?」
「当初の見込みとは、かなり離れてしまった。私としても、もう少し利益が残ると思っていたのだが」
八神は、残念そうに首を振った。
「少ないとは思うが、ひとまず納めてくれたまえ。埋め合わせは必ずする」
「待ってください」
翼さんが、ようやく声を出した。
「多いです」
「うむ?」
「多すぎます!」
紙を両手で持ち上げる。
「五千万円ですよね、これ!」
「そう書いてあるだろう」
「書いてありますけど!」
「振り込みの手続きが済むまでは、多少待ってもらうことになるが」
「そういうことじゃなくて!」
翼さんの声が裏返った。
八神は不思議そうに彼女を見て、それから、何かに納得したように頷いた。
「なるほど。慎ましいことだ」
「え?」
「流石は、天使の代表格と言うべきかな」
「何の話ですか?」
視線が、こちらへ向いた。
助けを求められている。
ただ、助けられるほど、こちらも落ち着いてはいなかった。
「……この業界では、扱う道具が高額なのです」
ひとまず、分かる範囲から説明する。
「消耗品にも、驚くような値段のものがあります。準備や後始末の費用まで含めると、依頼の報酬が高くなること自体は、珍しくないようです」
事務所の帳簿を開くたび、桁を確かめる癖がついた。
値札の間違いを疑って問い合わせたこともある。
返ってきたのは、値上げ前に購入できてよかったですね、という返事だった。
「でもぉ私、そんな道具を買ったりしてないよ?」
「ええ」
「お店で働いただけだし、そのあとだって……」
紙へ目を落とす。
「助けてもらったほうだよ」
「その点を差し引いても、個人への報酬としては高額だと思います」
「そうだよね?」
「それから、八神さん。報酬の話をするのであれば、僕の待遇についても――」
「君は今、翼くんの話をしているのではなかったかね」
「業務に関する報酬という点では、共通しています」
「感心なことだ。どんな場でも交渉の機会を逃さない」
「誰から学んだと思っているのですか」
八神は、満足そうに笑った。
褒めていない。
「だがね、麗」
椅子へ背を預け、翼さんを示す。
「聖書に名を連ね、天使の中でも最も名高い者の一柱だ。『神に似たもの』、『神の御前の天使』。そう呼ばれる存在への対価として考えれば、むしろ安いと思うのだが」
言葉に詰まった。
研究所で見た、白い翼。
剣と天秤を手にした姿が浮かぶ。
あの力を、金額へ換算する。
考えようとして、やめた。
換算できる基準を持ち合わせていなかった。
「……麗くん」
袖を引かれる。
翼さんが、顔を近づけてきた。
「聖書の天使って、そんなにすごいの?」
「一般に知られている天使の中でも、特に高い地位と力を持つ存在、ということです」
「偉い人?」
「人ではありませんが。大勢を率いる立場、と考えれば近いかと」
「へえ……」
自分の手を見る。
開いて、握る。
「そんなにすごいものが、私に」
その横顔には、恐れよりも驚きがあった。
もちろん、実感がないのだろう。
あのときの出来事は、本人にとっても曖昧な記憶でしかない。
「……助かったんだもんね」
小さく呟いた。
「何に、どうお礼を言えばいいのか分からないけど」
手を膝の上へ戻す。
「ありがとうございます」
誰へ向けた言葉だったのか。
八神は口を挟まなかった。
翼さんは一度頷くと、改めて紙を差し出した。
「でも、これは受け取れません」
「なぜだね」
「すごい力があることと、私がこれだけのお仕事をしたことは、別ですから」
今度の声には、迷いがなかった。
「自分で使えたわけでもないです。お仕事の分はいただきたいですけど、こんなには貰えません」
「一度提示した報酬を引っ込めるのは、こちらの面子に関わる」
「そう言われても……」
「安く使ったと噂されては困るのでね」
「誰にも言いません」
「君が黙っていても、気にする者はいる」
八神の視線が、こちらへ流れた。
「僕を見ないでください」
「まだ何も言っていないだろう」
「言う前から分かりました」
翼さんは、二人の顔を交互に見た。
それから、差し出していた紙を引き戻す。
しばらく考えていた。
紙面の金額を見て、事務所を見回して、最後にこちらを見る。
「あの」
嫌な予感がした。
「それなら、私もここで働かせてもらえませんか?」
八神が、目を細めた。
「ほう」
「今回の分を、一度に貰うんじゃなくて。これからお手伝いする分のお給料として、少しずついただくんです」
「翼さん」
「待って。ちゃんと考えたから」
片手で制された。
考え終える前に、相談してほしかった。
「八神さんは、お手伝いが増えますよね。お金も引っ込めなくて済みます」
「そうなるな」
「私は、アルバイト先が決まって、収入も安定します」
「うむ」
「それに、麗くんが無茶をしないように見ていられます」
「そこが、よく分かりません」
「分かってないから、見てないといけないんだよ」
即答だった。
どちらかといえば、見張りの必要な人間は、机の向こうで頬杖をついていると思う。
八神は、口元を手で隠した。
「しかし、よいのかね。これから夏休みだろう。予定もあるのではないか?」
「毎日は無理ですけど、空いている日なら」
「学校が始まってからは?」
「そちらも相談させてください。勉強や委員会は、ちゃんとやります」
「なるほど」
八神は考え込む仕草をした。
顎へ指を添える。
天井を見る。
わざわざ、長く息を吐く。
見覚えのある態度だった。
要求するものが決まっているくせに、相手の口から出るのを待っているときの顔。
研究所の交渉でも、似たような顔をしていた。
まさか。
「八神さん、そもそも――」
「よし」
膝を打つ音に、言葉を遮られた。
「そこまで言うのなら、お願いしよう。こちらとしても助かる」
「ありがとうございます!」
机の引き出しが開いた。
八神は、数枚の紙とペンを取り出した。
「では、こちらに」
「はい!」
翼さんが身を乗り出す。
紙へ目を落としたのは、署名する場所を確かめるためだけだった。
ペン先が、迷いなく走る。
いつ用意したのですか。
内容を読んでください。
そもそも、すでに貰う権利のある報酬を、これから働いて受け取る仕組みにしていませんか。
言うべきことが一度に浮かび、どれから口にするか選んでいる間に、最後の一画が書き終わった。
「よろしくお願いします!」
「こちらこそ。期待しているよ、翼くん」
二人が握手を交わした。
翼さんは、嬉しそうだった。
ようやく自分にも納得できる形に収まった、とでも言いたげな顔をしている。
今からその笑顔を曇らせるのは、気が進まなかった。
契約内容は、あとで必ず確かめよう。
「今日のところは、こちらを」
八神が、別の封筒を差し出した。
「当面の分だ。二十万円、入っている」
「えっ。こんなに?」
感覚が戻ってきたらしい。
「五千万円を分けて渡すのだろう。これでは、随分と長い付き合いになるな」
「……そうですね」
翼さんが封筒を見つめる。
それから、大切そうに鞄へしまった。
「頑張ります!」
隣へ戻ってきた彼女は、仕事仲間になったことを喜ぶように、小さく手を振った。
返す言葉が見つからない。
額のあたりが、重くなってきた。
「さて」
八神が、こちらへ向き直った。
その目を見て、背筋が強張った。
翼さんの契約書を持つ指が、机を軽く叩く。
「麗。約束は覚えているかね」
「……ええ」
短く答えた。
七夜流星。
闇夜を閉じ込めた刀身を、二筋の光が走った。
あのときの光景が、鮮明に蘇る。
炎と氷の檻。
その中にいた、翼さんとマリア。
二人を元へ戻せると聞いたとき、ほかのことは考えられなくなった。
条件を聞かなかった。
聞く前に、受け入れた。
自分に与えられるものなら、何でも。
命であっても構わないと。
「約束?」
翼さんが尋ねた。
八神は答えず、こちらを見ている。
「剣を、使わせていただいた際の話です」
「私たちを戻してくれたとき?」
「ええ」
鞄へ添えられていた彼女の手が、止まった。
八神は煙草を取り出した。
火をつける。
急かす様子もなく、こちらの言葉を待っていた。
「何をすればよいのですか」
声は、思っていたより落ち着いていた。
後悔はなかった。
同じ状況になれば、同じことを言うだろう。
その確信と、目の前の男に何でもすると言ってしまった不安は、両立するらしい。
「業務の追加でしょうか。長期の出張ですか。それとも、どこかへの潜入でも」
八神は目を閉じた。
口元に、薄い笑みがある。
「研究への協力なら、内容を伺いたいのですが。まさか、また測定対象にするつもりでは――」
煙が、細く吐き出された。
否定がない。
肯定もない。
続ければ続けるほど、自分から選択肢を増やしている気がして、口を閉じた。
「八神さん」
翼さんが、前へ出た。
「それ、私にも関係のあることですよね」
「翼さん」
「麗くんだけに何かさせるのは、おかしいです。私を助けるためだったなら、私も――」
「やめてください」
思いのほか、強い声になった。
彼女が振り返る。
少しだけ息を整えた。
「選んだのは、僕です」
「でも」
「約束したのも、僕ですから」
八神から目を逸らさない。
「今になって、あなたに引き受けてもらうつもりはありません」
翼さんは何か言いかけた。
けれど、その前に八神が立ち上がった。
机の上の書類を揃え、引き出しへ収める。
煙草を灰皿へ押しつけ、扉へ向かった。
「八神さん?」
返事はなかった。
扉が開く。
廊下へ出る直前、こちらを一度だけ見た。
ついてこい。
口にしなくても、それぐらいは分かった。
鞄を手に取る。
翼さんも、慌ててその隣へ並んだ。
外は、まだ明るかった。
建物の間を抜ける風に、熱がこもっている。
通りへ出ると、蝉の声が頭上から降ってきた。
八神は、迷いなく歩いていた。
長い歩幅に合わせ、翼さんが少し足を速める。
「あの、どこへ行くんですか?」
答えない。
「危ない場所じゃないですよね?」
答えない。
「今の話、まだ終わってませんからね」
八神は前を向いたまま、片手を上げた。
聞こえている、という意味なのか。
あとにしろ、という意味なのか。
翼さんは納得せず、また隣から話しかけた。
二人のやり取りを、少し後ろから眺める。
この光景にも、いつの間にか慣れていた。
金髪の雇用主。
その横で、遠慮なく物を言う学友。
少し前なら、どちらとも並んで歩くことなど、想像しなかっただろう。
学校へ行き、必要な授業を受けて帰る。
寄り道はしない。
面倒に関わらない。
誰かと話すときは、早く終わるように言葉を選ぶ。
それだけでも、余計なものは見えた。
道の隅に立つ影。
誰もいないはずの場所から呼ぶ声。
気づかないふりをして通り過ぎるたび、神経がすり減った。
変わり映えのしない日々だった。
そうして過ごすことが、一番ましだと思っていた。
「麗くん」
翼さんが振り返った。
「ちゃんと来てる?」
「見れば分かるでしょう」
「静かだったから」
「あなたが、二人分ほど話していたので」
「心配してるんだけど」
「分かっています」
返事をすると、彼女は少しだけ眉を下げた。
「なら、いいけど」
また、八神へ向き直る。
話しかける声を聞きながら、ポケットへ手を入れた。
指先が、硬いものに触れる。
精霊石。
握ると、掌に収まる感触があった。
返そうとしても受け取ってもらえなかった、誕生日の贈り物。
今は、ここにあることを確かめると、少し落ち着く。
あの騎士の声を思い出した。
主様、と。
あれから、確かめたいことはいくつも増えた。
自分の血について。
彼女について。
八神が知っていて、話さないことについて。
何より、これからどうなるのか。
面倒だと思う。
危険な目にも、もう十分に遭った。
それでも、以前の生活へ戻りたいかと問われたら、すぐには頷けなかった。
試験前、問題が一つ解けるたびに翼さんが喜んでいた。
説明が長いと文句を言い、休憩が短いと抗議し、それでも次の問題へ向かっていた。
事務所では、毎日のように八神へ文句を言っている。
返される言葉には腹が立つ。
仕事は多い。
給料は、やはり見合っていない。
けれど、何も起きないまま一日が終わることを、少し惜しいと思うようになっていた。
そんな変化を、あの男に知られたくはなかった。
きっと、得意そうな顔をする。
前を歩く背中を見て、精霊石から指を離した。
見覚えのある道へ入った。
駅へ向かうのだろうか。
そう思ったが、八神は曲がるべき角を通り過ぎた。
次の信号も、まっすぐ渡る。
塀が見えた。
足が、少し遅くなる。
「……八神さん?」
翼さんも、気づいたらしかった。
彼女の視線が、前方と八神の横顔を行き来する。
歩みが止まった。
八神の向こうに、門があった。
何度も通った入口だった。
校舎の窓が、日の光を反射している。
遠くから、部活動の掛け声が聞こえた。
私立、封心学園。
明日も来る予定の、通い慣れた学び舎だった。
「……なぜ、ここへ?」
ようやく口にした。
危険な場所へ連れていかれる覚悟は、していた。
知らない相手と交渉させられる可能性も、考えていた。
しかし、学校。
その選択肢はなかった。
翼さんと目が合う。
彼女も、何も聞かされていない顔だった。
八神は、煙草を咥えていた。
いつの間に火をつけたのか、細い煙が頬の脇を流れている。
咎める言葉が浮かんだが、その前に、こちらを振り返った。
「麗。君には」
楽しそうだった。
ここまで何も答えなかった理由が、その顔に表れている気がした。
「新しい生活をしてもらおうかな」
白い煙が、空へほどけた。
通い慣れた校門の前で、怪しい美人が、殊更怪しく笑っている。
帰りたくなった。




