第44話 新しい世界へ 上
八神の事務所の前で、翼さんが溜息をついた。
「多分、大丈夫だと思う」
「それは、よかったです」
「……過去一かもしれない」
「では、教えた甲斐がありましたね」
僕は頷いた。
夏の期末試験が終わり、明日は終業式だった。
結果がすべて返ってきたわけではない。
けれど、試験後に問題を振り返った限り、翼さんの出来は悪くなかった。
少なくとも、試験前に抱いていた悲壮な覚悟ほどのことにはならないはずだった。
僕としても、満足してよい成果だった。
「……何で、そんなに誇らしそうなの」
「成果が出たのでしょう」
「出たけど」
翼さんが、僕を見た。
「量、多すぎ」
「必要な範囲でした」
「教え方、容赦なさすぎ」
「分からないところは、説明しましたよ」
「説明したら、次はできると思ってるでしょ」
「同じ内容ですから」
「そこ!」
指を差された。
「そこが!できない人の気持ちが分かってない!」
事務所の扉を前に、僕は黙った。
結果がよかったという報告から、なぜ説教へ移行したのだろう。
「ちゃんと理解できるまで、付き合ったつもりですが」
「うん。逃がしてくれなかったね」
「途中でやめたら、分からないままですから」
「分からないまま、おやつを食べたい時間もあるんだよ」
「休憩は取りました」
「時間を計らない休憩!」
「時間を計らなければ、休憩ではなくなるのですか」
「そういう話じゃないの!」
翼さんは、頬を膨らませた。
「それに、休憩中まで問題を出してきたじゃん」
「問題ではありません。気分転換になる雑学です」
「雑学って言いながら、結局、勉強に戻るんだもん」
「古代ローマでは、尿が洗濯に利用されていました」
「それは勉強じゃないけど、何でそんな話を知ってるの?」
「知識として有用です」
「どこで?」
「洗濯をする際に」
「私たち、洗濯の話をしてた?」
「していません」
「じゃあ、何で出したの!」
「翼さんが、休憩中に何か話してほしいと言ったので」
「もっと普通の話がよかったの!」
「例えば?」
「えっと……最近見た映画とか、好きな食べ物とか」
「映画は、光の反射と音波の記録です」
「そういうところ!」
翼さんが、両手で頭を抱えた。
「麗くんと話してると、気づいたら知らない方向へ連れていかれるんだよ」
「それは、翼さんが興味を持つからではありませんか」
「興味は持つけど!」
「昨日も、カラスが人の顔を覚えるという話をしたら、そこから鳥の視力について三十分ほど質問していました」
「だって気になるじゃん!」
「その結果、数学の問題を解く時間が減りました」
「麗くんが話し始めたんでしょ!」
「質問したのは翼さんです」
「最初にカラスの話を出したのは麗くん!」
「休憩のためです」
「休憩になってない!」
なるほど。
次回の参考にはしておこう。
採用するかどうかは、別の話だった。
翼さんが、ふと眉を寄せた。
「そういえば、麗くんはいつ勉強してるの?」
「いつ、とは」
「私に教えてるところは見たけど、自分の勉強をしてるところ、あんまり見たことない」
「必要があれば、しますよ」
「試験の前とか?」
「今回の範囲であれば、特には」
翼さんが黙った。
僕は説明を足した。
「授業で扱った内容ですから。聞いていれば、分かるでしょう」
返事がなかった。
「……翼さん?」
「今、同じ言葉を話してるのか、不安になった」
ひどく遠いものを見る目だった。
*
「だから、聞いても分からないことがあるんだってば」
「その場で質問すればよいのではありませんか」
「何が分からないのか、分からないこともあるの!」
そんなやり取りをしながら、扉を開けた。
言い合いが、止まった。
先客がいた。
スーツ姿の集団だった。
応接用の椅子に、一人。
その後ろに、数人が立っている。
立っている者たちは、背筋を伸ばし、手を前で揃えていた。
誰も余計なことを話さない。
座っていたのは、眼鏡をかけた初老の男性だった。
派手な身なりではなかった。
けれど、こちらを向くまでの僅かな動きに、周囲の人間が合わせている。
向かいには八神がいた。
いつものように、椅子へ深く腰掛けている。
「……失礼しました」
僕が言うと、男性は軽く首を振った。
「いや。こちらは、もう済んだところだ」
立ち上がる。
後ろの者たちが、わずかに位置を変えた。
男性は八神へ向き直った。
「では、よろしく頼む」
八神は、曖昧に手を振った。
承諾したのか、帰れと言ったのか、判別しにくい仕草だった。
男性がこちらへ歩いてくる。
一瞬、目が合った。
薄いレンズの向こうの目が、僕を見た。
次いで、翼さんへ移った。
僕たちは脇へ寄り、一礼した。
男性も、静かに会釈を返した。
言葉はなかった。
スーツ姿の人々が、その後ろへ続いていく。
最後の一人が扉を閉めるまで、翼さんも僕も、口を開かなかった。
「……換気をしてください」
僕は八神へ言った。
煙草の煙が、応接用の机の上をゆっくりと流れていた。
「挨拶より先に、それかね」
「煙草をやめていただければ、もっと助かります」
「こんにちは、八神さん」
翼さんが、きちんと頭を下げた。
八神は満足そうに頷く。
「こんにちは、翼くん。麗も見習いたまえ」
「こんにちは。換気をしてください」
「順番だけ直せばよいというものでもないのだが」
そう言いながら、八神は窓を少し開けた。
煙が、そちらへ流れていく。
「先ほどの方々は?」
僕が尋ねると、八神は扉を一瞥した。
「つまらん連中だよ」
「それは感想です」
「事務的な報告に来ただけだ」
「何のですか」
「君は、廊下で会った人間を全員調べないと気が済まないのかね」
翼さんが、僕の袖を軽く引いた。
これ以上聞いても、答える気はないらしい。
話を変えよう。
「それで、今日の用件は」
「先日の研究所についてだ」
翼さんの手が、袖から離れた。
スラップス社の問題は、僕たちが見た地下施設だけでは終わらなかった。
八神は、机の上に置かれた書類を一枚めくった。
「そもそも失踪を把握されていない者も含めた、人体実験。霊的資産の外部流出。特定禁止綱目への違反」
もう一枚。
「指定霊獣及び怪異の乱獲と密輸。ほかにも、まだ出てきそうだな」
淡々とした口調だった。
その言葉の一つ一つが、地下に並んでいた円柱へ繋がっていた。
「研究所だけで、そこまでしていたのですか」
「研究所だけで済んでいれば、話は簡単だったろうね」
八神が書類を置いた。
「判明している範囲だけでも、業界のお偉い様の首が、片手では足りん」
隣で、翼さんが息を呑んだ。
「その人たちは、どうなるんですか」
「さあ?」
軽い返事だった。
翼さんが眉を寄せる。
「さあ、って」
「私は、そういった処理には関わらないことにしている」
「調べている途中なのですか」
僕が聞くと、八神は頷いた。
「調べる者も、責任を問う者もいる。そちらの仕事だよ」
「だから、知らないと?」
「そう言っている」
それで話は終わりだというように、灰皿へ煙草を置いた。
納得できたわけではなかった。
あの施設へ、どれほどの人間が運ばれたのだろう。
誰が知っていたのか。
誰が見ないふりをしたのか。
問いが浮かぶたび、僕たちが見たものの外側へ、知らないものが広がっていく。
翼さんも、膝の上で手を握っていた。
八神が立ち上がった。
「その前に、翼くん」
彼女が顔を上げる。
八神は、その前へ立った。
そして、深く頭を下げた。
「申し訳なかった」
僕は、動きを止めた。
翼さんも、止まっていた。
「……え?」
「今回、君を危険へ巻き込んだことについて、謝罪したい」
「あの、八神さん。顔を上げて――」
「気をつけてください、翼さん」
僕は思わず口を挟んだ。
「このあと、何を頼まれるか分かりません」
八神は顔を上げなかった。
嫌味も返さなかった。
「君の内に高位の霊的存在があることは、気づいていた」
その声を聞いて、僕は口を閉じた。
「そのうえで、あの研究所の仕事へ就かせた。危険を避けるために、取れる手段はあった」
翼さんが、八神を見ていた。
「それを尽くさず、君の身を危険に晒した。君自身が理解し、選ぶより先にだ。こちら側へ招き入れてしまった」
ゆっくりと、言葉が続く。
「君が無事に戻ったことと、私がしたことの責任は、全く別物だ」
いつもの笑いがなかった。
嘲りも。
からかいも。
言葉の裏へ何かを隠すときの、あの余裕さえ見えなかった。
「すまなかった」
僕は、八神の下げた頭を見ていた。
こんな姿を、見たことがなかった。
何を言えばよいか分からないのは、翼さんも同じらしかった。
唇を開き、閉じる。
少しして、彼女は尋ねた。
「……私がいたことで、何か変わりましたか」
八神は、その姿勢のまま答えを待った。
「私が巻き込まれたことで。あの研究所で、何か」
声を選ぶように、続けた。
「助けられたものは、ありましたか」
一瞬の沈黙。
「研究所の奥で、身元の分からない遺体と遺骸が、多数見つかった」
八神が答えた。
「遺されたものを回収し、供養することができた」
翼さんは黙って聞いていた。
「不正を。さらに被害が広がる前に止めることもできた。今回踏み込まなければ、場所を移して続けられていたかもしれない」
そこで、一度言葉を切った。
「そして。君を含め、二人の少女を連れ戻すことができた」
マリア。
その名前が、僕の中に浮かんだ。
翼さんが目を閉じた。
腕を組む。
「……うーん」
考えていた。
首を傾け、眉を寄せ、もう一度唸った。
僕は何も言わなかった。
これは、彼女が答えることだった。
やがて、翼さんが目を開けた。
表情が、ぱっと明るくなった。
「許します」
迷いのない声だった。
「……それで、いいんですか」
思わず聞いてしまった。
翼さんがこちらを見る。
「よくない?」
「あなたが決めることですが」
八神は、まだ頭を下げていた。
もう少し、この珍しい光景を見ていたいという気持ちも、正直に言えばあった。
翼さんが僕を見て、目を細めた。
「麗くん、今ちょっと意地悪なこと考えてるでしょ」
「否定はしません」
「もう」
小さく笑って、それから真面目な顔へ戻った。
「怖くなかったわけじゃないよ。もう一回同じことがあっても平気、なんて思わない」
膝の上へ手を置く。
「でも、これから同じ目に遭う人が、いなくて済むかもしれないんでしょ」
僕は頷いた。
「それに、助かった子がいる」
翼さんが、僕を見た。
「マリアが戻ってこられたことに、不満はある?」
何も言えなかった。
あるはずがなかった。
彼女は、それを確かめると八神へ向き直った。
「だから、私は許します」
少しだけ、声を強くする。
「ただ、次はちゃんと教えてください。私に関係することなら、私も知っておきたいです」
八神が、静かに頷いた。
「承知した」
そこで、ようやく顔を上げた。
僕は、その顔を見た。
真面目な表情は、まだ少し残っていた。
けれど、椅子へ戻る頃には、いつもの口元になっていた。
「では、本題へ移ろうか」
切り替えが、早すぎだ。
八神が、机の引き出しを開けた。
封筒を一通、取り出す。
「翼くん。今回のアルバイト代だ」
彼女の前へ差し出した。
「少し、色をつけてある」
「ありがとうございます!」
翼さんが、両手で受け取った。
先ほどまでの重い話とは違う意味で、その顔が明るくなる。
「今月結構お金を使っちゃったから〜助かります」
「それは何より」
僕は封筒を見た。
八神の手元を見る。
引き出しは、閉じられていた。
「……僕の分は」
「君は月給制だろう」
「追加の業務が、相当あったと思いますが」
「働きぶりは評価しているよ」
「評価を、形にしてください」
「来月も期待している」
話が通じなかった。
翼さんが封筒の口を開ける。
小さく鼻歌が聞こえた。
何に使うか、もう考えているのかもしれない。
中から、折り畳まれた紙を取り出した。
「振り込みかな?」
僕は、その後ろからそっと覗いた。
文字が見えた。
名前。
金額。
僕は、動きを止めた。
翼さんは、まだ笑っていた。
「ええと……」
指先が数字を追う。
一桁ずつ、確かめている。
その指が、途中で止まった。
初めへ戻った。
もう一度、数えた。
鼻歌は、消えていた。
紙面には、こう記されていた。
◇ ◇ ◇
天使翼 様
此度の弊社依頼達成に対する報酬として、
下記金額をお支払い申し上げます。
金 五千万円也
¥50,000,000-
八神祓事務所
代表 八神
◇ ◇ ◇
僕は、もう一度読んだ。
数字を数える必要はなかった。
漢字でも、書いてあった。
五千万円。
翼さんが、ゆっくりとこちらを向いた。
僕も、彼女を見た。
目が合った。
何も言わなかった。
言わなくても、今、同じことを考えているのは分かった。
僕たちは、揃って八神へ顔を向けた。
八神は、不思議そうに首を傾げた。
「少なかったかな?」




