第43話 そして物語が動き出す
窓の外を、雲の影が滑っていた。
高層ビルの上階に設けられた一室。
床から天井まで届く窓の向こうには、街を見下ろす眺望が広がっている。
その景色を楽しんでいるのは、八神だけだった。
「よい眺めだな。これなら、多少家賃が高くても納得できる」
八神は椅子へ深く腰を沈め、長い脚を組んでいた。
肘掛けに頬杖をつき、顔は窓へ向けたままだ。
「…維持費の一部は会費で賄われておる」
袈裟姿の老人が言った。
「ほう。では、茶菓子の一つぐらい出してもらっても、罰は当たらんな」
「アンタが払ったって記録は残っていないけどな」
白衣の若い女が言った。
「…報告の続きを聞かせてもらおうか」
老人の声は低く、室内の空気を押し下げた。
八神は、ようやく窓から目を離した。
長い机を囲む面々が、こちらを見ている。
袈裟姿の老人の隣には、上下とも真っ白なスーツに身を包んだ老婆。
その向かいには、僧衣の上からでも分かるほど筋肉の発達した坊主が、太い腕を組んでいる。
黒いフリルを重ねた服に眼帯をつけた少女は、二つに結んだ髪を背へ流し、爪先を眺めていた。
白衣の袖を肘まで捲ったパンク風の女は、机を指で叩いている。
耳に並んだ金属が、一定の間隔で鳴った。
襟元まで隙なく整えたチャイナ服の男女は、微動だにしない。
そして、犬の着ぐるみ。
垂れた耳と丸い鼻。
口元には愛嬌のある笑みが縫いつけられている。
だが、その黒い目だけは、八神の一挙手一投足を逃さず追っていた。
超常怪異対策局。
祓屋の間で、単に『協会』と呼ばれる組織。
古代より魑魅魍魎が跳梁跋扈する魔窟、日本。
協会が小さな島国に支部を三つ置くほど重要視するアジアの拠点でもある。
ここにいるのは、その幹部たちだった。
服装に統一感はない。
しかし、いずれも祓屋の業において一流に位置する実力者である。
その全員が、目の前の男の報告に納得していなかった。
「続き…と言われてもなぁ」
八神は組んでいた脚を替えた。
「提出したとおりだが?」
「その提出したものについて、聞いているんだよ」
白衣の女が、数枚の紙を机へ叩きつけた。
紙は滑り、八神の前で止まった。
「研究施設へ侵入。違法な実験を確認。被験者を救出。関係者を確保。はい、終わり。これを報告書と言い張るつもり?」
「要点がよくまとまっているだろう」
「肝心なところが、何一つまとまってないんだよ!」
女の指が、一行を叩いた。
「マイケル=カース。失踪」
「書いてあるな」
「誰が書いたんだい」
「私だ」
「分かってるよ!」
白衣の女は椅子へ背を預けた。
金属の飾りが鳴る。
「失踪する直前、彼はどこにいたんだい」
白いスーツの老婆が、紙面から目を上げた。
「地下だな」
「あんたも地下にいたんだろう?」
「広い施設だったからな」
「最後に姿を見たのは?」
「救助の最中だった。忙しくてね」
「…逃走経路は」
「分かっていれば、失踪とは書かんよ」
老婆は資料を揃えた。
紙の角が、寸分違わず重なる。
「八神」
柔らかな声だった。
「私らは、あんたの語彙を確かめるために集まったのではないんだよ」
「それはよかった。長くなりそうだと思っていたところだ」
誰も笑わなかった。
八神だけが、楽しそうに口元を緩めた。
面白くない奴らだな。
報告できないことばかりではなかった。
スラップス社の研究内容。
地下施設の構造。
押収すべき資料と、所在の分かる関係者。
少女についても、保護に必要な情報は渡してある。
施されていた処置。
人工霊体との親和性。
天使の器となった経緯と、その後に確認された状態。
彼女を預ける以上、その身に何が起きたかを伏せるわけにはいかなかった。
ただし、そこへ至るすべての出来事を、順に並べたわけではない。
間久部麗と血。
呼び出された精霊、そして、天使翼。
それらを省いたまま、マイケルの末路だけを説明するのは難しかった。
八神は、難しいことに労力を割かなかった。
失踪。
その二文字で済ませた結果が、今の会合だった。
…存外に重要な案件だったのだろうかねぇ――
肘置きを指でなぞりながら、思案にふける八神。
「…少女の記録だけは、随分と細かいのね」
眼帯の少女が言った。
爪を眺めていた顔を上げ、八神を見る。
「そうか?」
「前後の記述が繋がらないのに、そこだけ妙にはっきりしてる」
「協会で保護してもらえるんだ。必要な措置だと思ってる」
「じゃあ、ほかの箇所が抜けているのは、誰の都合?」
八神は答えなかった。
机上の紙を一枚つまみ、裏返す。
白紙であることを確かめると、また元へ戻した。
「余白も多くて読みやすかろう」
少女の指が止まった。
隣で、筋骨隆々の坊主が息を吐く。
「戯言だな」
椅子が低く軋んだ。
「他でもない『八神』、お前が関与した時点で全てな疑わしい」
「あどけない少女を救助し、業界の不正が正された。賞賛ことされ、責められる謂れがないな」
「研究所を、あそこまで壊しておいて…」
「瓦礫の撤去と記録のサルベージが難航してるって」
「頑丈に造っておくべきだったな」
坊主の腕が解かれた。
拳が机の下で握られる。
床板の下を走る霊圧が、薄く波打った。
チャイナ服の男が袖の中で指を組み替え、女は八神の足元へ視線を落とす。
八神の影が、照明とは逆方向へ伸びた。
犬の着ぐるみが首を傾ける。
縫いつけられた笑みは変わらない。
だが、黒い目から愛嬌が消えた。
机の端の紙が、一枚、ふわりと浮く。
「なんだ?」
八神はそれを見て、目を細めた。
「御歴々の皆々様方は、報告の実演がご所望だったか」
白衣の女が、机の下から小さな金属片を取り出した。
「実演するなら、逃げ道まで説明してもらおうか」
金属片の先端が、八神へ向く。
老婆が資料の角を押さえる。
紙面の術式が淡く発光した。
チャイナ服の男女の袖が、同時に揺れる。
八神は全員の動きを見て、笑った。
「心外だな…この程度で相手になると?」
「八神」
袈裟の老人が、名を呼んだ。
短い声だった。
それだけで、室内の霊圧が一段沈んだ。
窓へ流れていた雲の影が、室内を暗くする。
八神の指が、椅子の肘掛けを二度叩いた。
そのとき。
「…ふふっ」
小さな笑い声がした。
張りつめた室内には、不似合いなほど可愛らしい声だった。
机の上座。
一人の少女が座っていた。
柔らかな栗毛が肩へかかっている。
北欧の血を思わせる白い肌に、整った目鼻立ち。
彼女の前には、一冊の本が置かれていた。
閉じた表紙を、細い指がゆっくりとなぞっている。
「皆さん、大丈夫です」
少女が言った。
「分かっていますから」
幹部たちの術が、わずかに止まった。
八神は椅子へ深く座ったまま、その指先を見ていた。
「支部長殿は理解が早くて助かる」
少女が微笑む。
「今のところ、それで十分です」
白いスーツの老婆が、僅かに眉を動かした。
「支部長。しかし――」
「追加で確認したいことは、私から伺います」
穏やかな声だった。
だが、拒否を許さない響きがあった。
老婆は少女を見つめ、それから口を閉じた。
坊主も拳を解かないまま、腰を下ろす。
少女の指が、本の中央で止まる。
「スラップス社の件は、引き続きこちらで調査を進めます。ご協力いただけることがあれば、またお願いするでしょう」
「忙しくなりそうだな」
「ええ。ですから、もう一つの件も、確かめておきたくて」
八神の目が、少女へ戻った。
少女は微笑んだままだった。
「お願いしていたことは、どうなりましたか?」
八神は、すぐには答えなかった。
机を囲む者たちの視線が、二人の間を動く。
白衣の女が、金属片を握り直した。
眼帯の少女の足元で、黒い影が薄く蠢く。
坊主の拳が、再び鳴った。
「まさか」
少女が、わざとらしく少しだけ首を傾げ、驚いた。
「『八神』ともあろう方が?お約束を違えたりはしませんよね?」
嘲るような言い回しと態度。
明らかな挑発と取れる態度に、八神が鼻で笑った。
組んでいた脚を下ろす。
「万事抜かりなく、支部長殿」
立ち上がった。
長いコートの裾が、椅子の脇を滑る。
「では、これで失礼しよう。私も、暇ではないのでね」
「待ちな」
白いスーツの老婆が言った。
八神は止まらなかった。
「まだ、話は済んでおらん」
袈裟の老人の声が続く。
「座れ」
坊主が低く言った。
八神は扉へ向かう。
その背中へ、幾つもの殺気が重なった。
チャイナ服の男の指が、空中に細い線を描く。
女の袖から、赤い糸が一本だけ伸びた。
犬の着ぐるみが、机から前脚を離す。
八神は扉の手前で止まった。
「おい!勝手に終わらせるな」
坊主が腰を浮かせる。
八神は振り返った。
「怖い怖い」
笑っていた。
その手に剣を携えて。
一同に緊張が走る。
「また、遊びに来る」
彼らの躊躇なぞお構いなしに、刀身が抜かれる。
音は小さかった。
だが、抜かれた瞬間、室内の空気が一文字に裂けた。
白い斬撃が、机の上を薙いだ。
袈裟の老人が二本の指を立てる。
斬撃の軌道へ、見えない壁が幾重にも重なった。
白いスーツの老婆が札を弾く。
札は空中で燃え、白い輪となって斬撃を縛った。
坊主の拳が空間を打つ。
衝撃が正面からぶつかり、床が低く鳴った。
眼帯の少女の足元から黒い影が跳ね上がる。
影は獣の顎となり、斬撃へ噛みついた。
白衣の女が金属片を放つ。
それは途中で三つに分かれ、斬撃の中心へ突き刺さった。
チャイナ服の男女が、左右へ手を払う。
男の術が斬撃の勢いを削ぎ、女の術がその残滓を絡め取った。
犬の着ぐるみが、片方の前脚を上げる。
その動きに合わせ、床から透明な膜が立ち上がった。
斬撃が膜へ触れる。
音が消えた。
次の瞬間、幾つもの術式が一斉に軋み、白い光が潰れた。
衝突した力が逃げ場を失い、灰色の煙となって噴き上がる。
窓は割れなかった。
机も、椅子も、誰一人として傷つかなかった。
ただ、幹部たちと扉の間を、濃い煙が遮った。
「八神ィッッ!」
誰かが叫んだ。
返ってきたのは、高笑いだった。
からからと、よく通る声が室内を転がる。
白衣の女が舌打ちし、金属片を追加で放つ。
眼帯の少女の影が煙へ潜り込む。
だが、何も捉えない。
チャイナ服の女が袖を振った。
風が巻き起こり、煙が左右へ裂ける。
扉は開いていたが、その向こうに、八神の姿はなかった。
「……相変わらず、品のない男だ」
坊主が椅子へ座り直した。
眼帯の少女は、結んだ髪の先を払う。
「次に来たら、入口で落としていい?」
「その前に、報告書を書き直させたいね」
白衣の女が飛び散った紙を拾った。
表と裏を見て、うんざりした顔になる。
「何度見ても、白いところのほうが多いなぁ」
犬の着ぐるみが、ゆっくりと前脚を下ろした。
縫いつけられた笑顔は、少しも変わっていなかった。
「皆さん」
パンと手を打つ音と声がした。
「今日は、ここまでにしましょう」
少女は本を自分の前へ引き寄せた。
「残った確認事項はこちらで預かります。調査のほうは、予定どおり進めてください」
「……よろしいのですか」
袈裟の老人が尋ねる。
少女は頷いた。
「ええ。彼も約束は守ってくださるそうですから」
それ以上の説明はなかった。
幹部たちは、納得した顔ではなかった。
それでも、再び異議を唱える者はいなかった。
資料を揃える音が、室内に戻り始める。
残った煙が、空調に運ばれて薄くなっていった。
少女は椅子へ深く腰をかけた。
イーリアス=チャン。
超常怪異対策局、日本・東京支部を束ねる少女は、両手で顔を覆った。
指の陰で、唇が緩む。
叱責を受けながらも席を立ち、最後には斬撃まで置いていった男。
『八神』の名を名乗る埒外者。
そんな彼が、あれほど露骨に報告を省き、問いをはぐらかしてまで、手元に留めておきたいものがあるらしい。
もう片方の手が、表紙の端へ触れる。
「楽しみですね、間久部くん」
誰に聞かせるでもない呟きは、紙を揃える音の中へ消えた。




