第42話 ともだち
白い天井だった。
見上げているうちに、塗装の僅かなむらまで覚えてしまいそうだった。
視線を横へ動かす。
腕には、点滴、透明な管。丁寧に巻かれた包帯。
身体を少しずらすと、脇腹が痛んだ。
動かさなくても、あちこち痛かった。
痛む場所を順番に確認するのにも飽きて、僕は枕へ頭を戻し、目を閉じて思いに耽る。
あのあと、研究所へ人が押し寄せた。
八神が要請していた、祓い屋の協会の関係者だった。
救護に当たる者。
地下へ向かう者。
機材を運び込む者。
誰もが、何をするべきか分かっているようだった。
僕たちが呆然としている間にも、現場は次々と区切られ、調べられていった。
グレッダ女史と李所長は、別々の人間に連れていかれた。
女史は、最後までマリアを見ていた。
何かを言おうとしてたが、無言のまま連れられていったのだ。
僕も、彼女へ何と声をかければよいか分からなかった。
そのマリアはというと。
保護された、そう説明された。
「天使の器だ。それも、聖書に連なる受胎告知の天使となれば、預け先は選ばねばならん」
八神は、そう言っていた。
「然るべきところへ任せる。安心したまえ」
聞きたいことはあった。
どこへ行くのか。
これから、どう暮らすのか。
また会えるのか。
けれど、その頃にはもう、僕の身体が言うことを聞かなくなっていた。
最後に、少しだけでも話したかった。
さよならでも。
また会いましょうでも。
何か、一つぐらい。
結局、何も言えなかった。
そして、セシルもいなかった。
僕が気を失ったあと、ひとりでに姿が薄れ、消えてしまったらしい。
先に目を覚ましていた天使さんから、そう聞いた。
「何か、言っていませんでしたか」
「ううん。何も」
その答えを聞いたときには、胸の奥が冷えた。
けれど、ベッドの傍へ置いたズボンのポケットには精霊石が入っている。
手を伸ばし、取り出す。
見れば見るほど、小さな石だった。
これほどのものが、あの剣になり、盾になり、僕たちを守っていた。
掌へ包んで、目を閉じてみると、微かな脈動があった。
深い渓流の水音が石の奥から聞こえてきた。
確かに、そこに。
「……ありがとうございました」
返事はなかった。
僕は石をしまい、息を吐く。
ここ2日程で、色々とありすぎた。
考える順番を決めるだけで、また疲れてしまいそうだった。
枕元の水へ手を伸ばし、口に含んだ。
飲み込む直前、病室の扉が勢いよく開いた。
「間久部くん!」
口の水を堪えられず、吹き出し咳き込んでしまった。
「起きてた!」
天使さんが、入ってきた。
手には花束を抱えていた。
果物の袋も。菓子の箱も。
そのほかにも、何が入っているのか分からない袋が、両腕から幾つも下がっている。
「……扉は、もう少し静かに開けてください」
「ごめん。大丈夫?」
「今ので、少し大丈夫ではなくなりました」
濡れた口元を拭う。
天使さんは、抱えていたものを空いている台へ積み上げた。
一度では載りきらなかった。
「それは何ですか」
「お見舞いだよ。お店の人たちからも預かってきたの」
答えながら、ベッドへ寄る。
「熱は?まだ痛い?起き上がっていいって言われた?」
「順番に聞いてください」
額へ手が触れた、次に肩、包帯を見て眉を寄せ、腕の下へそっと手を差し入れる。
「こっちも怪我してたんだ……」
「大したことはありません…」
「腫れてない?」
「…天使さん」
脇腹へ手が伸びた。僕は身体を引いた。
「そこは、くすぐったいです」
「あ、ごめんごめん」
近かった。
顔も、声も。
その距離に、さっきまで考えないようにしていた救出直後の混乱が蘇った。
抱きしめようとして。
投げられて。
あのときの自分は、何をしていたのだろう。
急に、顔を合わせにくくなった。
視線を逸らす。
天使さんの手が止まった。
「……何よ?」
「何でもないです…」
「今、絶対何か思い出した」
「それは、人間ですから、常に何かしら――」
腹へ拳が入った。
寝具越しの、軽い一発だった。
今の僕には、十分だった。
「……すみません」
「何に対して?」
僕は答えなかった。
答えを選んでいる間に、彼女の顔まで赤くなった。
「もう……」
天使さんは拳を引っ込め、椅子を寄せた。
「本当に何ともないんですか?」
僕が尋ねると、天使さんは自分の腕を見た。
「うん。傷もないし、痛くないし」
指を開いたり、握ったりする。
「むしろ、前より調子がいいぐらい」
「……そうですか」
「何、その顔」
「いえ」
僕は、自分の腕を見た。
包帯に点滴、ほかにも打撲や擦り傷や切り傷が、身体の各所で存在を主張している。
よいことだ。
彼女が無傷だったのは、何よりよいことだった。
それでも、この差については、多少思うところがあった。
「間久部くんは?」
「見てのとおりです」
「痛い?」
「痛くないと言ったら、信じますか」
「信じない」
「では、それが答えです」
天使さんが、困ったように笑った。
その顔を見て、ようやく思った。
終わったのだ。
少なくとも、あの地下で続いていたことは。
僕たちはこうして、座って話している。
その事実を確かめると、今度は、言わずにいたことが喉へ上がってきた。
「……すみませんでした」
天使さんが顔を上げた。
「今度は、何?」
「巻き込んでしまったことです」
膝の上へ目を落とす。
「怖い思いもさせました。傷も、つけました」
包帯の端を、指で撫でた。
「あの攻撃を指示したのは、僕です」
彼女は黙っていた。
「ほかに方法が思いつかなかったからといって、それで済むとは思っていません」
雨の音を、覚えていた。
二人の服が、髪が、羽が、肌が焼ける光景を覚えている、悲鳴もだ。
目の前の肌に痕がなくても、僕が見たものは消えなかった。
「それに、最後は僕のせいで、また――」
「全部、間久部くんのせいにしないでよ」
顔を上げた。
天使さんは、真面目な顔をしていた。
「私が自分で一緒に行くって決めたんだから」
「でも…」
「あんなことをした人たちがいたことまで、あなたが謝るのは違うと思う」
そう言って、少し視線を落とした。
「私も、全部は覚えてないんだけど」
手が、膝の上で重なった。
「熱かったのは、覚えてる」
その声で、僕の背中が強張った。
「ずっと、熱いところにいた…身体は動いてるのに、私が動かしてる感じがしなくて」
指が、ゆっくりと握られた。
「やめようって思っても、届かないの。剣を持ってるのは私なのに、手が言うことを聞かなくて」
僕は何も言えなかった。
あの剣の、あの時の震えを思い出した。
彼女は、あそこにいた。
僕が怒鳴っていたときも。
剣が僕へ向けられたときも。
「……すみません」
「だから――」
「それでも!…すみません」
天使さんが、小さく息を吐いた。
けれど、怒らなかった。
「声…聞こえたよ…」
僕を見た。
「間久部くんの――」
「……声、です、か?」
「うん。色々と」
少し、嫌な予感がした。
「…クソ真面目とか。融通が利かないとか」
僕は水へ手を伸ばした。
「天使さん…喉は渇いていませんか」
「空気が読めないとか」
「せっかくです。頂いた果物を剥きましょう」
「食いしん坊とか、集中力が続かないとか…あと、ヒグマがどうとか?」
「お見舞いの品は、早めに整理したほうが」
「間・久・部くん!」
腕を掴まれた。
反射的に、身体が強張った。
天使さんが、それに気づいて眉を下げる。
「もう…投げたりしないってば」
「…先ほどのことがありますので」
「……それは、ごめん」
掴む力が、少し緩んだ。
けれど、手は離れなかった。
「あと」
声が小さくなった。
「名前、呼ばれた気がした」
僕は、彼女を見た。
天使さんも、僕を見ていた。
「気のせいでは?」
「それを私に聞く?」
顔を背けた。
窓がから見る外国の景色は明るかった。
そのことが、今は何の役にも立たなかった。
「……何で?」
彼女が尋ねた。
「何がですか」
「名前」
点滴が、一滴落ちた。
次の一滴が落ちるまでが、やけに長かった。
何で。
それは、呼ばなければならなかった
泣いて、怒って、困惑して、感情が剥き出しになっていた天使ではなく、その中いる彼女へ、届いてほしかった。
より強く、より彼女に届くようにと。
けれど、それをそのまま説明するのは、どうにも難しかった。
僕は、少し考え、別の言葉を思い出した。
「……友達だと、言われましたので」
腕に触れていた手が、止まった。
「…友達なら…名前で呼んでもおかしくないと思いますけど…」
自分でも、苦しい言い訳でしかないと思った。
―――けれど、間違ってはいないはずだった。
天使さんは黙っていた。
黙って、頬を赤くしていた。
「……そっか」
ようやく、それだけ言った。
僕は頷いた。
話は終わった。
そう思った。
「じゃあ」
彼女が、こちらを見る。
「麗、くん」
僕は、顔を戻してしまった。
天使さんが、少しだけ笑った。
「……何ですか」
「呼んだだけ――友達の名前」
何だ、それは。
何と返せばよいのだろう。
こちらも呼び返すべきなのか。
それは、何のために。
考えている間に、彼女が目を逸らした。
僕も逸らした。
静かだった。
気まずい、と言えば、そうなのかもしれない。
けれど、嫌な時間ではなかった。
次の言葉を紡ぐ直前、病室の扉がまた開いた。
僕たちは、同時に離れた。
――正確には、彼女が手を離し、僕が不必要に背筋を伸ばした。
扉の前には、八神が立っていた。
僕を見る。
次いで。天使さんを見る。
それから、僕たちの手元へ目を落とした。
「…一度、出ようか?」
「必要ありません」「違います!」
声が重なった。
何が違うのか、僕には分からなかった。
八神は、実に楽しそうだった。
「仲がよくて結構」
「用件をお願いします」
「帰る算段と、仕事の顛末だよ。ほかに何を期待したのかね」
僕は答えなかった。
八神は椅子を引き寄せ、勝手に座った。
スラップス社は、業務を停止する。
事業の一部は整理され、残るものも別の企業へ吸収される見込みだという。
李所長は、人身売買に関わった件で逮捕された。
グレッダ女史は、協会の預かりとなった。
「詳しい話は、帰ってからにしよう」
八神はそう言った。
説明は、それで終わった。
「待ってください」
僕は身を起こした。
「グレッダ女史は、なぜ協会へ?」
「事情がある」
「その事情を聞いています」
「調べることもある」
「八神さん!」
「マリアは?」
天使さんも口を挟んだ。
「あの子は、どうなるんですか」
「保護されている。そこは心配せずともよい」
「会えないのですか」
僕が聞くと、八神は僕を見た。
いつものようには、笑わなかった。
「今すぐはな」
胸の内側に、小さな重さが残った。
無事なのなら、それでよい。
そう思うべきなのだろう。
けれど、最後に何も言えなかったことが、まだ引っかかっていた。
「今後については、分かり次第伝えよう」
八神はそこで話を切った。
僕は、もう一つ質問しようとした。
先に、八神が口を開いた。
「ところで、君たち」
視線が、僕と天使さんを行き来する。
「そちらばかり気にしていて、よいのかね?」
「どういう意味ですか?」
質問を質問で返してしまった。
だが、意図がわからなかったから仕方ないだろう。
呆れたように肩をすくめる八神。
「連休が終わる」
僕たちは黙った。
それは、知っている。
日付の感覚は怪しくなっていたが、休みが永遠に続かないことぐらいは分かる。
八神が、コーヒーを手に取った。
いつの間に用意したのか、誰のものなのか、気にする余裕もなかった。
「君たちの職業は?」
その言葉の意味もまた不可解だった。
僕たちの職業、学生になる………あ。
「……あ」
隣で、小さな声がした。
気がついたのは、同じタイミングだった。
天使さんの顔から、表情が消え、両手で頭を抱えた。
僕は、頭の中で時間割を開いた。
試験の日程と科目。
テストの範囲は…まあ、問題ない。
課題のレポートとかだけど、あれは夏休みの課題だから、もっと後でも大丈夫だな。
「忘れてた……」
この世の終わりみたいな顔になってる天使さん。
「思い出せてよかったな」
「全然よくないです!」
八神はコーヒーを飲んだ。
僕は、残りの時間と必要な作業を数えた。
―――処理できないほどではない。
「何とかなります」
天使さんが、勢いよくこちらを向いた。
「本当に?」
「ええ。課題も、記録は残っていますし。試験についても、今から整理すれば」
「一緒にしないで……」
悲壮な声だった。
僕は少し考えた。
確かに、一緒にはできなかった。
「どこまで復習しましたか」
天使さんは目を逸らした。
「どの科目ですか」
さらに、目を逸らした。
「……なるほど」
「その納得の仕方、やめてぇ」
天使さんが、しばらく頭を抱えていた。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
僕を見た。
何かを思いついた顔だった。
「麗くん」
その呼び方に、返事が一拍遅れた。
「……何ですか」
「出るところ、分からない?」
「試験の、ですか」
「うん。ほら、先生の授業の進め方とか。教科書で大事なところとか」
天使さんが、猫のように身を寄せてくる。
「ヤマ、張れたりしない?」
できないことはない。
授業中の強調の仕方。
課題に出た問題。
前回の試験で問われなかった範囲。
「ある程度なら」
天使さんの顔が明るくなった。
「お願い!」
両手を合わせた。
僕は、その手を見た。
今夜は、願い事の多い日だった。
ただし、今回は星の出番ではない。
「……八神さん」
「何だね?」
「帰りは、どうするのですか。どの程度、時間がかかりますか」
八神は、カップを持ち上げた。
「…コーヒーを飲んでいる間には、事務所だな」
やはり。
僕は頷いた。
行きで何かしら、特別な移動手段があったと思っていた。
帰りも使えるのではと思っていたのだが。
そもそも、パスポートも持ってないし…
通常であれば、移動で半日近く失うところだった。
その時間が、丸ごと使える。
「分かりました」
短く礼をして、天使さんの肩へ手を置いた。
「大丈夫ですよ、天使さん」
「……うん?」
「時間は、十分にあります」
彼女の笑顔が、少し止まった。
「ヤマを張る必要はありません。範囲を整理して、理解の曖昧なところから潰していきましょう」
「待って」
「一度きちんと身につければ、次にも繋がります。その場限りで済ませるより、ずっと効率的です」
「麗くん?」
「何ですか、翼さん」
彼女が、一瞬だけ黙った。
その隙に、話を進めた。
「今から、僕がつきっきりで見ます」
翼さんの顔から血の気が引いた。
「えっと…今から?」
「はい」
「でも、ほら。麗くん、怪我してるし」
「高校生の試験問題程度の説明に支障はありません」
「疲れてるでしょ?まずは…休まないと」
「ベッドで休みながらできます」
「……私〜お腹が空いてきたかも…」
僕は台の上を指した。
果物と、菓子が山になっていた。
彼女は、それを見た。
自分で持ってきたものだった。
「……ちゃんとした食事は取らないと〜」
「食事の時間は取ります。当然でしょう」
笑顔で答えた。
なぜか、彼女が椅子を引いた。
立ち上がろうとする。
「まず、今の理解度を確認しましょう」
その手首を掴んだ。
今度は、投げられなかった。
「麗く〜ん?その笑顔、ちょっと怖いなぁ〜」
「安心してください…友達を見捨てたりはしませんよ、翼さん」
「安心できない言い方だからね!それ!」
八神が立ち上がった。
空になったカップを置く。
「では、ごゆっくり……」
「八神さん、待って。私も――」
「翼さん」
呼ぶと、彼女が振り向いた。
僕は、ベッド脇へ置かれていた鞄を引き寄せた。
参考書を一冊取り出す。
その下から、問題集。
さらに、ノート。
試験範囲をまとめた資料。
積み上がるたびに、彼女の表情が変わっていった。
「……何で、そんなにあるの」
「勉強する予定でしたので」
観光もするつもりだった。
写真を撮って。
買い物をして。
その隣に、彼女がいてもよいと思っていた。
予定は、随分と変わった。
けれど、隣にはいる。
文句を言い、逃げようとしながら、それでも僕の声へ振り向く彼女が。
僕は、一番薄い問題集を開いた。
「大丈夫です。分かるまで、みっちり教えます」
八神が、扉の向こうで笑った。
僕は聞こえないふりをした。
「まずは、日本史と世界史はまとめていきましょう…こ時系列を抑えれば効率がいいですから……では、ここから―――」
「待って、麗くん!?最初からその量は――」
「基礎の確認ですよ」
「これで基礎なの!?」
病室に、翼の悲鳴が響いた。
今度は、その声を聞いても、怖くなかった。




