第41話 決意の果てに
床へ落とされた。
「……もう少し、丁寧に下ろせませんか」
「足はついているだろう」
尻もついている。
言い返そうとして、胸の痛みに息が詰まった。
八神は、そんな僕を見ていなかった。
黒い剣を肩へ載せ、軽く、とんとんと叩いている。
白いコートには、汚れ一つなかった。
長い金髪も、綺麗に整っていた。
あれだけの異形が暴れ回る部屋に、残ったはずだった。
僕は自分の姿を見下ろした。
泥。水。乾いた血。新しい傷。
…比較するだけ、損をした気分になった。
膝へ手をつき、立ち上がり八神へ近づこうとした、そのときだった。
目の前に、水が立った。
壁だ。
僕と八神の間を、厚い水が隔てていた。
「セ、シル?」
返事はなかった。
水の中で、幾つもの刃が形を成した。
剣のようで。槍のようで。斧のようで。
形を変え続けるそれらが、すべて八神へ向けられている。
水壁の上部が盛り上がると大きな獣の頭を思わせる形になり、牙を剥いた。
美しく荘厳な精霊騎士は、人の姿をやめていた。
放たれているのは、明らかな敵意。
ここまで強いものを、彼女は天使たちへさえ向けていなかった。
「ま、待ってください。セシル、その人は――」
まずい。
何がまずいのか。
そんな事説明するまでもなかった。
この人に…八神に、そんな態度を取ったら―
「構わんよ」
八神が言った。
僕は顔を上げた。
「……構わないのですか」
「ああ、慣れているからな」
文句が十。嫌味が二十。
少なくとも、それぐらいは覚悟していた。
けれど八神は、セシルの威嚇へ興味を示すこともなく、剣の先で別の場所を指した。
「ほら。あちらもだ」
振り向いた。
炎が、渦を巻き、濁流が壁を這う。
その勢いは部屋全体を覆い尽くしているかのようだ。
地獄のような光景の中心に天使さんとマリアがいる。
二人の視線は、八神。
先ほどまでの微笑みはなかった。
剣を握る指が白くなるほど力が入り、白百合を抱く腕が強張っている。
不敵に微笑む彼の顔を見て、部屋を満たす圧が、一段と重くなった。
「昔からね。精霊だの、神聖なものだの。悪魔の類にも、私は死ぬほど嫌われていてね」
世間話のように言った。
「……何をしたら、そうなるのですか」
「さてなぁ?皆目検討がつかんよ」
ヒラヒラと手を振る八神。
――絶対この人なんかしたんだろうな。
「麗様にまとわり付いた霊力の残滓でよもやとは思いましたが…」
「忌々しい…麗様。アレには極力近づきませぬよう…」
水の奥から、セシルの声がした。
硬い声だった。
――僕もできれば関わりたくないのだが…
八神が、何も言わず少しだけ笑った。
からかっているのか。
本気なのか。
どちらにしても、セシルの警戒は緩まなかった。
「さて」
八神が天使さんたちに向かって歩き出す。
懐へ手を入れ、何かを探している。
……取り出したのは……煙草の箱?
「…八神さん?」
一本を抜く。
「八神さん!今そんな――」
炎が膨れた。
天使さんが剣を振り上げる。
マリアの翼が大きく開いた。
炎と濁流が、同時に動いた。
視界が歪む。
熱のせいだけではない。
向こうの壁も、天井も、押し曲げられたように見えた。
その中へ、二人自身が飛び込んでくる。
白い剣が、火を引いた。
水が幾重にも重なり、八神の退路を塞いだ。
八神は、煙草を咥えていた。
別のポケットを探る。
ライターが見つからないらしい…
軽く眉を寄せた。
「八神さん!」
「ご心配には、及びませぬ」
セシルが言った。
僕は水壁を見た。
「何を言って――」
「誠に…至極不愉快で…忌々しいことですが――」
その声は、なお硬かった。
「聖書に名を連なる天使の長といえ、顕れたばかりの雛鳥」
呟くセシル。
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
「あれに敵うとは思えませぬ」
その意味を聞く余裕はなかった。
八神は、割れた床の上に、残っていた小さな火に、煙草の先を寄せると、先端にポゥっと赤い点が灯った。
立ち上がり、目を細める。
味わっているようだ――
目前には白剣。
そして炎が。濁流が。
そのすべてが、あの細い身体を呑み込もうとしていた。
煙草を指へ移し、
息を吐く、
紫煙辺りに広がった。
…音が消えた。
炎も、水も、途中から先がなくなっていた。
天使さんが、宙で止まっていた。
剣を振り下ろそうとした姿勢のまま、炎が格子状に織り成し、その身体へ触れることなく、動ける場所だけを塞いでいた。
マリアの周囲には、氷があった。
薄い透明な氷が彼女の身体を包み込んで、閉じ込めていた。
二人は微動だにできなかったようだ。
炎と水、どちらもその制御を奪われることはなかった。
八神の頭上に、剣が二振り浮かんでいた。
七色の輝きを纏う、細身の長剣。
その隣には、周囲の光を吸い込むような曲剣。
僕の手にあるわけでもないのに、指先が冷えた。
同時に、頬へ陽を浴びるような熱を感じた。
八神が、もう一度煙草を咥え、こちらへ向き直る。
「終わったぞ」
フゥっと紫煙を燻らせ、こともなげに言ったのだ。
――――僕は、何も言えなかった。
終わった。
その一言が、頭の中で繰り返された。
あれほど考えた。
セシルを傷つけた。自分の血を使った。二人を傷つけた。
悲鳴を聞いた。
―――それでも止めなかった。
「……何だったのでしょうね」
「何がだ」
「僕が、していたことです」
掌を開くと、真新しい傷があった。
それを見ていると、あの雨の中で身を捩った二人の姿が浮かんだ。
「結局、何もできていません」
八神が、呆れたように息を吐いた。
「拗ねるのは、あとにしたまえ」
「拗ねているわけでは」
「ならば働け。これからが仕事だ」
顔を上げる。
八神は、檻の中の二人を指した。
「止めただけだ。君の目的は、あのまま飾っておくことだったかな」
僕は口を閉じた。
八神が、手にした黒い剣を持ち上げた。
「いい機会だ…説明をしておこう」
なんの説明だ?
困惑する僕に、いつもと同じ不敵な笑みを浮かべる八神。
「陽光覇剣」
頭上の長剣が、ゆっくりと傾いた。
「太陽の化身。あらゆるものを焼き尽くす、太陽と共にある剣だ」
炎の檻が、僅かに輝いた。
「霧氷月影」
今度は、曲剣へ目を向ける。
「月の化身。光を吸い、その熱をもって、あらゆるものを止める。月の満ち欠けと共にある剣」
僕は氷に包まれるマリアを見た。
薄く脆そうな膜にしか見えないが、指一本動かせない様子だった。
「そして、七夜流星」
黒い刀身に、星が瞬いた。
「星々の化身。星の瞬きと共にあり、あらゆる願いを叶える剣だ」
「願いを……」
「七つまでだがね」
僕は、その剣を見つめ、八神が、こちらを見る。
「この剣は特に特殊でね。切ることも祓うこともできないが、なんでも出来る」
「最初の願いを告げたとき、その場にいた者の願いを聞き、叶えるのだよ」
ホテルの部屋を思い出した。
僕と八神。
黒い文字。
天使さんの髪。
「…あのときから、ですか」
「そうだ。いなくなった者を探す。地面の扉を切る。暗号の扉を開く」
八神が、指を折った。
「そして、研究所にいる異形を、すべて倒す」
四本目で、止まった。
「ただし、一人の願いは一つずつ。叶い終わるまで、その者の次の願いは届かん。居場所も縛られる」
僕は、八神の顔を見た。
「あの部屋から、出られなかったと…」
「そういうことだ」
「ですが、…今はここに」
「君が呼んだだろう」
あっさりと言った。
「君の願いは、私の次の願いではない」
僕は唇を結んだ。
あの短い伝言の意味が、ようやくすべて繋がった。
けれど、まだ一つ、分からなかった。
「あなたが来たのなら、異形はもう――」
八神が、剣の先を動かした。
炎の檻へ。
天使さんへ。
「流星は、彼女もそう判断している」
息が詰まった。
天使さんも、含まれている?研究所にいる、異形として?
白い翼。
真紅の髪。
手にした剣と天秤。
その姿が、急に遠く感じられた。
「じゃあ…八神さんの願いを終わらせるには…」
「分かったなら、言わんでよい」
八神の声は静かだった。
僕は口を閉じた。
ようやく見つけた手段だった。
何でも願いを叶える剣。
それなのに、八神は二人を戻す願いを告げられない。
先の願いを終えるために、天使さんを殺すなど、できるはずがなかった。
また、行き詰まった。
考えろ。
条件があるなら、その条件の内側で――
「助けたいかね」
八神が言った。
当たり前だ。
そう答えようとして、止まった。
八神が笑っていた。
よく知っている顔だった。
値段を告げる前。
面倒な仕事を押しつける前。
こちらが欲しがっているものを、正確に見抜 いたときの顔。
僕の傍で、水が揺れた。
セシルが人の姿へ戻っていた。
けれど、八神へ向けた剣は下ろしていなかった。
「……何を、考えているのですか」
「とても有意義な提案だが?」
八神は、流星の刀身へ指を添えた。
「探し物と二枚の扉。それから、今、君が私を呼んだ分。叶った願いは四つだ」
残りは、三つ。
「そのうち一つは、私が途中まで使っている。空いているのは、二つ」
僕は剣を見た。
翼と、マリア。
二つ。
「譲ってやろうか」
喉が動いた。
欲しい!
これほど欲しいと思ったものが、今までにあっただろうか。
けれど、相手は八神だ。
「………条件は?」
「おや。おやおやおや?話が早い。成長したな麗」
嬉しそうに、目を細める。
今、目の前にいるものは、本当に味方なのだろうか。
セシルがなぜ警戒を解かないのか、少し分かった気がした。
「……少し、考えさせてください」
炎が揺らぎ、氷に一筋の線。
天使さんの剣、マリアの指先が僅かに動いた。
「おっと」
八神が、わざとらしく顔を向けた。
格子が締まる。
氷の幕も、再び形を整えた。
「長くは待てんかもしれないな〜」
―――僕は、この男を殴りたいと思った。
心の底から。
「では、条件だが…」
「…分かりました」
八神の口が止まった。
「…まだ、何も言っていないが?」
「僕に渡せるものなら、何でも構いません」
セシルが、こちらを向いた。
「麗様!」
構わず続けた。
「仕事でも、時間でも。―――命が欲しいと言うなら、それでも!」
相手が冗談で済ませる相手ではないことはわかっている。
ほ
けれど、引っ込めなかった。
渡せるものを数えている間に、あの二人を失うほうが怖かった。
僕は、八神を睨んだ。
「……これで足りますか?」
「麗様お考え直しを…なりません!そのようなお約束を、この者に――」
「セシル」
名前を呼ぶと、彼女の声が詰まった。
八神は沈黙していた。
珍しい。
本当に、次に言う言葉をなくしているように見えた。
「さあ…どうなんですか!」
僕は催促した。
「欲しいものがあるなら、あとで何なりと。ですが今は、剣を」
八神の唇から息が漏れる。
次の瞬間、大きな笑い声になった。
「ははっ……ははは!」
肩まで揺らして笑っている。
何がそれほどおかしいのか、僕には分からなかった。
「っはぁ…君は…本当に…」
八神は最後まで言わなかった。
おもむろに黒い剣を、こちらへ放った。
慌てて受け止めると見た目より軽く、すっと手に馴染んだ。
「好きに使いたまえ」
上機嫌の八神に、僕は柄を握り直し、
「……ありがとうございます」
今度は、言えた。
踵を返して、二人の足元へ向かう。
セシルがついてきた。
――何か言いたそうだったが、無言で付いてきた。
剣へ目にし、二人の間に落とした。
「使い方は?」
「作法など、さほど重要ではない」
背後から八神の声がした。
「大事なのは、願いの強さと、それに見合う力だ」
「力とは?」
「キミには十分にある。安心したまえ」
その言い方が、少し気になった。
けれど、今は聞かなかった。
剣を立てる。
切先が、床へ触れた。
柄へ両手を添えた。
闇夜の刃に、星が煌めいた。
天使さんの顔を思い出した。
眉を吊り上げて、僕を叱る顔。
分からないところを見つけて、首を傾ける顔。
料理を頬張って、目を輝かせる顔。
舞台の上から、僕へ向けられた笑顔。
マリアの顔を思い出した。
怯えて伏せられた目。
恐る恐る、こちらを窺う仕草。
名前を呼ぶまで、許してくれなかった声。
れい。
その短い音が、胸の中へ落ちた。
手を振っていた。
駆け寄ってきた。
笑っていた。
今朝まで。
ほんの、少し前まで。
翼を。
マリアを。
僕は、柄を握る指へ力を込めた。
あの二人を、元の姿へ戻してほしい。
闇夜の刀身に星が流れた。
一筋。
続いて、もう一筋。
黒い刀身から飛び出した光が、宙を駆ける。
二つの光が、それぞれの胸元へ触れると、一層強く輝いた。
反射的に目を細めたが、その様子を見守る。
白い翼が、光の中へ溶けていく。
剣も。
天秤も。
百合の花も。
赤く燃えていた髪から、炎が消えた。
水色に染まっていた毛先が、黒へ戻っていく。
檻がほどけた。
二人の身体が、静かに床へ降りた。
僕は、剣から手を離せなかった。
光が消えたあとも、しばらく、その場に立っていた。
二人がいた。
翼と、マリア。
翼も武器もなく、衣服も失った姿で、まだ目を閉じていた。
その肩に、傷はなかった。
腕にも。
頬にも。
雨の中で崩れたはずの場所に、何も残っていなかった。
息を吸おうとした。
うまく吸えなかった。
よかった。
その言葉だけが、頭の中にあった。
よかった。
自然と足が前に動く。
目を逸らすべきだとか。
何か掛けるものを探すべきだとか。
普段なら先に考えるはずのことが、そのときだけは追いつかなかった。
二人が、そこにいた。
手を伸ばせば、届く。
触れて確かめたかった。
もう、ガラス越しではない。
炎も水も、間にはない。
あと少しで手が届きそうになった所で、天使さんが、目を開けた。
僕を見る。自分を見下ろす。
甲高い声が聞こえたと思うと、視界が回った。
天井が見えた。
次に、腕が痛んだ。
「ちょっ……天使さん!」
「見ないで!」
肘が、これ以上曲がってはいけないほうへ動きかけた。
反射的に身体を返すと顔が床へ向いた。
痛みは少し引いたが、代わりに、動けなくなった。
何が起きたのかを理解したのは、そのあとだった。
投げられ、そのまま、押さえ込まれている。
いつものことではないはずなのに、妙に覚えがあった。
「何をするんですか……!」
「こっちの台詞!」
真っ赤な顔が、視界の端にあった。
隣でマリアが、不思議そうに僕たちを見ていた。
「れい?」
その声に顔を向けようとした。
天使さんの足が、僕の顔を床へ押し戻した。
「だから、見ないでってば!」
「見ていません! 今は床しか――」
肩越しに、布が広がった。
八神が放ったものらしかった。
セシルが受け取り、二人へ素早く掛けている。
僕は床へ頬を押しつけられたまま、息を吐いた。
笑おうとした。
変な声が出た。
「……よかった」
腕を押さえる力が、僅かに緩んだ。
「間久部くん?」
「よかった……」
床が滲んだ。
目に水が入ったのかと思った。
違った。
何度瞬きをしても、次から次へ溢れてきた。
「何で……」
天使さんの声が、小さくなった。
僕は答えようとした。
水槽の中にいたこと。
息をしていなかったこと。
また、いなくなりそうになったこと。
言いたいことは、幾つもあった。
謝らなければならないことも。
けれど、どれも言葉にならなかった。
「……よかった」
また、同じことを言った。
腕を押さえていた手が、離れた。
それでも、僕は起き上がれなかった。
彼女は、もう怒鳴らなかった。
傍で衣擦れの音がして、それから、ためらうように手が僕の肩へ触れた。
温かかった。
その温かさで、また涙が出た。




