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間久部くんの受難   作者: Undo
天使と精霊と天才と
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第40話 天才と最強

戦況は、拮抗していた。


 セシルの剣が炎を割り、盾が濁流を押し返す。

 天使さんが間合いを詰めれば、マリアがその背後を水で覆う。


 どちらかが退くたび、もう片方が前へ出た。


 先ほどまでとは違う。


 セシルの身体は崩れなかった。

 マリアの水に引かれることもなく、天使さんの炎へ触れた剣も、その形を保っている。


 けれど、二人を止めるには至らなかった。


「まだ、目覚めきってはおりませぬ」


 剣を受け流したセシルが、僕の前へ降りた。


「何がですか」


「御二方の内にあるものが。本来の権能を、十全には扱えておりません」


 大楯が持ち上がる。

 飛来した炎が、その表面を滑って天井へ抜けた。


 瓦礫が降ってくる。

 水が受け止め、僕たちのいない場所へ落とした。


「今で、それですか」


「はい」


 簡潔な返事だった。


 安心できる材料にはならなかった。


 今より強くなる可能性がある。

 しかも、時間をかければ元に戻るという保証もない。


 ならば。


「力を、使い切らせることはできませんか」


 セシルが、こちらを見た。


「宿っている力を消費させれば、その姿を保てなくなるのではありませんか」


 僕はグレッダ女史へ顔を向けた。


 李所長を壁際へ移した彼女は、二人から目を離せずにいた。


「可能性は、あるわ」


「可能性、ですか」


「こんな状態は、想定していなかったの。ただ……依代が力を保持できなくなれば、顕現が解けることは考えられる」


「その場合、二人は」


 女史が口を閉じた。


 聞かなくても、続きは分かった。


 無事とは限らない。


 力だけを削れるのか。

 身体まで壊してしまわないか。

 元に戻ったあとに、傷や障害が残らないか。


 もっと悪い結果にならないか。


 僕は二人を見上げた。


 白い翼。

 よく知っている顔。


 助けるために、傷つける。


 口にすれば短い。

 けれど、その先に起こることを引き受けられるほど、僕は何も分かっていなかった。


 それでも、待つことを選べば安全なわけではない。


「……セシル」


「はい」


「二人の動きを止めてください。」


 彼女の目を見た。


「…お願いします」


 頷いた騎士が、水とともに駆け出した。


 水の刃が、マリアの肩を掠めた。


 白い衣に細い裂け目が走る。


 僕は、思わず息を止めた。


 その傷が、消えた。


 水が触れたと思った次の瞬間には、肌も衣も元に戻っていた。


 天使さんの腕でも、同じことが起きた。


 剣を受けた際にできた傷へ、マリアの周囲から伸びた水が絡む。

 解けたあとには、痕すら残らない。


 再生。


 いや、治している。


 マリアの水が。


「その水を、止められませんか!」


 セシルが盾を振った。


 天使さんへ伸びていた流れが途切れ、彼女のほうへ吸い寄せられる。


 だが、すぐに別の水が生まれた。


 何もない空間から滴が集まり、同じ場所を覆った。


 際限がない。


 傷を作っても、治る。

 そのための水を奪っても、また生まれる。


 回復にも力を使っているはずだ。


 そう考えた。


 けれど、その消耗がこちらの消耗を上回っているのか、僕には判断できなかった。


『麗様』


 頭の内側で、声がした。


 僕は顔を上げた。


 セシルは遠くにいた。

 天使さんの剣を盾へ滑らせながら、マリアへ水の帯を放っている。


 口は動いていなかった。


『お知恵を、お貸しください』


 念話。


 その言葉が、ようやく浮かんだ。


『私にできることを、お伝えいたします』


 水を生むこと。

 形を与えること。

 性質を変えること。


 言葉とともに、感覚が流れ込んできた。


 剣も盾も、彼女にとっては水の在り方の一つにすぎない。

 硬さも、流れも、触れたものへの働きかけも。


 僕は、掌を見た。


 この血で、彼女は変わった。


 ならば、彼女の水にも、今までとは違うことができるのではないか。


 脳裏に、一つの考えが浮かんだ。


 嫌な考えだった。


 助けたい相手へ使うものとして、真っ先に捨てたくなるような。


 僕は、それを捨てなかった。


 天使たちの頭上へ、水が集まった。


 丸い塊が、薄く広がっていく。


 天井の明かりを遮り、二人の翼へ影を落とした。


 セシルが一度だけ、僕を見た。


 その目に、問いがあった。


 僕は頷いた。


『準備が、整いました』


 腕を上げる。


 二人の顔を見た。


 まだ、こちらを見ていなかった。


 僕は腕を下ろした。


 雨が降った。


 細かな滴が、白い羽へ触れた。


 煙が上がった。


 炎ではなかった。


 羽の輪郭が崩れ、纏っている光が薄く剥がれた。

 髪へ、衣へ、肌へと落ちた滴が、触れた場所の形を損なっていく。


 二人が身を捩った。


 声がした。


 言葉にならない、短い悲鳴だった。


 胃の奥が縮んだ。


 僕がセシルへ伝えたのは、物を溶かすという性質だった。


 王水。


 知識の中にあった名を足掛かりに、彼女の水へ、顕現を支える霊力そのものを侵す働きを求めた。


 実在する薬液をそのまま作るのではない。


 精霊の水で。

 精霊の力をもって。

 天使を形作っているものを削る。


 そんな都合のよい区別が、二人の身体を守ってくれる保証はなかった。


 それでも、雨は降っていた。


 マリアの水が、傷ついた場所へ集まる。


 治り始めた先へ、次の滴が落ちる。


 僕は唇を噛み、もう一つの性質を念じた。


 今度は、変質。


 力を纏う表面を脆くし、形を保ちにくくする。


 セシルの顔が引きつった。


 僕は、笑おうとした。


 伝わったのが笑顔だったかどうかは、分からなかった。


 新たな水が、雨へ混じった。


 天使さんの剣が、僅かに曇った。

 マリアの周囲にあった輝きが、斑にくすむ。


 傷ついた場所が多すぎた。


 癒しの水が、追いつかない。


 白い翼が大きく震えた。


「……もう、止めてください」


 自分の声が、遠く聞こえた。


「拘束を」


 雨が止んだ。


 落ちかけていた滴が一斉に向きを変え、長い縄となる。


 二人の腕へ。

 脚へ。

 翼の付け根へ。


 水が絡みつき、その身体を地上へ引き下ろした。


 僕は駆け寄った。


 足が滑り、膝をつきかける。


 構わず、天使さんの傍へ屈んだ。


「天使さん。聞こえますか」


 眉が寄っていた。


 唇の間から、苦しそうな息が漏れている。


 その顔を見て、頭の中から考えていた言葉が消えた。


 僕が、こうした。


 あの二人を助けると決めて。

 彼女たちの悲鳴を聞きながら。


「……天使さん」


 頬へ手を伸ばした。


 顔にかかった髪を、避けようとした。


 掌の傷が、肌へ触れた。


 赤いものが、彼女の頬についた。


 たった、それだけだった。


 炎が、膨れ、拘束が白く煙った。


 僕は手を引いた。


 間に合わなかった。


 天使さんの身体から火が噴き上がり、水の縄が弾け飛んだ。


 熱風に押され、尻餅をつく。


 白い剣が持ち上がり、光が走ると壁が裂けた。


 次の一振りで、水路が砕けた。


 剣の届いていない場所まで、何もかもが斬られていく。


 セシルの水が僕を引き戻した。

 直前までいた床に、深い溝が刻まれた。


 天使さんが笑っていた。


 嬉しそうに。


 腕を振るたび、部屋が壊れる。

 そのことが楽しくて仕方がないように。


 僕は、自分の手を見た。


 まただ。


 この血だった。


 セシルを変えたものを、僕は彼女へ渡してしまった。


 頭の上から、すっと血が引いていくような感覚があった。


 音が遠くなった。


 目の前で、彼女が笑っていた。


 誰だ。


 あれは。


「……お前は、誰だ」


 笑顔が、こちらへ向いた。


 天使さんの顔だった。


 あの店先で、僕を見つけたときと同じように、目が細くなった。


 それが、ひどく癇に障った。


「違う」


 僕は立ち上がった。


「お前は、あの人じゃない」


 天使の首が、僅かに傾いた。


 仕草まで、似ていた。


 腹が立った。


「あの人は、クソ真面目なんです」


 声が出た。


 止まらなかった。


「融通が利かなくて、空気も読まなくて。人の都合を聞く前に、腕を掴んで引っ張っていく」


 天使が、僕を見ていた。


「食いしん坊で、甘いものが好きで、意外とミーハーで。勉強していても、すぐ別のものに気を取られるくせに」


 場違いな記憶ばかりが浮かんだ。


 料理の写真を覗き込む顔。

 課題の途中で、違う話を始める声。

 僕の説明へ真剣に頷いたあと、もう一度初めから聞いてくる姿。


「礼儀正しくて、人に厳しくて」


 僕は、剣を持つ彼女の手を見た。


「それ以上に、自分に厳しい人なんです」


 強い人だった。


 だから、立ったまま誰かへ手を伸ばすだけで済ませることもできたはずだった。


 けれど、そうしなかった。


 泣いている子供の前で膝を折る。

 相手の顔が見えるところまで、腰を屈める。


 急いでいても。

 面倒でも。

 自分が損をしても。


 助けることを、やめなかった。


「力を振り回して、誰かを傷つけて」


 喉が震えた。


「それを喜ぶ人じゃない!」


 夕方の帰り道を思い出した。


 また誰かの手伝いをしていた。


 僕は呆れて、言ったのだと思う。


 何もかも、あなたが助ける必要はないでしょう、と。


 彼女は、不思議そうな顔をした。


『助けすぎ?』


 夕日を背に、首を傾けた。


『力を持ってるのは、私だよ』


 何を当たり前のことを聞くのだろうという顔だった。


『その力で助けられる人がいたら、助けるでしょ』


 誇らしげでもなかった。


 自分が立派なことを言ったという意識すら、なさそうだった。


 僕は、その答えに何と言ったのだろう。


 覚えていない。


 けれど、彼女の顔は覚えていた。


 だから、言い切れた。


「お前は違う」


     *


 天使の唇が動いた。


「……まくべ、くん」


 胸の奥が、痛んだ。


「わたし……つばさ」


 同じ声だった。


 同じ呼び方だった。


 だからこそ、耐えられなかった。


「その顔で、言うな」


 僕は一歩、前へ出た。


「あの人の声で、勝手に名乗るな」


 天使の表情が変わった。


 口元には、笑みが残っていた。


 けれど、眉が寄った。

 目が細まり、次には大きく開いた。


 泣こうとしているようにも見えた。


 怒っているようにも。

 何を言われたのか分からず、困っているようにも。


 幾つもの表情が、同じ顔の上で争っていた。


 剣が、こちらへ向いた。


「麗様!」


 セシルが叫んだ。


 振り向かなかった。


 背後で水が激しくぶつかる音がした。


 マリアの拘束が緩みかけている。

 そちらを放せば、また二人を相手にすることになる。


 セシルが動けないことは、分かった。


 それでも、目を逸らせなかった。


「ほら、違う」


 僕は呟いた。


「あの人なら、殴ってきます」


 拳で。


 怒って。

 呆れて。

 それでも、僕を人として扱ったうえで。


 そんな剣を、向けたりしない。


 だが、腹が立つことが、もう一つあった。


 僕は、彼女の目を見た。


 炎の向こうを見ようとした。


「……何をしているんですか」


 そこに、いるのだろう。


 勝手に身体を使われて。

 勝手に笑わされて。


 それでよいはずがない。


「あなたが、こんなことに負けていて、どうするんですか」


 理不尽なことを言っている。


 苦しんでいる相手へ、勝手な期待を押しつけている。


 分かっていた。


 けれど、僕の知っている彼女なら。


 どれほど面倒でも、どれほど無茶でも、正しいと思ったことから退かなかった彼女なら。


「さっさと――」


 剣が動いた。


「戻ってこい、翼さん!」


 衝撃が、下から来た。


 何かが身体の内側を突き抜けたようだった。


 息が出た。


 声にはならなかった。


 床が、遠ざかった。


 天使さんの顔が下にあった。


 さらに、遠くなった。


 高い。


 そう思った。


 ひどく、他人事のように。


 壁の亀裂が、ゆっくりと視界を横切っていく。


 砕けた天井。

 露出した配管。

 明滅する照明。


 すべてが、遅かった。


 僕は、死ぬのだろうか。


 そう考えたところで、記憶が流れ始めた。


 走馬灯。


 そんな言葉が浮かんだ。


 死ぬ前に、人生を振り返るもの。


 別の説明を、どこかで読んだ気もした。


 危機から逃れる方法を探して、頭が過去の経験を片端から引き出しているのだ、と。


 本当かどうかは知らない。


 ただ、今の僕には、そうあってほしかった。


 懐かしんでいる場合ではない。


 何かあるはずだ。


 何か。


 霊が見えた。


 子供の頃から、避け続けてきたもの。

 目を合わせなければ、知らないふりをすれば、それで済むと思っていたもの。


 済まなかった夜。


 八神が現れた。


 金色の髪。

 薄い笑み。

 眩しくて、見ていられなかった剣。


 学校。


 僕の事情などお構いなしに、前へ立ち塞がる天使さん。


 腕を引かれた。

 文句を言った。

 それでも、隣にいる時間が増えた。


 外国のホテル。

 不愉快なほど高価な食事。

 八神の笑い声。


 研究所。


 薄暗い資料室で、マリアが顔を上げた。


 名前を呼んだ。

 笑ってくれた。


 初めて持て余した感情。


 天使さんの、今朝の顔。


 謝ろうと思った。


 まだ、謝っていない。


 ガラスの中。


 冷たい身体。


 動いた指。


 異形の群れ。


 八神が剣を振った。


 氷が、出口を塞いだ。


 その向こうで、あの人が笑っていた。


 行ってこい。


 唇が、そう動いた。


 そのあと。


 僕の思考が、そこで止まった。


 まだ、何か言っていた。


 聞こえなかった。

 読み取れなかった。


 だから、分からないままにしていた。


 だが、見ていた。


 僕は、確かに見ていた。


 あの唇の動きを、もう一度辿った。


 最初の音。


 次の形。


 短い言葉だった。


 なぜ、それを。


 なぜ、あのときに。


 そこまで考えて、別の光景が重なった。


 ホテルの部屋。


 床に描かれた黒い文字。

 雲のない空。

 刀身の中を滑る星。


 失せ物探しに、恋占い。


 星を読むのも、我々の得意分野だ。


 腹が立った。


 こんなときにまで、あの人なのか。


 僕がここまで考えて。

 迷って。

 失敗して。


 最後に見つけたものが、あの人の残した言葉なのか。


 そして、それを頼れると思ってしまう自分にも。


 ひどく、腹が立った。


 時間が戻った。


 身体が、一瞬だけ宙へ留まった。


 上昇が終わったのだと分かった。


 次は、落ちる。


 両手を合わせた。


 掌が痛むが、構わない。


 祈り方など、知らない。


 何と唱えればよいのか。

 どんな形で手を組めばよいのか。


 何一つ説明はない。


 いつも、そうだ。


 必要なことほど言わない。

 聞けばはぐらかす。

 分からなければ、こちらの頭が足りないような顔をする。


 勝手に仕事を増やす。

 勝手に外国へ連れ出す。

 勝手に、できるだろうと決めつける。


 そのくせ、給料は少ない。


 今回の働きに見合う額を請求したら、きっと経費がどうとか言い出すのだろう。


 腹が立つ。


 こんなときにまで、あの顔ばかり浮かぶことが、何より腹立たしかった。


 風が、耳元で鳴った。


 身体が落ちていく。


「麗様!」


 セシルの声がした。


 もう一つ、声が聞こえた。


 悲鳴に似ていた。

 泣いているようにも聞こえた。


 目を開けたかった。


 床まで、あとどれほどか。


 今からでも、何かできないか。


 確かめようとする自分を、押し留めた。


 ここまで来て、まだ自分の手札を数えるのか。


 そんなものはない。とっくに使い果たしている。


 だから、願うんだ、星に。


 この状況を覆せるものを。


 天使が二人いようと。

 何も分かっていなかろうと。

 僕がどれほど失敗していようと。


 全部まとめて、どうにかしてしまう。


 理不尽で。

 傲慢で。

 こちらの常識など、鼻で笑って踏み越えていく。


 そんな、規格外の化け物を。


 ――ここへ、呼んで見せろ!


 思い浮かんだ顔は、一つしかなかった。


 閉じた瞼の向こうで、光が走った。


 轟音と共に、落ちる身体が、横から攫われる。


 背中へ腕が回わり、膝の裏が支えられる。


 息が詰まった。


 粉塵の匂いがした。


 その中に、知っている煙草の匂いが混じっていた。


 目を開けると、無数の線に切り分けられた壁が、崩れていた。


 土煙の中を、金色の髪が翻る。


 見慣れた顔が、すぐ上にあった。


 来た。


 胸の奥が緩みかけて、僕は唇を結んだ。


 八神は僕を見下ろした。


 その目が、合わせたままだった僕の手へ落ちる。

 それから、顔へ戻った。


 口元が、ゆっくりと上がった。


「……随分と、言いたいことのありそうな顔だな」


 聞こえたはずはない。


 声には、出していない。


 それなのに、その笑い方は何だ。


「気づくのが遅かったな。物語に浸りすぎだぞ」


 八神が、楽しそうに目を細めた。


「場に酔ったのか、天才?」


 僕は息を吸うと、胸が痛んだ。


 それでも、口元が上げる。


「分かりにくすぎますよ」


 落とされないよう、その腕を掴む。


「遅いので、やられたのかと思いましたよ…最強?」


 八神が笑った。


 僕も、その顔を睨みながら笑っていた。


 礼を言う前に、説明してもらうことが山ほどある。


 給料の話も、含めて。


 八神の手に、黒い剣があった。


 刀身の奥に広がる夜空を、一筋の光が滑っていく。


 僕は、その輝きを見つめた。


「……星に願いを」


ひどく有名で。

 子供でも知っている。

  願いが叶う、おまじない。


 僕は、雇用主の顔へ目を戻した。


 あれほど無茶な条件をつけたのに。


 星は、随分と正確に選んだものだった。


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