↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
間久部くんの受難   作者: Undo
天使と精霊と天才と
PR
39/47

第39話 麗の覚悟

断罪は、終わった。


 けれど、二人は帰ってこなかった。


 天使さんの瞳には、炎が揺れている。

 マリアの瞳の奥では、水が流れていた。


 どちらも、僕を見ていた。


 微笑んでいる。


 そのことが、怖かった。


 怒りを向けられているのなら、まだ分かる。

 敵として見られているのなら、逃げることを考えればよい。


 けれど、あの笑みに、僕は何を返せばよいのだろう。


「……天使さん」


 呼んでみた。


 彼女の視線は、僕から離れなかった。


「マリア」


 白百合を抱く手が、僅かに動いた。


 返事はなかった。


 僕の声が聞こえていないのか。

 聞こえていて、答えないのか。


 目の前にいるのは、本当に二人なのか。


 考えかけて、やめた。


 戻す。


 戻さなければならない。


 問題は、その方法が何一つ分かっていないことだった。


「麗様、お下がりください」


 セシルが、前へ出た。


 小さな足が、濡れた床を蹴る。


 水が細く立ち上がり、彼女を宙へ押し上げた。


 剣が伸びた。


 元の身体で持っていたものより細い。

 それでも、人の腕ほどの長さにまで引き延ばされた水の刃が、天使さんの剣へ打ち込まれる。


 炎が弾けた。


 刃の半ばが、白く煙った。


 セシルはその勢いで身体を返した。

 左の盾が開き、水の輪となってマリアへ迫る。


 彼女と僕たちの間を、隔てようとするように。


 けれど、その輪は途中で捻れた。


 マリアが、こちらを見た。


 それだけだった。


 水の輪が裏返り、セシルへ叩きつけられた。


「セシル!」


 小さな姿が、床を跳ねた。


 砕けた水が散る。

 その滴が集まりきる前に、彼女は膝をついて立ち上がっていた。


 剣を構える。


 盾も。


 まだ、僕の前にいた。


     *


「どうすればよいのですか」


 僕は尋ねた。


 声が震えそうになり、喉へ力を入れる。


「あなたが、あの二人を止めるためには」


 セシルは、振り向かなかった。


「力の釣り合いが、取れておりません」


 小さな剣の先から、水が一滴落ちた。


「量ばかりではなく、質も。私を形作る水が、あちらの力に従いかけております」


 マリアの周囲を、水が巡っている。


 さっきまでセシルの身体だったものも、そこに混じっているのかもしれなかった。


「加えて、二柱。片方へ力を向ければ、もう片方を抑えきれませぬ」


「……足りないものは、何ですか」


 セシルの肩が、僅かに動いた。


「この身に力を繋ぎ留め、御二方の干渉に抗うための媒体があれば。ですが、今、この場では――」


 その先を、僕は聞いていなかった。


 媒体。


 力を繋ぐもの。


 マイケル氏の声が、頭の中に蘇った。


 僅かな血。


 素体の効果を高める。

 親和性を、引き上げる。


 腕を見る。


 ガーゼの端が、濡れて肌に貼りついていた。


 たった、これだけだった。


 僕が大したことはないと思っていた傷から、この事態へ繋がってしまった。


「セシル」


「はい」


「僕の血を、使ってください」


 彼女が振り向いた。


 初めて見る顔だった。


 剣を向けられても。

 身体を削られても。

 二人の天使を前にしても、見せなかった顔。


「……麗様」


「マイケル氏の話を、あなたも聞いていたでしょう。僕の血が、あの力を引き出す助けになったのなら」


「それは」


「あなたにも、使えるのではありませんか」


 彼女は答えなかった。


 否定もしなかった。


 僕は膝をつき、彼女の剣へ手を伸ばした。


 届く前に、水が絡みついた。


 手首を包む。

 肘を引き戻す。


 痛くはなかった。


 けれど、動かせなかった。


「お待ちください」


 セシルの声が、強張っていた。


「ほかの手を。どうか、今しばらくお時間を」


 彼女の向こうで、白い翼が揺れた。


 二人が近づいている。


 ゆっくりと。


 急ぐ必要など、どこにもないように。


 僕は腕へ力を込めた。


 水の拘束が、震えた。


「今のままで」


 セシルを見る。


「僕がお願いしたことを、果たせますか」


 彼女の唇が、僅かに開いた。


 言葉は出なかった。


 僕は、続けた。


「では、僕の血を取り込んだあなたにも、できませんか」


 ずるい聞き方だった。


 分かっていた。


 この人は、僕の願いを誉れだと言った。


 その言葉を使って、僕は彼女へ選ばせようとしている。


 主を守るために、主が傷つくことを認めろと。


 それでも、手を引くことはできなかった。


 僕たちのために小さくなった身体が、目の前にある。


 あの二人を連れて帰りたいと願った僕が、自分だけ無傷の場所から命令を重ねることは、もうできなかった。


 セシルが、目を伏せた。


 短い沈黙があった。


「……ひどい、主様です」


「そうですね」


 否定できなかった。


 水に縛られたまま、僕は頷いた。


 セシルの口元が、僅かに緩んだ。


 次に顔を上げたとき、その目には迷いがなかった。


「応」


 声が、胸へ響いた。


「あなた様のお力を宿して、払えぬ困難など、あろうものか」



 腕を包んでいた水が、ほどけた。


 セシルが剣を差し出した。


 透明な刃だった。


 薄く、静かで、その向こうにある彼女の指まで見えた。


 僕は手を伸ばした。


 一瞬、痛みが走った。


 開いた掌に、赤い線があった。


 そこから滲んだものが、少しずつ膨らんでいく。


 自分の血だった。


 何度も見たことがある。


 転んだときも。

 怪我をしたときも。


 それを、特別なものだと思ったことはなかった。


「お願いします」


 掌を差し出す。


 セシルが、跪いた。


 両手を揃え、零れた赤を受け止める。


 小さな手だった。


 その中へ落ちた血が、水に溶けていった。


 薄まって消えたのではなかった。


 細い赤い筋が、彼女の腕の内側を巡った。


 肩へ。

 胸へ。


 セシルは、その流れを包み込むように両手を寄せた。


 一滴も失わないように。


 目を閉じた。


 淡い青色の光が、その身体に灯った。


 足元の水が、震えた。



 水路から、水が立ち上がった。


 一本。


 さらに、一本。


 壊れた噴水の周囲でも、床の窪みでも、溜まっていた水が宙へ伸びていく。


 細い柱が、互いへ寄った。


 束となり、うねり、セシルの身体へ流れ込んだ。


 彼女が立ち上がる。


 僕の顔ほどしかなかった背丈が、膝を越えた。


 胸元へ届く。


 次の瞬間には、初めて会ったときの姿が、そこにあった。


 けれど、同じではなかった。


 水色の髪が、大きく広がった。


 髪の先と、周囲を流れる水の境目が分からない。


 甲冑の表面を、青い光が走る。

 剣の輪郭が定まり、大楯が床へ低い音を響かせた。


 背後には、激流があった。


 壁のように高く。

 獣の背のようにうねりながら。


 それが、彼女の呼吸に合わせて動いていた。


 天使さんの微笑みが消えた。


 マリアが、白百合を持つ手を動かした。


 足元の水が、跳ねた。


 鋭い流れが幾つも重なり、セシルへ押し寄せる。


 同時に、天使さんが剣を振った。


 白い刀身を、炎が覆った。


 今度は、見えた。


 彼女が、自分から踏み込んだ。


「セシル!」


 彼女は動かなかった。


 押し寄せた水が、その胸元へぶつかった。


 衝撃はなかった。


 水が、消えた。


 違う。


 彼女の中へ、入った。


 甲冑の表面を流れ、肩を巡り、背後の激流へ繋がっていく。


 セシルが、左手を上げた。


 大楯の表面が波打つ。


 受け入れた水が、勢いを増して打ち返された。


 マリアの翼が、大きく開いた。


 その姿が、水の向こうへ押し流される。


 炎の剣が、セシルの肩へ迫った。


 彼女は右手の大剣を水へ戻した。


 空いた手を、伸ばす。


 白い刃を、掴んだ。


 蒸気が噴き出した。


 けれど、その指は崩れなかった。


 セシルが手首を返す。


 天使さんの剣が捻れた。


 柄を握る腕が引かれ、二対の翼が傾く。


 その身体ごと、セシルは振り回した。


 白い翼が、弧を描いた。


 天使さんがマリアへぶつかった。


 二人の姿が重なり、そのまま壁へ叩きつけられる。


 白い壁面に、亀裂が走った。



 僕は息を呑んだ。


 先ほどまでとは、何もかもが違った。


 セシルの姿が、崩れた。


 倒れたのではない。


 足元から身体がほどけ、背後の激流へ溶け込んだ。


 水が、走った。


 床を覆い、壁を這い、二人の天使へ殺到する。


 その先に、腕が見えた。


 水の中から現れた甲冑の腕が、剣を振る。


 天使さんが受ける。


 白い火花が散った。


 次の瞬間には、別の場所に盾があった。


 マリアの起こした水流を押し潰し、その身体を壁から引き離す。


 さらに上から、水が落ちた。


 避けた先で、剣が待っていた。


 どこにセシルがいるのか、分からなかった。


 右にいる。


 そう思えば、左から盾が打ち込まれる。


 正面に姿が見えたときには、背後の水が足を攫っていた。


 すべてが、彼女だった。


 部屋を駆ける激流そのものが、剣を振り、盾を打ちつけていた。


 容赦がなかった。


 二人が体勢を立て直す前に、次の衝撃が重なる。


 天使さんの炎が、水の中で膨れた。


 真紅の髪が、大きく揺れる。


 剣が、振り抜かれた。


 激流が割れた。


 白い蒸気が噴き上がる。


 その隙間で、マリアが顔を上げた。


 百合が光る。


 割れた水が、四方へ弾け飛んだ。


 壁へ。

 天井へ。

 床へ。


 セシルの姿が、どこにもなくなった。


「――セシル!」


「はい、麗様」


 声は、すぐ傍から聞こえた。


 振り向く。


 彼女がいた。


 剣と盾を手に、僕の前へ立っていた。


 傷はなかった。


 身体の輪郭も、甲冑も、髪の先まで整っている。


 頬を伝っていた一滴が、肌へ吸い込まれるように消えた。


「お待たせいたしました」


 何事もなかったように、彼女は言った。


 僕は、自分の掌を見た。


 赤い線が残っていた。


 それだけだった。


 こんなものが。


 僕の中を流れているものが、あれほどの違いを生んだ。


 何なのだろう。


 この血は。


 そして、それを当たり前のように身体へ巡らせている、彼女は。


 考えかけて、顔を上げた。


 二人の天使が、宙へ戻っていた。


 翼が広がる。


 天使さんの周囲に、炎が集まった。

 マリアの足元から、水が幾重にも立ち上がる。


 傷ついたようには見えなかった。


 けれど、もう、こちらを眺めているだけではない。


 二人とも、セシルを見ていた。


 彼女もまた、剣を構え直した。


 これで、五分。


 少なくとも、一方的に削られ続ける状況からは抜け出せた。


 だからといって、解決したわけではなかった。


「セシル」


「心得ております」


 僕が言い終える前に、彼女は答えた。


「御二方を、麗様のもとへ」


 僕は頷いた。


 倒したいわけではない。


 あの姿を打ち砕けば、それでよいわけでもない。


 天使さんに、まだ謝っていない。


 マリアには、何が好きなのかさえ、ちゃんと聞けていなかった。


 二人とも、連れて帰る。


 そのために、ようやく戦えるところまでは来た。


 では、この先は。


 あの力をどう取り除けばよい。

 何を傷つけず、何だけを止めれば、二人は戻る。


 目の前で、炎と水が膨れ上がった。


 考えることは、少しも減っていなかった。


 僕は掌を握りかけ、痛みに指を止めた。


 今度は、頭まで痛くなってきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。