第38話 罪の終わり
動いたところを、見ていなかった。
天使さんは、ずっと宙にいた。
二対の翼を広げ、剣と天秤を手に、僕たちを見下ろしていた。
セシルが炎を掻い潜り、濁流を押し返していたときでさえ、その姿勢は殆ど変わらなかった。
その彼女が、今はマイケルの目の前にいる。
白く輝く剣が、左胸を貫いていた。
背中から覗いた切先が、わずかに上を向いている。
巨体を支えるには細すぎるように見える腕で、彼女はその剣を握っていた。
マリアも、傍にいた。
一対の翼を静かに広げ、白百合を胸へ抱いている。
幼い笑みも、泣き顔もなかった。
ただ、マイケルを見ていた。
「……何だ」
男の口が動いた。
視線が、ゆっくりと下がる。
自分の胸へ。
「これは」
フラスコを持つ手は、まだ高く掲げられていた。
術を続けようとしたのか。
それとも、腕を下ろすことさえ忘れていたのか。
僕にも、分からなかった。
何を見ているのか、分からない。
剣が刺さっている。
そこまでは分かった。
だが、その先へ考えが進まなかった。
白百合が、淡く光った。
マリアは、それを持ち上げさえしなかった。
マイケルの手の中で、フラスコに線が走った。
縦に。
次いで、横に。
表面を埋めていた文字ごと、細かな亀裂が広がっていく。
「待て」
マイケルが、顔を上げた。
「待て、それは――」
フラスコが崩れた。
破片は、床へ落ちなかった。
指の間でさらに砕け、細かな粒となり、その粒もまた形を失っていく。
最後には、何も残らなかった。
空になった手だけが、宙にあった。
マイケルが指を動かす。
握る。
開く。
掌を返し、もう一度握った。
「なぜだ」
その手が、自分の胸へ下がる。
剣がある。
顔を上げる。
空の掌を見る。
また、胸を見る。
「何をした」
声が、大きくなった。
「何をしたんだ! お前たち、私に何を――!」
返事はなかった。
天使さんの表情は変わらない。
マリアも、黙っていた。
話しかけている相手がそこにいるのに、言葉が届いている気がしなかった。
僕は、足を動かせなかった。
マイケルへ近づくべきなのか。
天使さんを止めるべきなのか。
そもそも、今、止められるようなことが起きているのか。
答えの出ないまま、剣が動いた。
ゆっくりと、引き抜かれていく。
音はなかった。
白衣が擦れる音も。
身体のどこかが傷つくような音も。
血は、流れなかった。
白い刀身が、少しずつ姿を現す。
そこに、赤いものがついていた。
最初は、何か分からなかった。
剣に刺さっているようには見えない。
刃へ吸い寄せられ、胸の内側から連れ出されてくるようだった。
赤い塊が、震えた。
縮む。
膨らむ。
もう一度、縮む。
喉の奥が、狭くなった。
心臓だった。
僕の知識が、そう告げた。
見なければよかったと思った。
けれど、目を逸らせなかった。
剣が、完全に抜けた。
マイケルが胸へ手を当てた。
何度も撫でる。
指で押す。
白衣の前を掻き開く。
傷が、なかった。
剣が通っていたはずの場所に、穴はない。
掌にも、服にも、血はついていなかった。
「……何だ、これは」
胸を押さえたまま、マイケルが言った。
「痛くもない。何も……」
その目が、宙に浮く赤い塊へ向いた。
脈打っていた。
男の身体から離れた場所で、確かに。
「返せ」
小さな声だった。
それから、急に大きくなった。
「返せ! それは私のものだ!」
手を伸ばす。
指先が届く寸前、心臓が動いた。
ふわりと。
頼りなく漂いながら、天使さんの左手へ向かっていく。
「何をするつもりだ。やめろ。おい、聞いているのか!」
天秤が、揺れた。
片側の皿へ、心臓が載った。
細い鎖が張る。
けれど、皿は下がらなかった。
もう片方には、何も載っていない。
それでも、天秤は水平を保っていた。
その不自然な均衡を、僕は見つめた。
心臓。
天秤。
剣を携えた天使。
幾つかの図像が、頭の中で重なった。
画集で見たもの。
古い資料の挿絵。
死者を前にして、その魂を量る者の姿。
同じではない。
けれど、何をしようとしているのかは、分かってしまった。
これは、戦いの続きではない。
もう、量られている。
「……やめろ」
マイケルが言った。
先ほどまでとは、声が違った。
僕が気づいたことに、この男も気づいたのだろうか。
空になった手が震えた。
「やめろと言っている!」
瞳が、変わった。
黒い瞳孔が、縦に細くなった。
僕は息を止めた。
マイケルの口元が引きつる。
唇の端が、左右へ広がった。
笑ったのかと思った。
違った。
耳元まで開いた口の中で、細いものが動いた。
舌だった。
先が、二つに分かれていた。
「セシル……」
呼んだ声が、掠れた。
足元の精霊騎士は、既に盾を構えていた。
小さな身体で、僕の前へ出ている。
マイケルの首が伸びた。
肩は動かなかった。
頭だけが、天使さんへ近づいていく。
その後ろから、長いものが続いた。
白衣を着た身体が、置き去りになった。
膝が折れる。
大きな身体が、床へ崩れた。
けれど、顔はまだ宙にあった。
もう、マイケルの顔ではなかった。
鱗のある長い首。
縦に割れた瞳。
大きく開いた口から覗く牙。
蛇。
そうとしか呼べないものが、男の身体から抜け出していた。
どこまでが首で、どこからが胴なのかも分からない。
長い身体がうねり、床へ落ちた白衣の上を越えた。
天使さんへ向かって、口が開く。
彼女は、動かなかった。
剣を下げたまま。
天秤を持ち上げたまま。
蛇の牙が、その顔へ届こうとしていた。
白いものが、落ちてきた。
一枚の羽根だった。
どちらの翼から離れたものか、分からなかった。
ゆっくりと回る。
羽先が揺れ、宙を滑り、空いていた皿へ降りた。
天秤が傾いた。
心臓を載せた側が、下がった。
「あ」
声がした。
人間の声だった。
ひどく間の抜けた、短い声。
白い光が、縦に走った。
蛇の動きが止まった。
開かれた口の中央に、細い線が見えた。
頭から、長い胴へ。
その線に沿って、姿が左右へずれた。
僕は、剣が振り下ろされるところを見ていなかった。
ただ、天使さんの手が、先ほどより低い位置にあった。
白く輝く刀身が、静かに下を向いていた。
分かれた蛇の身体が、宙で開いていく。
右の瞳が動いた。
左の瞳も。
互いを、見た。
自分の半身が向こうにあることを、確かめるように。
一瞬の間があった。
それから、叫び声が上がった。
甲高く、長く、聞いているだけで奥歯が痛くなるような声だった。
耳を塞ごうとした。
その前に、白い光が広がった。
蛇の輪郭が薄れた。
鱗が。
牙が。
見開かれた二つの瞳が。
光の中で、ほどけていった。
叫び声だけが残った。
それも、途中で途切れた。
僕は、息を吸った。
吸ってから、それまで止めていたことに気づいた。
床に、水が落ちる音がした。
一滴。
少し間を置いて、もう一滴。
マイケルの身体が、横たわっていた。
動かなかった。
さっきまで、あれほど大きく見えていた男が、崩れた壁や散らばった石の間に埋もれるように倒れている。
蛇は、どこにもいなかった。
焼けた跡も。
切り落とされたものも。
何も、残っていなかった。
今のものが、マイケルだったのか。
マイケルの中にいたものなのか。
僕には、分からなかった。
分かったのは、目の前で何かが裁かれたことだけだった。
弁明も、交渉も、届かなかった。
あの男がしてきたことを思えば、怒りはある。
許せるはずもない。
それでも、今見たものを前にして、よかったとは思えなかった。
終わった。
そう考えようとした。
あの男の企みは。
僕たちを襲っていたものは。
もう、終わったのだと。
けれど、セシルは剣を下ろさなかった。
小さな盾が、僕の前に掲げられている。
彼女の視線は、床の男へ向いていなかった。
僕は、その先を見た。
二人が、こちらへ近づいていた。
羽ばたきはなかった。
足も、床へ触れていない。
天使さんと、マリア。
僕の知っている顔が、並んでいた。
名前を呼ぼうとした。
声が、出なかった。
天使さんの瞳の奥で、炎が揺れていた。
マリアの瞳には、水が流れていた。
先ほどまで定まっていなかった視線が、今は、はっきりと僕へ向けられている。
目が合った。
二人の口元に、微笑みが浮かんだ。
セシルが、盾を持つ腕へ力を込めた。




