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間久部くんの受難   作者: Undo
天使と精霊と天才と
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第37話 孤軍奮闘の舞姫

炎が、床を舐めた。


 白い床材が捲れ上がる。

 その下を走っていた水路が露出し、噴き上がった水が、次の瞬間には白い蒸気へ変わっていた。


「お下がりを!」


 セシルが大楯を突き立てた。


 盾の縁から水が広がる。

 僕たちを覆うように反り返った膜へ、炎が叩きつけられた。


 視界が赤く染まる。


 薄い水の向こうで、火が渦を巻いていた。


 息を吸う。

 喉が焼けるようだった。


 セシルが盾を傾けた。


 炎の流れが逸れ、背後の壁へぶつかった。

 轟音とともに、白い破片が降り注ぐ。


 その一つが、落ちる途中で止まった。


 ほかの破片も。


 次いで、それらを濁流が呑み込んだ。


 瓦礫を巻き込んだ水が、天井近くで大きくうねる。

 先端がこちらへ向いた。


 セシルは、既に動いていた。


 盾を引き抜き、半歩踏み込む。

 右手の大剣が、斜めに走った。


 濁流が割れ、左右へ分かれた水が、僕たちの脇を通り抜けていく。

 砕けた石が頬を掠めた。


 背後で、何かが潰れる音がした。


 振り返る余裕はなかった。


 頭上に、天使さんがいた。


 二対の翼を広げ、宙に留まっている。

 真紅の髪が、風もないのに揺れていた。


 片手には剣。

 もう片方には、天秤。


 その瞳は、こちらへ向いていた。


 僕を見ているのかどうかは、分からなかった。


 少し離れて、マリアが浮かんでいる。


 胸元に抱えた白百合だけが、妙にはっきりと見えた。

 黒髪の先から滴った水が、床へ落ちる前に向きを変え、彼女の周りを巡っていく。


 二人とも、何も言わなかった。


 怒ってもいない。

 笑ってもいない。


 ただ、その足元で、部屋が壊れていった。


     *


 セシルが床を蹴った。


 背後から立ち上がった水が、その足を押し上げる。

 天使さんの懐へ、一息に距離を詰めた。


 大剣が振るわれる。


 刃が届く直前、炎が膨れ、鋭い音がした。


 金属同士の打ち合う音ではなかった。

 熱した鉄へ、水を落としたときに似ていた。


 剣の先が、白く煙った。


 セシルは止まらない。


 右腕を引く勢いで身体を捻り、左の大楯を押し出す。

 その表面から、水の帯が幾重にも伸びた。


 天使さんの腕と、剣を絡め取ろうとする。


 けれど、触れる前に焼き切れた。


 白い蒸気の中から、炎弾が飛び出す。


 一つではない。


 セシルは盾で最初の一発を受け流し、次を身を沈めて躱した。

 三発目が肩を掠め、水色の髪と甲冑の一部が散った。


「セシル!」


 呼びかけたときには、彼女はもう別の場所にいた。


 宙で身を返す。

 足元を走る水流へ着地し、そのままマリアの側面へ回り込んだ。


 大剣の形が戻っていく。


 失われた切先が伸び、刃に沿って細い水が螺旋を描き、突き出す。


 マリアの前で、水が盛り上がった。


 剣に纏わりついていた流れが、引き剥がされた。


 僕は目を疑った。


 セシルの水が、マリアの周囲へ吸い寄せられていた。


 奪われた水が、向きを変える。


 細い槍となって、今度はセシルの顔を狙った。


 彼女が首を傾ける。

 頬が裂け、透明な滴が宙へ散った。


 その滴さえ、マリアのほうへ流れていった。


 セシルの眉が、僅かに寄った。


 大剣を引き戻す。


 その動きに合わせて、彼女の右腕が一瞬だけ不自然に伸びた。


 引かれている。


 剣だけではない。


 彼女の身体まで。


 セシルは自ら腕の輪郭を崩した。


 繋がっていた水を切り離し、後ろへ跳ぶ。

 直前まで胸のあった場所を、瓦礫の渦が通り過ぎた。


 床へ降り立つより早く、大楯が僕たちへ向けられる。


 水の壁が立ち上がった。


 飛来した石片が、次々とその中へ沈んだ。


 グレッダ女史が、李所長を抱えるようにして身を縮める。


 僕は、その前で立ち尽くしていた。


 何もしていない。


 守られているだけだった。


 セシルは強い。

 それは、間違いなかった。


 あの二人の前に立っているだけで、僕は膝が震える。

 息をするたび、自分の内側まで何かに押し込まれるような圧迫感があった。


 その中を、彼女は戦っている。


 剣を振り、盾を構え、水を操る。


 一つの攻撃を躱しながら、別の攻撃を受け流し、その流れで次の一撃を放つ。


 しかも、そのすべてが、僕たちのいる場所を避けていた。


 逸らした炎。

   弾いた瓦礫。

     割った濁流。


 彼女は、攻撃を凌いだ先まで見ている。


 剣と盾を扱う技術だけではなかった。


 部屋を満たす水の一滴まで、自分の手足として戦っているようだった。


 それでも、届かない。


 相性が悪すぎた。


 セシルの身体は、水だ。


 甲冑も、剣も、盾も。

 見た目が違うだけで、恐らくは同じものからできている。


 天使さんの炎へ触れるたびに、その輪郭が薄れる。

 火の勢いを削いではいる。けれど、それ以上に、自分の形を保つための水を失っているように見えた。


 そして、マリア。


 こちらは、もっと悪かった。


 攻撃に使った水を奪われる。


 身体から離れた滴だけではない。

 今、彼女を形作っているものまで、向こうへ引かれている。


 セシルの口元が引き結ばれた。


 踏み込むはずだった足が止まる。

 その一瞬を、炎が襲った。


 彼女は上体を反らし、頭上を通った火流の下へ潜り込んだ。


 右へ。


 濁流が塞ぐ。


 上へ。


 炎弾が追う。


 落ちながら盾を返し、瓦礫を弾く。

 床へ触れる寸前、水が彼女の身体を攫うように持ち上げた。


 踊っているようだった。


 そんなことを思うべきではない。


 あの一歩が遅れれば。

 あの腕の返しを誤れば。


 何が起こるか、分かっている。


 それでも、炎と濁流の間を縫う姿から、目を離せなかった。


 翻る水色の髪。

 盾を引く肩。

 次の踏み込みへ移る、あの足の運び。


 胸の奥が、疼いた。


 知っている。


 そう思った。


 何を。


 どこで。


 考えるより早く、炎が彼女の退路を塞いだ。


 上から、濁流が落ちてきた。


 足元では、火が渦を巻いていた。


 セシルの姿が、その間へ挟まれる。


 彼女が笑った。


 見間違いではなかった。


「――はあっ!」


 裂帛の声が響いた。


 セシルの身体が、捻れた。


 人間の関節では、あり得ない角度だった。


 肩が回り、腰がほどける。

 握られていた大剣も、大楯も、腕の中へ溶け込んでいった。


 甲冑の輪郭が消える。


 髪が、水の尾を引いた。


 そこに、一枚の刃があった。


 剥き出しの水。


 薄く、長く、部屋の光を透かす刃が、斜めに宙を走った。


 炎を裂く。


 濁流を断つ。


 触れたものを押し返すように、水の刃が大きく弧を描いた。


 熱風が吹いた。


 僕は顔を庇った。


 水と蒸気が、部屋中へ降り注ぐ。

 瓦礫が音を立てて落ちた。


 一瞬だけ、視界が開けた。


 宙に、二人がいた。


 天使さんと、マリア。


 どちらも、姿勢さえ変えていなかった。


「……お怪我は、ございませんか」


 すぐ傍で、声がした。


 僕は振り向いた。


 水路の縁に、セシルが立っていた。


 小さかった。


 僕の顔ほどの背丈しかない。


 甲冑も。

 水色の髪も。

 剣と盾も。


 先ほどまでと同じ姿が、そのまま小さくなっていた。


「あなたこそ……大丈夫なのですか」


 セシルは、嬉しそうに目を細めた。


「身に余るお心遣いです、麗様」


「そういうことを聞いているのではありません」


 彼女の足元へ、水が寄った。


 けれど、身体へ取り込まれる前に震え、また離れていった。


 セシルは、それを見なかった。


 僕も、見なかったことにはできなかった。


「僕が、無理な命令をしたからですね」


 全員を助けろ。


 誰も死なせるな。


 マリアも傷つけるな。


 そのうえ今度は、天使さんまで。


 戦う力を持たない僕が、戦う者へ条件だけを積み上げた。


「あなたに、全部――」


「麗様」


 小さな声だった。


 それなのに、続きを言えなかった。


 セシルが僕を見上げていた。


「どうか、その願いをお捨てになりませんよう」


「ですが」


「何を救いたいのか。誰を連れて帰りたいのか。それをお示しくださるのは、麗様です」


 彼女は、小さな剣を胸の前へ立てた。


「その願いを果たすために、私がおります」


 濡れた頬に、笑みが浮かんだ。


「誉れを頂きました。悔いていただくことではございません」


 僕は口を閉じた。


 謝っている場合ではない。


 彼女が戦っている間に。

 こうして、こちらを気遣っている間に。


 僕は、何をする。


 何ができる。


 考えかけたとき、笑い声が聞こえた。


 マイケルが、両手を広げていた。


 宙に浮かぶ二人の、ほぼ真下だった。


 焼けた床も、散乱した瓦礫も、目に入っていないようだった。


「素晴らしい……」


 笑いながら、言った。


「これほどとは。これほどのものが、我々の手に」


 片手に、小さなフラスコを持っていた。


 表面に、文字があった。


 細かな線が幾重にも重なり、曲面を埋めている。

 中身は、空に見えた。


 見ていると、目の奥が痛んだ。


 嫌な予感がした。


 マイケルが、こちらを向き、僕の視線に気づき、口元を歪める。


「気になるかね」


「……何ですか、それは」


「住処だよ」


 指先で、フラスコを軽く揺らした。


「フラスコの小人。ホムンクルスの住処。そう呼ばれている」


 セシルの表情が変わった。

   汚物を見るような嫌悪の目。


 マイケルは、その反応に満足したようだった。


「いくら強大な力でも、従わせられなければ兵器にはならない。君たちも、今、それを実感したところだろう」


 フラスコを持ち上げる。


「器を造るだけでは足りない。中へ宿ったものを縛り、命令を与える仕組みが要る。これは、そのためのものだ」


「……二人を、どうするつもりですか」


「力を管理する。正しく運用する。それだけだ」


 あまりにも、軽く言った。


 僕は天使さんを見た。


 彼女は、動かなかった。


 マリアも。


 その下で、男だけが楽しそうに喋り続けていた。


「莫大なエネルギー。従順な兵士。既存の兵器では対抗できない戦力。そのすべてを、我が祖国が手に入れる」


 胸を張った。


「Eプロジェクト。世界を導く国が、それに相応しい力を持つ。当然のことではないか」


「そのために、子供たちを使ったのですか」


「有用な資質を、見捨てずに済んだ」


 隣で、グレッダ女史が息を呑んだ。


「マイケル……あなた」


「君たちにも感謝しているよ。研究を進めてくれた。実に熱心に」


 女史の顔が強張った。


 マイケル氏は、もう彼女を見ていなかった。


「この力を供給できる者が、誰になるか分かるかね。軍も、政府も、私を無視できなくなる。誰を守り、誰を退けるか。表に立つ者たちが、その判断を私へ仰ぐのだ」


 祖国。


 世界の秩序。


 大きな言葉を並べていたはずだった。


 けれど、話すほどに、その中心にいる男の姿だけが見えてきた。


「そうなれば、もう遠慮する必要もない。私の施設を造ろう。子供たちを引き取り、住まわせ、私の手で育てる」


 笑みが深くなった。


「食事も、衣服も、居場所も。すべて私が与える。外へ戻る理由など、なくしてやればよい」


 胃の奥が、せり上がった。


 この男は、保護という言葉で、所有する話をしている。


 逃げる先を奪い。

 選ぶものを奪い。


 それを、与えることだと思っている。


「……反吐が出る」


 声が漏れた。


「同感にございます」


 セシルが、低く答えた。


「あなたに、あの子たちは渡さない」


 グレッダ女史の声が震えていた。


「あなたの所有物じゃないわ」


「今さら、保護者のつもりかね?」


 女史が、言葉を失った。


 マイケルは笑い、僕たちへ背を向けた。

 呟きが始まった。

   意味の分からない言葉だった。


 唇が動くたび、フラスコの表面に刻まれた文字が暗くなった。


 足元に、線が走る。

   焦げた床の上へ、黒い円が描かれた。

     円の内側を、幾つもの文字が埋めていく。


「止めます」


 言うと同時に僕は走った。

 何をどうするかまで、考えていなかった。


 あの手を下ろさせる。

 フラスコを奪う。


 少なくとも、続けさせてはいけない。


 踏み込んだ足が、止まった。

 胸を、何かに押された感覚。

 何もなかった。


 けれど、進めなかった。


 歯を食いしばり、腕を伸ばす。


 指先が痺れた。


 見えないものが、手のひらを押し返していた。


「麗様、お退きを!」


 セシルの声がした。


 僕は構わず、もう一歩を出そうとした。


 身体が浮いた。


 次の瞬間、背中から床へ叩きつけられた。


 息が止まる。


 起き上がろうとした目の前を、黒い渦が流れていた。


 魔法陣の中から立ち上がり、マイケルの腕を伝って、フラスコの口へ集まっている。


 その先が、上へ伸びた。


 天使さんの髪から、炎が細く引かれた。


 マリアを巡っていた水が、一本の流れになった。


 どちらも、フラスコへ吸い込まれていった。


 あの小さな容器へ。


 水位は上がらない。

 炎が溢れることもない。


 ただ、入っていく。


 際限なく。


 男の語る欲望は、理解できなかった。


 理解したくもなかった。


 けれど、手にしているものの力だけは、疑いようがなかった。


 マイケルの声が、大きくなった。


 呟きが、朗唱に変わる。


 黒い渦が膨れた。


 天使さんの足元へ絡みつき、マリアの翼へ伸びていく。


 僕は床へ手をついた。


 立たなければ。


 まだ、間に合う。


 何か。


 何か、一つでも。


「天使さん!」


 呼んだ。


 返事はなかった。


 炎が、揺れた。


 そう思ったが、すべてが、消えた。


 黒い渦も。

   床を覆っていた文字も。

      フラスコへ流れ込んでいた炎と、水も。

 音が途切れた。

 白い部屋から、色が抜け落ちたように見えた。

 

 熱さを感じなかった。

 濡れた床の冷たささえ、分からなくなった。


 僕は片膝をついたまま、顔を上げていた。


 何が起きたのか。


 誰も、何も言わなかった。


 マイケルは、片手を持ち上げた姿勢で立っていた。


 その手には、まだフラスコがあった。


 口は、僅かに開いていた。


 呪文の続きを、言おうとしているようだった。


 先ほどと、違うものが一つあった。


 左胸から、剣が生えていた。


 白衣を貫き、心臓のある場所へ、深く。


 その柄を、天使さんが握っていた。

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