第36話 降臨
注射器を打たれ、『何か』を投与されたマリア。
まず、叫び声が、止まった。
――頭と胸を押さえていた手から力が抜けた。
―――目と鼻からの流血も今は止まっている。
……一瞬だけ、静かになった。
だが、次の瞬間―――
マリアの身体が大きく跳ねた。
床の水が、波打ち、彼女の周りの景色が曲がる。
「何を…」
声が上手く出ない。
目の前の状況を否定したいことに脳のリソースが割かれている。
「……マリアに何をした!」
奥歯を噛み締め、腹の底から声が出た。
首がぐるりと回り、マイケルの視線がこちらに向けられる。
ひどく、とてもつまらなさそうな顔だった。
注射器を放り捨て、落ちる音を聞いた後、今度は裂けんばかりの笑みを向けられる。
「君たちが、持ってきてくれたんだよ」
ゆっくりと指が、動いた。
――その先には天使さんがいた。
「平凡な一市民だと思っていた。取るに足らないメスだと。だが、あの男が連れていたからね。参考までにサンプルを取った…すると、どうだい?」
首はそのままに、身体もこちらを向いた。
その動きは、人間離れというより、蛇か何かを彷彿とさせる不気味さがあった。
「素晴らしい結果だよ!彼女の血には、驚くほど濃い神聖な力が宿っていた。キミも知っていたのだろう!?」
両手を広げ興奮しているマイケル。
爛々と輝く瞳が薄く発光しているようにも見えた。
僕は天使さんを見た。
グレッダ女史に支えられ、まだ苦しそうに息をしている。
「……血だと?」
天使さんが血を出す怪我を?
彼女に傷つけるなんて、一個師団かヒグマぐらいが必要のはず………一体どこで―――!!
記憶の渦が巡る、一つの答え。
―ドラッグストア。提携店。アルバイト。
――実演用の台。袖を上げた白い腕。滲んだ赤い筋。
傷薬を塗れば、すぐに目立たなくなった。
その前に、何があった?
―――使った刃物。拭ったもの。片づけたスタッフ。
「……最初から、仕組まれていたのですか」
「あらゆる可能性を広い集まるのが研究者の鉄則だろう?天才くん?」
歯を噛む僕の表情を見て満足気なマイケル。
すぐに興味が薄れて、視線はマリアへ戻った。
「力を受け入れる器と、それを支える神聖な力。組み合わせれば、どこまで届くと思う?」
答えたくなかった。
この男の言葉に、同じ言葉で付き合いたくなかった。
「人が、神へ近づくところを見られるんだ」
「世迷言ですね。科学者が信じることでは……」
「そして、君だよ。ミスター麗」
指が、僕へ向いた。
「君の血は、さらに貴重、いや極上と言ってもまだ足りないよ!」
「何を……!!?」
ハッタリだと思った。だが、自分の腕へ目を落とし、今朝の記憶が蘇る。
剥がれかけたガーゼ。
その下にある、擦り傷。
研究の前で転がり、腕を擦った。
マリアが、おまじないだと唇が触れた。
そのあと、手当てをしてくれたのは。
「……あのとき」
マイケルがこれまでにないぐらいの笑みを浮かべた。
まるで、恋人へのプロポーズのサプライズが成功したかのようだ。
……そんな経験はないが、この男の国ではそんな感じだろう。
「僅かな量だった。マリアが取り込んだ物。使ったガーゼに付着した物。状態はあまり良くなかったが、結果は変わった。いや、激変したよ」
傷へ触れた、大きな手を思い出した。
一度つけた物を取り換えられ、予備を渡された。
礼を言ったんだ。
僕は、あの男へ、ありがとうございますと言った。
ここ最近…人を見る目が皆無な気がしてきた。
「あらゆる素体で、反応が跳ね上がった。定着も、親和性も。それまで越えられなかった条件も、君の血は簡単に越えさせた」
何を言われているのか、分からなくなった。
僕の血。霊媒体質。八神の忠告。
マリア。天使さん。
幾つものものが、繋がりそうになっては、別の恐ろしい形へ変わっていく。
「この二つがあれば、器を壊さず、その先へ進める」
マイケルはそう言った。
確かめ終えた事実のように。
その足下でマリアは苦しんでいた。
両手を胸へ押し当て、声も出せずに身体を震わせていた。
そして。
「……あ、つい」
背後から、天使さんの声がした。
彼女らしからな弱々しい声音に、思わず振り向いた。
天使さんが、胸元を掴んでいる。
コートは肩から落ち、額に汗が浮かび、顔色が変わり、全身から湯気が立っていた。
さっきまでとは、明らかに違う。
寒さでも、息苦しさだけでもない。
マリアと、同じようにな反応――まさか!?
彼は、こちらの顔を見て笑った。
「やっと反応があったか」
「―――お前!」
禍々しい笑みを浮かべるマイケル。
口が裂けて見えた。
「あれだけの神聖な力。彼女も、器として申し分ない資質を持っていると思ってね。試す価値は十分」
円柱の中にいた天使さん。
衣服を取り上げられ、液体へ沈められていた身体。
なぜ、あそこにいたのか。
分からないまま、助け出した。
生きていることに、安心した。
「同じものを……?」
「それを知ってどうなる?」
身体の中がひっくり返る感覚が襲う。
足元が、遠くなる。
膝と頬を叩き、天使さんへ駆け寄った。
グレッダ女史が何か言っていた。
聞き取れなかった。
「天使さん」
肩へ触れる。
熱かった。
「聞こえますか。僕を見てください」
彼女が顔を上げた。
目が合った。
その目に、恐怖があった。
「まぐべ…ぐん?頭……いたいの」
「大丈夫です。直ぐになんとか」
「きもち、わるい……何か、入ってくる」
僕の腕を掴んだ。
強い力だった。
さっきまで、自分の身体を支えることさえ難しかった手が、必死にしがみついていた。
「何か、いるの…」
「天使さん!」
「私…の……中に」
僕は彼女の背を支えた。
何をすればいい。
薬か。
術か。
あの液体を、何とか取り除ければ。
どうやって?
何も。
何も分からない!
何が天才だ!肝心な時に役に立ったためしがない。
今。
今この時にわからないことがあることがもどかしい!
「セシル!」
彼女が、すぐ傍へ来ていた。
片手を天使さんへ向ける。
水が薄く広がり、その周りを巡った。
けれど、セシルの表情は晴れなかった。
「……麗様。これは…」
「助けてください」
「麗様。落ち着いて……」
「彼女を、助けてください!」
天使さんの手が、震えた。
僕はその手を握った。
熱が、掌へ伝わってくる。
「まくべ、くん」
「はい」
「分かんなく、なる」
声が途切れた。
彼女は必死に、続きを言おうとしていた。
「ここ…どこ?誰?ひとり…やだよぉ…」
「ここです。僕の前にいます」
涙が溢れ、虚ろな彼女を前にそんなことしか、言えなかった。
「名前を呼びますから。聞いていてください」
「……うん」
「天使さん」
彼女が頷いた。
その頬へ、汗が流れた。
「熱い」
「天使さん」
「身体が……燃えてる、みたい」
僕は首を振った。
何に対して否定したのか、自分でも分からなかった。
天使さんの髪が、揺れた。
風は、吹いていなかった。
毛先が、赤く光った。
僕はその光を見た。
見ているのに、起きていることが信じられなかった。
彼女の指が、僕の手から離れかけた。
掴み直す。
逃がしたくなかった。
何が入ってくるのか知らない。
どこへ行こうとしているのかも分からない。
それでも、ここにいてほしかった。
天使さんが、僕を見た。
唇が、動いた。
「……ごめん、ね」
言い終えた直後、炎が上がった。
僕の身体が、大きく後ろへ引かれた。
セシルだった。
さらに大楯が、僕と炎の間へ入り、噴き上がった水の柱が迫ってきた熱を遮った。
「天使さん!」
叫んだ。
炎の向こうに、姿が見えた。
手を伸ばした。届かない。
さらに大きく膨らむ炎は、丸く、人一人を包み込み、なお余るほどの大きさに育つ。
既に彼女の輪郭が見えなくなっていた。
後ろから、別の悲鳴がした。
「れい……!」
マリアだ。
彼女の周りでは水が逆巻いていた。
セシルの操る水とは違う。
床の水路から、壊れた噴水から、流れが引き剥がされるように集まっていた。
マリアが、こちらへ手を伸ばす。
泣いていた。
さっきまで、僕たちを責めていた顔ではなかった。
資料室で、怯えていた顔だった。
「やだ……やだあ!」
濁流はいとも簡単にその声を呑み込んだ。
その場に激しく唸る水の球が、生まれた。
炎と、水。
二つの球が、白い部屋の中に浮かんでいた。
火が唸る。
水が渦を巻く。
壁に赤い光と青白い光が交互に走り、砕けた石の影が床を揺れた。
グレッダ女史が、李所長を引きずるようにして後ろへ下がっていた。
マイケルは、動かなかった。
両手を少し広げ、二つの球を見上げている。
顔には、笑みがあった。
何も言えなかった。
怒りが消えたのではない、怒りを言葉にする場所まで、頭が回らなかった。
あの中に二人がいる。
僕が助けると言った二人が。
業火と濁流に呑まれた二人の女の子が。
セシルの楯の縁を掴んだ。
指に力を入れる。
まだ、何かできるのか?
そう思わなければ、立っていられなかった。
炎の表面に、白い線が走る。
水の球が、大きく脈打つ。
セシルが、僕を背へ押し戻した。
「麗様、お下がりください!」
二つの球が音もなく弾けた。
眩しかった
閉じた瞼に、熱い風と、冷たい飛沫が、楯の両側を抜けていく。
やがて、水滴の落ちる音が戻ってきた。
目を開けると二人がいた。
天使さんとマリア。
直ぐに2人だとわかった。
それなのに、すぐには名前を呼べなかった。
その様子が先ほどとあまりに変わっていたから。
天使さんの背に、二対の翼があった。
四枚の純白の羽は、ゆっくりと広がって、その先から小さな光がこぼれる。
燃え残りのようにも見えたが、床へ落ちる前に消えてしまった。
髪は、真紅に染まり、炎のように揺れている。
身体を包む白と金の装束も、腕を覆う輝きも、さっきまで身につけていたものではなかった。
片手に剣。片手に天秤。
二つの皿が、何も載せないまま、僅かに揺れていた。
対面には、マリアがいた。
背から、一対の大きな白い翼が伸びている。
黒い髪は、そのままだった。
ただ、毛先だけが淡い水色へ変わり、見えない流れに揺られていた。
白い衣の裾から、水が滴る。
手には、百合の花があった。
真っ白な、一輪。
あまりに静かだった。
先ほどまでの泣き声が、嘘のようだった。
「……天使さん」
ようやく声になった。
が、返事はなかった。
顔は、こちらを向いていた。
けれど、僕を見てはいなかった。
「マリア」
同じだった。
目は開いている。
その奥に、こちらへ応えるものが見つからなかった。
天使さんの手で、天秤が傾いた。
マリアの百合から、一滴、水が落ちた。
それだけの動きに、身体が強張った。
僕の知っている二人は、そこにいる。
いるのに、遠い。
とても遠い所にいる感覚だった。
呆けている僕の前にセシルが立ち、大楯を構え直す。
右手の大剣が、静かに持ち上がった。
横顔に、笑みが浮かんでいたが、喜んでいるのとは、少し違った印象だった。
向き合うものの大きさを確かめ、それでも退く気はない、覚悟の顔だと感じた。
「……天使長が、二柱」
彼女の声に呼応する水が、足元へ集まった。
「腕が鳴りますね!」
セシルの額から、一雫の流れ落ちたのを見た。




