第35話 黒幕
マリアは、指についた血を見ていた。
まだ、自分に何が起きているのか、分かっていないようだった。
鼻の下を拭う。
赤くなった手を見る。
その間にも、目の縁から新たな血が滲んだ。
「……いたい」
小さな声だった。
マリアの手が、頭へ上がる。
額を押さえ、首を傾ける。
そうすれば痛みのある場所から逃れられるとでも思ったような動きだった。
「いたい、いたい……」
もう片方の手が、胸元を掴んだ。
白い服に、赤い指の跡がつく。
膝が折れた。
「マリア!」
僕は駆け出した。
目の前へ、大楯が差し出された。
セシルが、僕の行く手を塞いでいた。
「お待ちください、麗様!」
「そこを…退いてください!」
「あの娘の内側、何かおります」
セシルの目は、マリアから離れなかった。
先ほどまで、攻撃を受けていたときとも違う顔だった。
剣を握る手に、僅かに力が入っている。
「…ですが、苦しんでいます」
「今、近づかれるのは――」
「分かってる!それでも…放っておけない!」
マリアが身体を丸めた。
頭と胸を押さえ、何度も息を吸おうとしている。
うまく吸えず、細い声だけが漏れた。
僕は楯へ手をついた。
「道を、開けて!」
セシルが、初めてこちらを見た。
迷っていた。
僕の言葉に従うことと、僕を守ることが、今は同じにならないのだと分かった。
そのとき、背後で声がした。
「っっ!やめて!……離して!」
振り向いた。
天使さんが、宙に浮いていた。
大きな腕が、背後から身体へ回されている。
彼女はその腕を掴み、何とか隙間を作ろうともがいていた。
マイケル=カース。
白衣を着た巨漢が、そこにいた。
いつ、入ってきた?
僕たちが来た通路ではない。
少し離れた壁際で、別の扉が開いていた。
「マイケル!離しなさい!」
グレッダ女史が、その脚へしがみついていた。
マイケルは、見向きもしない。
その目は、奇妙だった。
開いているのに、何を見ているのか分からない。
僕にも、グレッダ女史にも、腕の中で抵抗する天使さんにも、焦点が合っていないように見えた。
「マイケルさん。何をしているのですか」
答えはなかった。
彼は脚を振った。
グレッダ女史の身体がくの字に曲がり、床へ投げ出される。
短い声がして、そのまま脇腹を抱えた。
「やめてください!」
僕は前へ出た。
マイケルが歩いてくる。
天使さんを抱えたまま、こちらへ。
腕を掴んで止めようとしたが、空いていた手が、僕の胸に伸びた。
手が触れた、それだけだったはずだったが、足が床を離れた。
胸から背中に抜ける衝撃で息が潰れた。
視界の端を、白い床と砕けた石が流れる。
気がついたときには、さっきいた場所から随分と離れていた。
「麗様!」
セシルが声を上げ、こちらに来ようとしていた。
僕は片手を上げ、制止する。
こちらへ来なくていい。
そう言おうとして、咳き込んだ。
マイケルは、視線を苦しむマリア向け、彼女の傍へ行き、天使さんの肩口を片手で押さえる。
天使さんは身体を捩ったが、その手は微動だにしなかった。
マイケルは、空いた腕でマリアを抱き寄せる。
「可哀想に…」
優しい声だった。
…だからこそ、気味が悪かった。
「痛むかい…マリア。可哀想に」
マリアは答えられなかった。
胸元を掴んだまま、彼の腕の中で震えていた。
「その手を……離してください」
膝をつき大きく息を吸う。
うまく息が入らない。
もう一度、大きく吸う。
「天使さんを、離せと言っているんです!」
聞こえているはずだった。
なのに、マイケルはマリアだけを見ていた。
苦しむ彼女の顔を覗き込んでいる。
……いや。
顔を見ているのではない。
痛がる少女の表情より、何か別のものを確かめているような目だった。
…彼女の、その奥にあるものを。
「離して!」
天使さんが、もう一度身体を捩ると蹴った足が瓦礫を
跳ねさせる。
小さな石片が、マイケルの頬へ当たり赤い筋が一つ、頬に伸びる。
マイケルは視線を天使さんに落とす。
「……鬱陶しい」
押さえていた手が離れ、天使さんが起き上がろうとしたが、その首筋へ靴が置かれた。
声にならない短い悲鳴。
同時に天使さんの身体が短く跳ねる。
彼女の両手が、その足首を掴んだ。
僕は立ち上がり、何か叫んだ。
何を叫んだのかは、覚えていない。
マイケルが笑う。
大きく、喉を鳴らすように。
今まで聞いたことのない、不愉快な笑い方だった。
セシルが剣を振い、呼応して水が、低く走った。
マリアを避け、床すれすれを滑った流れが、マイケルの足元で刃となって跳ね上がる。
巨体が持ち上がり、天使さんから足が離れる。
周囲を水の輪が囲み、巻き込まれそうになったマリアと天使さんの身体を包んだ。
マイケルだけが吹き飛ばされ、壁に容赦なく激突した。
土煙が上がり、鈍い轟音が部屋を震わせる。
解放された天使さんは激しく咳き込んでいる。
天使さんにグレッダ女史が這うように近づき、身体を支える。
呼びかけながら、首元と顔を確かめていた。
セシルが僕の隣へ立ち、大剣の切先をマイケルへ向ける。
僕は、その横を一歩進んだ。
「お前……何をした」
自分の声とは、思えなかった。
「彼女に、何をした!」
マイケルが、土煙の中悠々と立ち上がった。
白衣は裂けて、壁に打ちつけた肩の辺りも、脇腹も見えている。
けれど、そこにあるはずの傷が、見当たらなかった。
頬の赤い筋さえ、拭えば消えてしまいそうだった。
地下の円柱が、頭を過ぎった。
この男も、何かを施されているのか。
答えは出なかった。
マイケルは首を傾け、それから、セシルを見た。
「それが、本物の精霊か」
声が明瞭になっていた。
視線と焦点も、こちらを捉えている。
先ほどまでの虚ろな様子が、嘘のようだった。
「実に興味深い」
「質問に、答えてください」
僕は、どうにか言葉を整えた。
整えなければ、ただ怒鳴り続けてしまいそうだった。
「なぜ、天使さんを傷つけたのですか。マリアに、何をしているのですか」
マイケルは、答える代わりに部屋を見回した。
壊れた噴水。
水路。
白い壁。
そして、僕たち。
「…ミスター麗。君は、ここの研究をどの程度聞いた?」
僕は黙った。
「霊的物質の製造。新たなエネルギー資源。超能力の後天的な発現」
まるで、昼間の説明の続きだった。
「どれか一つでも、実用化できれば世界は変わる。すべてを手にすれば、なおさらだ」
マイケルが笑った。
「エネルギーを握り、兵力を握る。ほかの国が追いつく頃には、競争そのものが終わっている」
「……兵器を、持ち出すつもりだったのですか」
マイケルは不気味な笑みを浮かべた。
「失敬だなキミは…研究成果を、適切な場所へ移すんだよ」
グレッダ女史が顔を上げた。
「マイケル、あなた――」
「世界の均衡を支える力は、それに相応しい国が持つべきだ」
彼は、彼女を見なかった。
「我が祖国には、その資格がある」
ようやく、言葉の意味が繋がった。
部門長。
研究者。
協力者。
僕たちが見ていたのは、その立場だけだった。
「……産業スパイですか」
「人聞きがわるいなぁ?ミスター天才」
マイケルは、愉快そうに答えた。
「軍の人間にとっても、研究は重要な仕事だ」
グレッダ女史の顔が、強張った。
彼女も知らなかったのだろう。
だが、それでこの人のしたことが消えるわけではない。
ここにいる誰を信じればよいのか、ますます分からなくなった。
「マリアは、最高の成果だった」
マイケルが、床へ蹲る少女を見た。
「能力だけではない。器としても、稀に見る資質があった」
「器?」
マイケルはこちらを見ずに頷いただけ。
「ただ、出力が大きすぎた。本人が考え、感じ、力を使う。その活動のすべてに、身体が耐えられなかった」
マリアが、頭を押さえていた。
小さな声が聞こえる。
いたい。
まだ、そう言っていた。
「だから、制限を設けた」
「何を…制限したのですか?」
三度笑みを浮かべるマイケル。
その面を思いっきり、殴りつけたくなる衝動に駆られる。
「認知機能だよ!理解し、推論し、自分の意思で力を扱う範囲を狭めた。年齢相応の発達を保つことより、安定して運用できることを優先したんだ」
僕は、言葉を失った。
資料室で会ったときの、マリアの顔が浮かんだ。
問いかけるたびに、考えていた。
知っている言葉を探し、僕へ伝えようとしていた。
分からないと、眉を下げた。
分かると、嬉しそうに笑った。
あれは。
あの幼さは。
「あなたたちが……そうしたのですか」
マイケルは、僅かに肩をすくめた。
「脳を溶かさないための措置だよ。とても人道的だと思わないかい?」
僕は拳を握った。
爪が、掌へ食い込んだ。
「それを、本人に説明したのですか」
「説明して、理解できたと思うか?」
セシルの甲冑が、小さく鳴った。
僕が動こうとしたことに、気づいたのかもしれない。
目の前にいる男を、殴りたかった。
そんなことをしても何も変わらないと、分かっていた。
分かっていても、そうしたかった。
「……なぜ、そこまで話すのですか」
別の疑問に、必死に意識を向けた。
時間を稼いでいるのか。
僕たちをここから出さないつもりなのか。
この男は、何を待っている。
マイケルは笑った。
「もう、隠す必要がないからだ」
「どういう意味―――」
「問題を解決する材料が…揃ったからだよ!」
彼の手が、白衣の内側へ入った。
出てきたのは、注射器だった。
中に、赤い液体が入っていた。
「セシル!」
僕が叫ぶのと、マイケルがマリアへ身を屈めるのは、ほとんど同時だった。
水が走る。
けれど、マイケルの大きな身体が、マリアを隠していた。
セシルの剣先が、僅かに止まった。
その間に、針が首筋へ入った。
赤い液体が、押し込まれた。
「やめろ!」
間に合わなかった。




