第34話 正義の位置
マリアとセシルの攻防が始まった。
セシルの繰り出した水槍は、マリアに届かなかった。
突き出された小さな手のその先、何もない場所で穂先が潰れ、白い飛沫となって弾けた。
続く二本も、同じだった。
けれど、砕けた水は床へ落ちなかった。
水はマリアの左右へ流れ、細く束ねられる。
今度は背後へ回り込むように、弧を描いて伸びた。
マリアが両手を振うと、見えない壁が展開し、水が周囲へ押し広げられ、一斉に弾き飛ばされ、床を叩く。
僕は天使さんの肩を抱き、顔を伏せたが、頬へ飛沫が当たった。
冷たい。
顔を上げたときには、セシルがもう踏み込んでいた。
大楯を前へ。
その陰から、大剣が低く走る。
剣はマリアの身体へ届く寸前、刀身が止まる。
音もなく、ピタリと。
拮抗する睨み合いの中、セシルの足元を水が渦巻く。
踏みしめた床に、細いひびが走る。
押しているのか?
剣の切先を、見えない何かへ押し込もうとしているのだ。
マリアが顔をしかめた。
「……うぅぅ!それ、やだぁぁっ!」
手首を返す。
大剣が、横へ弾かれた。
セシルは逆らわなかった。
流された剣と共に身体を回し、大楯でマリアに殴りかかる。
さらにその足元から、水の帯が伸びた。
足首へ巻きつこうとしたそれを、マリアが踏みつけるように手を下げた。
直後、彼女たちのいた床が陥没した。
水が砕けた石の隙間へ呑み込まれ、その直後、別の水路から新たな槍が立ち上がる。
前から。
横から。
頭上から。
マリアが向きを変えるたびに、違う場所の水が形を持った。
すべての攻撃を見ている余裕など、ないはずだった。
それでも、彼女には届かない。
背後から迫った針さえ、振り向くことなく払い落としていた。
水の弾ける音は、絶え間なく途切れず続いた。
「……マリアは何なんですか」
僕は、グレッダ女史へ顔を向けた。
彼女は戦いを見ていた。
唇が、僅かに動いている。
何かを数えているのか、呟いているのか、分からなかった。
「グレッダさん」
返事がない。
僕は彼女の前へ膝をついた。
「…答えてください」
こちらを見た目に、怯えがあった。
僕に対してではないのだと思う。
それでも、構わなかった。
「僕たちは何も知らないまま、襲われています。天使さんも巻き込まれています」
声が震えた。
抑え込んだ。
「まだ、話せないことがあるのですか」
グレッダ女史が目を伏せた。
背後で轟音がした。
セシルの楯へ見えない力がぶつかり、その身体が数歩分、後ろへ滑るが、彼女は倒れなかった。
楯を傾けて力を流すと、すぐに距離を詰め直した。
床に残った二筋の跡へ、水が流れ込む。
「……ただの孤児だったの」
グレッダ女史が言った。
ひどく小さな声だった。
「マリアは、引き取られた子供の一人だった」
「一人?」
彼女は頷いた。
「ほかにも、何人かいた。身元の記録が曖昧で、保護者も、行方を確かめる人間もいない子たちを……」
「そんな子どもをなぜ…」
返事はなかった。
僕は、彼女の背へ回った。
縛られた手首の周りは赤くなっていた。
固い結び目へ指をかける。
助けることと、許すことは別だ。
そう考えなければ、手を動かせなかった。
「何のために、集めたのですか」
「…会社が国と一緒に進めていた研究のためよ」
改めて聞き直すと、グレッダは苦虫を潰すようぽつりと口を開く。
「霊的物質の製造と、ESPを含む超常能力の開発。生まれつき能力を持たない人間にも、後天的に発現させるためのプロジェクト……難航していたわ」
「人工霊体の開発がですか?」
グレッダ女史は首を横に振る。
「大きな理由は、経営難よ天才くん。研究に初めは国も皮算用で費用を擁立してくれたわ」
「でも、成果が不明かつ見通しのたたない物に財布の紐を緩めると思う?この業界の金の動きは異常よ」
それは、僕も常々思っている。
この間受け取ったお守りの値段も計算したくないぐらいだから。
グレッダ女史の肩が動いた。
「重なる出費、物にならない研究経過。次々にスポンサーは離れて行く。理論は合っていたわ、でも、ノウハウが全く伴っていなかったのよ」
「そんな時よ。赤い髪の東洋人が現れたのは」
東洋人?赤い髪?
「彼は、生体医学詳しい人を探していると言ったわ。私たちとここの施設は彼にうってつけだったみたいね」
「多額の寄付、オカルトの知識の提供、関係団体斡旋、研究は一気に進んだわ」
「私と所長の夢が叶う気がした」
気を失っている所長に視線を落とす。
「霊体の開発は研究に繋がっているわ。作った霊体を安定させる技術と、人間の能力へ干渉する技術。その両方が必要だった」
「エネルギー事業では、ないのですね」
「それも、嘘じゃない。副産物よ。ただ…」
言葉が詰まるグレッダ女史。
「赤い髪の男はいくつか条件を出してきたのよ…その一つが地下で進めていたもの。その用途は――」
言葉が止まった。
僕は続きを待った。
待たれていることに耐えられなくなったように、彼女は口を開いた。
「人工の異形、キメラの生成とEPS兵士の開発」
「そして、その軍事利用よ」
グレッダ女史の縄を結ぶ手が止まった。
隣で天使さんが、息を呑んだ。
「まさか、あの子も?」
グレッダ女史は、否定しなかった。
セシルの大剣が、マリアの斜め前から振り下ろされたが、また届かず、眼前で止められる。
セシルは大剣の握る手に力を込める。
今度はその刀身を伝って、水が走った。
剣先で枝分かれした流れが、マリアの腕を左右から挟み込もうとする。
マリアが両肘を咄嗟に引くと、水は逆向きに、セシルに向かって噴き返した。
セシルが頭を傾けるが、頬の横を、細い水の筋が掠めた。
彼女は剣を引き、足を入れ替え、距離を取る。
その後をマリアの手が、追いかける。
床に溜まっていた水が、不自然に窪みを作った。
何かが来る。
僕がそう思うその前に、セシルは既に横へ跳んでいた。
さっきまで彼女がいた場所を、空気の塊が通ったように見えた。
離れた壁が鈍い音を立て、丸くひしゃげ、抉られていた。
「あれが、念動力ですか」
「ええ。サイコキネシス……物体への干渉よ」
グレッダ女史の声が、先ほどより速くなった。
「ただ、あの規模は記録にないわ」
「他に何が、できるのですか」
彼女は僕を見た。
返答までに、僅かな間があった。
「…透視、テレパシー、念動力。物体に残った情報を読むサイコメトリー。転移と、発火現象も確認している」
「……それだけですか」
「おおよそ、超能力と言われて一般的に思いつくものを使えるわ」
八神の検査記録が、頭に浮かんだ。
あのときは、測る側が振り回されていることに呆れていた。
今は…笑えなかった。
「マリアは、唯一、成功した例だった」
成功。
その言葉が、やけに耳に残った。
「本人の資質が大きかったのだと思う。人工霊体との親和性も、ほかの子とは比べものにならなかった。互いの作用が能力を増幅したと、私たちは考えていた」
「考えていた?」
「全部がわかった訳ではないのよ、天才くん」
「……その呼び方はやめてください」
僕は、ようやく外れた縄を床へ落とした。
「自分たちで説明できない研究を、彼女に行っていた。その認識でいいですね」
グレッダ女史は、赤くなった手首を押さえた。
何も言わなかった。
マリアの声がした。
「もう、やだぁ!」
視線を移すと、床に散らばっていた噴水の破片が、浮いていた。
拳ほどのものから、抱えるほどの大きさのものまで。
マリアが両手を振り下ろした。
瓦礫が飛んだ。
セシルは大楯を斜めに構える。
最初の破片が、縁を滑って床へ落ちる。
二つ目は、楯の表面で砕けた。
三つ目。
重い音がして、彼女の左膝が沈んだ。
その姿勢を狙うように、別の破片が横から迫った。
大剣が閃く。
砕かれた石が、彼女の髪を散らした。
僕はグレッダ女史の肩を押さえ、身を低くした。
破片がこちらへ飛んでくる。
目の前で瓦礫が爆ぜ、直撃するかと思ったが、突如床の水が立ち上がった。
薄い幕が、僕たちと戦いの間を隔てた。
石が水へ入り、勢いを失って落ちる。
セシルは、こちらを見てもいなかった。
守っている。
マリアと戦いながら、僕たちまで。
その余裕が、いつまで続くのかは分からなかった。
「なんで!よけるの!当たんないの!」
マリアが叫んだ。
自分の思うとおりにならないことを、腹立たしく思っている声だった。
叫び声と共に目の前の空気が揺れる。
宙に浮く瓦礫が振動し、赤い光が包む。
高速振動された瓦礫に火が灯る。
丸く固められた火が、幾つも生まれた。
セシルが剣を引く。
火球が放たれるのと、水の幕が持ち上がるのは、ほとんど同時だった。
白い蒸気が、部屋を覆い、肺が蒸せかえる。
僕は天使さんの顔を庇った。
視界が真っ白になり、辺りが見えなくなった。
蒸気の向こうで、金属を叩くような音が続いた。
一つ、二つではない。
細かく、速い音。
セシルの剣尖が蒸気を切り裂くと、マリアの周囲には拳大の水滴がいくつも浮いていた。
さっきまで床へ広がっていた水だ。
それが無数の粒となり、一斉にセシルへ向かって弾けた。
セシルは楯を上げ、半身になったが、肩、腕、脇腹と盾から出ていた部分に水滴が襲う。
甲冑の肩が砕け、その下の身体まで、崩れた。
息を飲む攻防。
セシルから血は出なかったが、崩れた腕から、透明な水がこぼれた。
大剣の切先が下がる。
片膝が床へつく。
マリアが、また手を上げた。
「やめてください!」
僕は叫んでいた。
「マリア!」
彼女の手が止まった。
こちらを見る。
その一瞬に、セシルが後ろへ跳んだ。
僕たちの前へ戻り、大楯を据える。
失われていた肩へ、水が集まっていた。
床から伸びた細い流れが腕へ巻きつき、指の先まで形を取り戻していく。
砕けた甲冑も、何事もなかったように繋がった。
「……セシル」
「申し訳ございません。御前を離れすぎました」
彼女は、僕を見ずに言った。
「どうか、そのまま」
セシルはマリアから視線を外すさず、切先を向けていた。
「れい」
マリアが、僕を呼んだ。
「どうして?」
僕は顔を上げた。
彼女は眉をはの字に曲げていた。
怒っていた…いや。それ以上に、困っているように見えた。
「どうして、じゃまするの」
言葉を探した。
『人を傷つけようとしているからです』
そう答えればよいはずだった。
なのに、グレッダ女史の告白が、まだ耳に残っていた。
子供を集めた。
能力を作ろうとした。
兵士を軍役のために。
……成功したのは、一人だった。
「マリア、わるいこと、してないよ」
彼女が言った。
僕が答えないことを、聞いているのだと思ったのかもしれない。
「グレッダたちが、わるいの」
「……何を、されたのですか」
「いたいこと。いやだって、いっても、やめないの」
マリアの指が、白い服を掴んだ。
「みんな、ないてたよ。マリアも、やだっていったよ」
グレッダ女史が、目を伏せた。
「だからね……おしおき、するの」
マリアは、真っ直ぐに言った。
悪いことをした。
だから、罰を与える。
その間に、迷いはないようだった。
「そうしたら、もう、しないでしょ?」
僕は唇を開いた。
そうじゃない。
それではダメだと口にしようとした。
「…それは…あなたが決めることじゃ…ない!」
天使さんが身体を起こした。
聞き覚えのある、よく通る澄んだ声だった。
マリアが、彼女を見た。
天使さんはコートの前を押さえ、セシルの後ろから顔を上げていた。
まだ、立ち上がれないようだったが、声ははっきりしていた。
「…酷いことをしたなら、その人たちは裁かれなきゃいけない」
「何をしたのか調べて、責任を取らせる場所へ連れていくのよ…」
「……おしおき?」
「罰を受けさせるってこと。でもそれは、あなたが一人で、誰をどう罰するか決めていいわけじゃない」
マリアは、眉を寄せた。
「なんで?」
「勝手に決めていいなら、強い人の言うことだけが正しくなっちゃうからよ!」
水の落ちる音がした。
マリアはグレッダ女史を見た。
次に、天使さんを見る。
「ぐれっだとりー、わるいよ?」
「うん。今の話が本当なら、許されないことをしてる」
「…じゃあ!なんで、とめるの!?」
「それが…許されないことだからよ…」
声が、少し高くなった。
天使さんは、視線を逸らさなかった。
「悪いことをした人なら、何をしてもいいの?」
「おしおき…だよ…」
「痛いって言っても、やめないの?」
「だって、ぐれっだとりーも――」
「だから、あなたも同じことをするの?」
マリアの口が止まった。
白い服を握る指に、力が入る。
「……いっしょ。ちがう…」
「だったら、やめて。人を傷つける手を下ろして、何があったのか話して」
物心がついた子どもを叱る保護者のようだった。
同じような説諭を天使さんが、学校でしていたことを思い出した。
廊下で誰かを叱るとき。
見過ごせないことを、見つけたとき。
けれど、今、相手にしているのは、同じ決まりを知っている生徒ではなかった。
「規律は守らないといけないの。誰かが勝手に罰を決めて、それにまた別の人が罰を返したら、終わらなくなるでしょう」
「……わかんない」
「分からないからって、力で押し通していい理由にはならない」
「マリア、わるくないもん…」
涙が、目に溜まり始めた。
マリアは、僕を見た。
助けを求めるような目だった。
「れい。マリア、わるくないよね」
僕の喉が、詰まった。
怖かったのだと思う。
痛かったのだと思う。
それを、なかったことにはできない。
だが、その手を上げるたび、誰かが死ぬかもしれない。
「マリア。嫌だと言ったあなたが、悪かったのではありません」
僕は言った。
「でも、今していることは、止めなければいけません」
「……れいも?」
彼女の顔が、歪んだ。
泣くのを堪える子供の顔だった。
唇が震え、眉が寄る。
「なんで?なんで、みんな…マリアにいうの」
グレッダ女史を指差す。
「わるいの、あっちなのに!」
「だからって、言うことを聞かない相手を片っ端から傷つけるのは違う!」
天使さんの声が、強くなった。
マリアの肩が跳ねた。
「それじゃ、お仕置きでも正義でもない。ただ、自分の思いどおりにならなくて、癇癪を起こしてるだけよ!」
言葉が、部屋に落ちた。
マリアは、動かなかった。
意味を、どこまで理解できたのかは分からない。
それでも、否定されたことは分かったようだった。
自分は正しいと思っている。
悪いことをした人に、悪いと言っている。
なのに、その人を庇った相手から、叱られている。
溜まっていた涙が、頬へ落ちた。
「……きらい」
小さな声だった。
「きらいきらいきらいきらい………」
天使さんは、黙っていた。
「あなた…だいきらい!」
マリアが、手を上げた。
僕は天使さんへ腕を伸ばした。
彼女は、マリアを見たままだった。
「……やってみなさい」
低い声だった。
「それで私が、正しかったって言うと思う?」
「天使さん!」
返事はなかった。
逃げられる状態ではない。
それでも、彼女は顔を伏せなかった。
マリアの指が、開いた。
「セシル、天使さんを――!」
間に合わない。
――ちくしょう!
言い終えるより先に、身体が動いていた。
マリアの手が天使さんに向けらるのが見えた。
セシルの盾が、僕に向かってくるが、間に合わない!
目を閉じ、衝撃に備える―――
が。
何も、起きなかった。
隣で天使さんが身体を起こした。
彼女にも異変はなかった。
耳鳴りはしなかった。
床も、壁も、歪まなかった。
楯の表面を流れる水に、波紋さえ生まれなかった。
天使さんが、僕の腕の中で顔を上げた。
セシルも、動きを止めていた。
静かだった。
壊れた噴水から、細く水が漏れている。
「あれ?」
マリアが、自分の手を見た。
開いて、握る。
もう一度、こちらへ向けた。
その鼻の下に、赤い筋が伸びた。
僕は息を止めた。
マリアが空いた手で鼻へ触れる。
指先を見た。
不思議そうな顔だった。
その目の縁にも、赤いものが滲んだ。
涙に混じり、頬へ流れ落ちる。
「……あれ?」
血のついた指を見つめたまま、マリアは、もう一度そう言った。




