第33話 精霊騎士 ウンディーネ・セシル
ウンディーネを名乗る騎士風の女性は、頭を垂れたまま待っていた。
僕の言葉を。
大楯は、今もマリアとの間にあり、膠着状態になっている。
大楯の表面からを薄く水が流れ僕たちを覆っている。 時折、何も触れていない場所に波紋が広がった。
防いでいるのだ。
あの、目に見えない力を。
そう理解しても、目の前の存在をどう受け止めればよいのか、分からなかった。
ウンディーネ。
その名前は知っている。
八神の事務所で整理した資料に、何度か出てきた。
水の精霊。
それも、ゲームや小説に登場するほど、広く知られた名前だった。
資料の挿絵には、半透明の女性に似た姿が描かれていた。
別のものでは水球だったし、人間の形を殆ど留めていないものもあった。
色々な描写や伝聞はあったが、共通していたのは、水そのものに意思が宿ったような姿だったことだ。
けれど、目の前の女性は違った。
水色の髪が、頬にかかっている。
伏せた瞼には睫毛があり、言葉を待つ唇にも、甲冑から覗く肌にも、確かな形、存在感があった。
透けてはいない。
濡れた床を踏む足にも、膝を折った姿勢にも、重さを感じる。
資料などから想像していた精霊というものと、あまりに違っていた。
腰へ手を伸ばす。
ズボンのポケットに、硬い感触がある。
八神から渡された石、精霊石。
この石から彼女が出てきたのだろうか……
お守りだから持っていろと言われ、返そうとしても受け取ってもらえなかったものだ。
まだ、温かい。
熱は引き始めているが、それでも、布越しの指へ伝わるほどの温もりが残っていた。
彼女が顕現した理由はわかった。
だが、疑問が残る。
―――もう一つの言葉。
セシル。
僕は、その名前も呼んだ。
読んだ資料を頭の中で辿る。
題名。
頁。
挿絵の下の、小さな文字。
記憶の車庫を総浚いしてみても、そんな名前はなかった。
ウンディーネという名に添えられていた覚えも、別の精霊として記載されていた覚えもない。
では、なぜ言葉にした?
誰に教えられた?
そもそも、呼べと言ったあの声は――。
「主様」
顔が近づいていた。
息がかかるぐらいの距離にあった。
僕は思わず、背を引いた。
騎士が上体を起こし、こちらを覗き込んでいたのだ。
楯の位置は変わっていない。
僕たちを庇ったまま、返事を待ちかねたように、顔だけを寄せている。
「差し出がましいことですが…どうか、貴方様の御名をお聞かせください」
真っ直ぐな目だった。
疑っている様子はない。
誰かと間違えていないか、確かめようとしているのでもない。
知りたいのだと、そう感じた。
「……間久部、麗です」
名乗ると、彼女の顔が明るくなった。
「まくべれい…レイ…マクベ…麗様」
瞳を輝かせ、確かめるように、繰り返す。
その響きを喜んでいるような声だった。
僕は、ますます困った。
名前を伝えただけで、そんなふうに笑われる理由が分からない。
彼女は姿勢を正し、改めて頭を下げた。
「御名、確かに承りました。どうか、この身に御命令を」
「命令、と言われても……」
何を命じればいいのか?
何ができる相手なのかさえ、知らない。
どう呼び出したのかも、自分では分かっていない。
そんな相手が、僕を主と呼んでいる。
間違いではありませんか、と尋ねかけた。
そのとき、背後で咳がした。
天使さんが、口元を押さえていた。
僕のシャツを着て、八神のコートを肩に掛けている。
まだ濡れた髪が頬へ貼りつき、身体を起こすだけでも辛そうだった。
目が合うと、大丈夫だと言うように頷いた。
大丈夫な訳がなかった。
僕は、その顔から目を逸らせなかった。
グレッダ女史は、李所長を支えようと身体を寄せていた。
後ろ手を縛られたままでは、それすら難しい。
所長は、未だ動かない。
この人たちが何をしたのか。
どこまで知っていたのか。
聞かなければならない。
けれど、ここで死なせてしまえば、何も聞けなくなる。
楯の向こうに、マリアがいた。
上げた手を下ろし、こちらを見ている。
先ほどまでの嬉しそうな顔は、少し曇っていた。
僕と騎士を見比べ、不満気に眉を寄せている。
「れい」
呼ばれた。
知っている声だった。
資料室で、自分の名前を教えてくれた声。
僕の腕を見て、痛いのかと尋ねた声。
その少女の足元で、水路と床材が軋み、細いひびが、表面を走った。
僕は息を吸った。
分からないことは、あとでいい。
今、何をしたいのか。
それだけは、自分で決めなければならなかった。
「…あなたには……何ができますか?」
騎士は顔を上げる。
「麗様が望まれるままに」
間髪を入れない返事だった。
困る。
それでは、何も判断できない。
普段なら、そう返したと思う。
けれど、彼女は僕の問いから逃げたわけではなかった。
こちらを見据える目に、迷いはなかった。
何を望むのか。
それを、先に言えということなのだろう。
僕はマリアを見た。
彼女の手が、また少し上がった。
楯に、波紋が生まれる。
「……なら」
僕は膝に力を入れた。
「僕たちの活路を、開いてください」
言葉にすると、次に言うべきことも分かった。
「ここにいる人を、誰も死なせたくありません」
天使さんも。
グレッダ女史も。
李所長も。
そして。
「マリアを、止めてください」
彼女の名前を、はっきりと言った。
「傷つけるためではありません。これ以上、誰かを傷つけさせないために」
自分に、それを求める資格があるのかは分からなかった。
危険な相手を前にして、都合のよいことを言っているのかもしれない。
それでも。
倒してほしいとは、思わなかった。
僕たちだけ守ってくれれば、それでよいとも思えなかった。
あの笑顔を知っている。
たった、それだけのことが、今はどうしても譲れなかった。
精霊騎士は、真っ直ぐに僕の言葉を最後まで聞いた。
そして、笑った。
これまでにない、満面の笑みだった。
困難な注文を受けた顔には、見えなかった。
むしろ、その言葉をこそ待っていたように、誇らしげに胸を張った。
「承りました…」
立ち上がる。
甲冑が鳴った。
僕を見下ろす高さになって初めて、その姿の大きさを感じた。
地面に刺した大剣を持つ右腕が、ゆっくりと上がる。
左手に大楯を持ち直し、正面へと向ける。
「麗様。お連れ様と共に…私の後ろへ…」
彼女は、マリアへ向き直った。
水色の髪が翻えし、剣を、盾を構える。
その周囲を水が意思を持つかの如く集まってくる。
壊れた噴水から溢れたもの。
床の溝を流れていたもの。
飛び散り、薄く広がっていたものまで。
すべてが、同じ方向へ動いていた。
マリアが、一歩退いた。
精霊騎士は、剣の鋒をマリアに向けた。
「麗様が一の従者――」
声が、白い部屋に響いた。
先ほどまでの、恭しい声とは違った。
よく通る、力強い声。
「水の原初精霊、ウンディーネがセシル!」
水路が、鳴った。
流れていた水が、一斉に持ち上がる。
「我が主の御意により、汝の暴威を押し留める!」
立ち上がった水が、形を変えた。
長く伸びるもの。
細く尖るもの。
槍となり、針となり、彼女の周囲に幾重もの切先が並ぶ。
水面が光を映した。
白い部屋に、無数の輝きが揺れた。
セシルが、一歩踏み出した。
大剣が、振り下ろされる。
その動きに呼応して、宙に並んだ水の穂先が、一斉にマリアへ襲いかかった。




