第32話 顕現
先を行く通路は、白かった。
壁も、床も、天井も。
曲がり角を幾つか過ぎるうちに、警報は殆ど聞こえなくなった。
代わりに、どこからか水の音が聞こえてくる。
天使さんを抱え直す。
「重くない?」
「話す余裕があるなら、呼吸を整えてください」
天使さんが少しむくれた表情をする。
「……それ、返事になってない」
「落としませんから」
彼女が、黙った。
少しして、肩へ回された手の力が緩んだ。
白い通路をどれくらい進んだのだろう。
白い風景が感覚が麻痺させてきた。
通路の先に色がついた。
鈍色のドアに、これほど心安まることは、これから先の人生でそうないだろう。
広い部屋。
ここも、白かった。
少し目眩がしたが、床材は灰色、壁の所々に棚、中央に、噴水があったのが救いだと感じた。
低く噴き上がった水が、浅い水盤へ落ちている。
そこから細い水路が幾つも伸び、床を区切るように部屋の各所へ続いていた。
研究所の地下とは、思えなかった。
けれど、装飾にしては、形が整いすぎている。
水路の曲がり方も、分かれ方も、何かの配置に従っているように見えた。
「……誰か、いる」
天使さんが言った。
噴水の傍には、人影が二つ。
目を凝らすと白衣。
慎重に近づく…それは、グレッダ女史と、李所長だった。
どちらも、後ろ手に縛られ、口にはテープが貼られている。
李所長は、頭を垂れていた。
グレッダ女史は目を細く開け、こちらを見ていた。
「グレッダさん」
僕は天使さんを、噴水の縁へそっと座らせた。
グレッダ女史の前へ膝をつくと、彼女の目が、大きくなった。
何か言おうとしている。
僕はテープの端へ指をかけ、剥がした。
「逃げて!」
声が、部屋に響いた。
直後、耳の奥で高い音と頭の横で何かが触れた。
違う。
触れたのではない。
そこにある空間ごと、締め上げられたようだった。
僕は反射的に身体を反らした。
天使さんの肩を掴み、一緒に引き倒す。
直後、背後で石が砕け、噴水の縁が歪んでいた。
硬いはずの石材が、内側へ巻き込まれるように潰れている。
巨大な手で、握り潰したような跡だった。
縁の破片が床に散らばり、水が溢れる。
謎の現象に、僕は天使さんを庇い、身を伏せた。
今のは、何だ?どこから来た。
飛んでくるものは、見えなかった。
機械が動く音もなかった。
……次は、どこを狙われる。
周囲に警戒を配る。
入ってきた扉の反対側に、誰かいる。
白い服。
褐色の肌。
不揃いの黒髪。
…マリアだった。
冷たい視線がこちらに向けられていた。
まさか、彼女がこれを…?
「れい!」
マリアは僕と目が合うと、ぱっと顔を明るくした。
手を振る。
見つけたことを、心から喜んでいる様子だった。
僕は、口を開いた。
声が出なかった。
噴水を見る。
マリアを見る。
その間を繋ぐものを、頭が拒んだ。
「れい、どうしたの?」
彼女が駆け寄ってくる。
周囲の景色が、揺れた。
白い壁の線が曲がる。
水路の向こうが、ずれて見える。
マリアの身体の周りだけ、空間の形が違っていた。
僕は天使さんを抱き寄せ、後ろへ下がった。
マリアの足が止まる。
不思議そうな顔をした。
「れい?」
「間久部くん…」
「……マリア」
ようやく、声になった。
彼女が頷く。
いつもと同じように。
「うん」
「今、何をしたのですか」
マリアは、首を傾けた。
僕はグレッダ女史へ顔を向けた。
「…何があったんですか?」
「分からない……」
「彼女は…何なんですか」
「私にも、こんなことは――」
「あなたたちが、ここで何をしていたのかと聞いているんです!」
声が、抑えられなかった。
円柱。
その中にいたもの。
天使さんの、息のない顔。
全部が、一度に戻ってきた。
グレッダ女史が唇を噛んだ。
答える前に、別の声がした。
「わるいこ、なの」
マリアだった。
僕は彼女を見た。
マリアはグレッダ女史を指差した。
それから、気を失った李所長へ指を向ける。
「グレッダと、リー。わるいこ」
「……どういうことですか」
「わるいこは、おしおきするの」
教わったことを、僕へ教えるような口調だった。
難しいことではない。
どうして分からないのか。
そんな顔だった。
「誰が、そう言ったのですか」
マリアは答えなかった。
僕の後ろにいる天使さんへ目を向ける。
次に、僕が彼女を庇っている腕を見る。
眉が、少し寄った。
「れい、こっち」
「マリア。話を聞いてください」
「そこ、だめ」
手が上がった。
耳鳴りが、戻ってきた。
さっきより、強かった。
僕の足元で、水が不自然に盛り上がる。
噴水の潰れた縁が、頭に浮かんだ。
あれが、次は僕たちに起きる。
立ち上がるには、遅い。
天使さんを抱えて、横へ………どっちへ?
範囲が分からない。
目に見えないものを、どう避ける。
何か、手があるはずだ。
視界にあるものを拾う。
石の破片。
水路。
倒れた人間。
壁。
どれも、間に合わない。
僕は天使さんを、さらに身体の下へ引き寄せた。
「間久部くん――」
その声まで、歪んで聞こえた。
空間が爆ぜようとする中、腰の辺りが、熱くなったのを感じた。
最初は、何かが刺さったのかと思った。
けれど、痛みではなかった。
服の内側。
ずっと持たされていた、お守りのある場所。
そこから熱が広がっていた。
空間が歪みむ耳鳴りの中、声が混じった。
『名を』
僕は顔を上げ、周囲を見渡す。
誰も、そんなことは言っていなかった。
マリアの唇は閉じている。
天使さんは、僕を見ていた。
もう一度、声がした。
今度は、耳からではなかった。
頭の中で、直接、言葉になった。
『呼んで』
何を?誰の名を?
頭の中に、知らない音が浮かんだ。
教わった覚えはない。
読んだ覚えもない。
それなのに、次に続く音だけは分かった。
ひとつ。
また、ひとつ。
言葉の切れ端が、繋がっていく。
考えて選んだのではなかった。
ただ、繋がった言葉に意味がある、そう感じることができた。
「……ウンディーネ」
口から放たれた言葉で、水路の水が跳ねる。
まだ、繋がっている?
「セ・シ・ル……?」
妙に口にしづらかった。
前の言葉より、発音しづらい、一言一言がとても重く低く感じられた。
誰かの名前だったのだろうか?
言い終えると目の前な眩い光に包まれた。
思わず目を閉じてしまうが、耳鳴りが止み、辺りの歪みも消えた。
いや。
戻ったのだ。
水の流れ落ちる音。
天使さんの息。
自分の鼓動。
全てがハッキリと聞こえた。
何があったのか、目を開くと目に止まったのは、水色の流れる髪。
僕とマリアの間に、誰かが立っていた。
騎士?
少し後ろに下がって現れた人物を見て、最初に浮かんだ言葉はそれだった。
甲冑を纏っている。
淡い光を帯びた金属が、肩から腕へ、胸から腰へと重なっていた。
右手には、大剣。
大振りの刀身が、床へ触れる寸前で止まっている。
左手には、身の丈ほどもある大楯。
その表面を、水が流れていた。
どこから湧いているのか分からない。
楯の縁を伝った雫は、床へ落ちる前にほどけ、光のように消えていた。
ふと、視線を上げると、僕たちの頭上で景色が歪んでいる。
この騎士が目に見えない何かを、押し留めているのだろうか。
騎士が盾を持つ手を僅かに押し出す。
音はしなかった。
ただ、絡まっていたものが解けるように、景色の歪みが霧散した。
マリアは上げた手を、そのままに目を見開いていた。
僕の腕の中で、天使さんも動かなかった。
グレッダ女史が、何か呟いたが聞こえなかった。
騎士がこちらを振り返る。
水色の長い髪が、肩を滑る。
見たことのない顔だった。
整った、美しい顔。
けれど、その目が僕を捉えた瞬間、初めて会った相手を見る目ではないように感じた。
上から下まで、何かを確かめるように、僕を見た。
何かに気づいたように、表情を和らげた。
騎士は大剣を床に突き刺し、僕の前で片膝をついた。
大楯は、マリアとの間を塞いだままだった。
甲冑が、静かに鳴った。
状況が読めず、何も言えないでいる僕に、騎士は頭を垂れる。
「今世の主様」
澄んだ声だった。
水の流れ落ちる中でも、はっきりと届いた。
「古の盟約の下、馳せ参じました」




