第31話 先へ
喉の奥で、息が引っかかった。
声にはならなかった。
ガラスへ手をつく。
冷たかった。
その向こうで、天使さんの髪が揺れていた。
眠っている。
そう考えた。
すぐに、それでは説明できないことが幾つも浮かぶ。
液体の中だ。
呼吸を補助するものは見えない。
どれほどの時間、ここにいた。
店を出てから。
僕が待っている間。
あの通りを、もう一度だけと歩いていた間。
頭が、勝手に計算を始めた。
やめろ。
分からないことを、分からないまま結びつけるな。
これは、ただの水ではないかもしれない。
人工霊体を作る研究所だ。僕の知らない方法で、身体を維持している可能性がある。
ならば、どうすればいい。
壊す。
ガラスを割って、外へ出す。
握りしめた工具を振りかぶる手を止めた。
その瞬間に、何かが止まったら?
この液体の中にいることで保たれているものが、外へ出した途端に失われたら。
僕は握った拳を、ガラスへ当てた。
振り下ろせなかった。
天使さんの身体が、ゆっくりと沈んだ。
顎が少し下がる。
髪が頬へかかる。
笑った顔を、思い出そうとした。
昨日、台の上から僕を見つけたとき。
朝食の皿を覗き込んでいたとき。
学校の廊下で、こちらへ歩いてきたとき。
知っている。
幾つも、知っているはずだった。
なのに、今は、目を閉じたこの顔しか浮かばなかった。
「麗。下がれ」
肩を引かれ、身体が円柱の前から退く。
八神が手を伸ばした。
何をしたのか、見えなかったが、ガラスから細い音がした。
次の瞬間、円柱の前面が砕けた。
液体が押し寄せる。
靴へ。
膝へ。
その中に、天使さんがいた。
考えるより先に、腕が動いた。
流れ出した身体を抱き止める。
重さに足が滑り、僕は膝をついた。
「天使さん!」
返事はなかった。
顔へかかった髪を払う。
「……天使さん!!」
息が、触れなかった。
八神が傍へ屈み、首元へ指を当てた。
その目が、細くなる。
僕も、抱えている身体を確かめようとした。
動いていない。
呼吸も。
鼓動も。
自分の手が震えていて、何を感じ取れているのかも分からなかった。
彼女の顔に、血の気がなかった。
こんな顔をした人を、僕は知らない。
僕の知っている天使さんは、もっと――。
頬に、衝撃が襲い、視界が横へ流れた。
「呆けるな!思考を絶やすな!」
八神の声が、部屋に響いた。
僕は顔を戻した。
「寝かせろ。手を動かせ!天才」
床へ、そっと下ろす。
八神がコートを広げ、必要なところを空けて身体を覆った。
「救急法。やり方はわかるな!?」
短く支持する八神に僕は頷いた。
できる。
知っている。
習ったこともある。
頭の中に並んでいるだけだった知識へ、必死に手を伸ばした。
気道を確保する。
息を送る。
胸の動きを見る。
胸へ手を置く。
圧迫する。
戻す。
数える。
息を送る。
また、手を戻す。
何度、繰り返しただろう。
分からなかった。
床を流れる液体が、ズボンへ染みてくる。
頬が熱い。
腕が痛い。
何一つ、今は意味がなかった。
息をしてほしい。
それだけだった。
まだ謝っていない。
まだ、何も言っていない。
言わなければならないことは、ほかにもあった気がする。
けれど、今はただ…戻ってきてください。
僕は、声に出さずに繰り返した。
手を動かした。
繰り返した。
指が、動くのを見た。
僕の手ではない。
床へ置かれていた天使さんの指先が、僅かに曲がったのを見た。
続いて、喉が鳴った。
「待て」
八神が、僕の手を止める。
天使さんの身体が、大きく震えた。
咳が出た。
一度。
それから、何度も。
八神と一緒に身体の向きを変える。
苦しそうに咳き込み、息を吸おうとしている。
僕は、その音を聞いていた。
それが、どれほどありがたい音なのか、初めて知った。
「……山は超えたな」
八神が言った。
肩が、僅かに下がった。
僕は頷こうとして、うまくできなかった。
「天使さん」
声が、掠れた。
「聞こえますか。天使さん」
瞼が震えた。
薄く、目が開く。
焦点の合わない視線が、僕の顔の辺りをさまよった。
「……まぐべ、くん?」
僕は、息を吸った。
吸ったはずなのに、途中で詰まった。
「はい」
「……ごご、どこ」
言葉の間に、咳が混じる。
八神が身体を支え、コートを掛け直した。
「無理に話さなくていい。まず、息を整えたまえ」
「さむ……」
天使さんの手が、胸元の布を掴んだ。
そこで、自分の状態に気づいたらしい。
目が、少し大きくなった。
僕を見る。
手が上がり拳が、僕の肩に当たった。
いつもの力はなかった。
ただ、確かに叩かれた。
「……見ないで」
「すみません」
僕は顔を背けた。
そのまま、シャツのボタンへ手をかける。
指がうまく動かなかった。
二つ目を外すのに、やけに時間がかかった。
「これを、使ってください」
シャツを差し出す。
八神が受け取り、天使さんへ渡した。
僕は円柱のほうを向いていた。
割れたガラス。
流れ続ける液体。
彼女が、さっきまでいた場所。
もう、そこにはいない。
後ろにいる。
咳が聞こえる。
僕は、それを何度も確かめた。
「……もう、いいよ」
振り向くと、天使さんは僕のシャツを着ていた。
その上から八神のコートを掛け、床へ座っている。
まだ顔色は悪く、身体の震えも止まっていなかった。
袖口へ、目を落とす。
泥がついていた。
肩にも、裾にも。
彼女の指が、その汚れへ触れた。
「これ……どうしたの」
「少し、汚れました」
「少しじゃ、ないでしょ」
僕は答えなかった。
天使さんが顔を上げる。
髪。
頬。
剥がれかけたガーゼ。
順に見られた。
「……らしくないね?」
喉が動いた。
「案外早く見つかりましたよ」
嘘だった。
けれど、今、何をどう話せばよいのか分からなかった。
天使さんは、しばらく僕を見ていた。
やがて、視線を落とした。
「……そっか」
それ以上は、聞かなかった。
僕は、まだ謝れなかった。
代わりに、コートの裾が床の水へ触れないよう、少し持ち上げた。
「さて」
八神が、僕たちを見下ろした。
「話の続きは、ここを出てからにしてもらおうか」
顔を上げると円柱が並んでいる。
その中に、今も幾つもの身体があった。
天使さんがそれを見て、息を止めた。
「……何、これ」
「僕にも、まだ分かりません」
八神は、部屋の奥へ目を向けた。
「麗…翼くんも確保した…この状況…どうする?」
「どうするって……」
僕は、入ってきた扉を見た。
階段を上がる。
地上へ出る。
天使さんを病院へ連れていく。
そのあとは、ホテルへ戻り、荷物をまとめればよい。
依頼など、続ける必要はない。
帰ろうと思えば、帰れる。
この地下で何をしていたのか。
なぜ、天使さんが連れてこられたのか。
それを、ほかの誰かへ任せることもできる。
けれど。
白いワンピースが、頭に浮かんだ。
マリア。
あの子は、どこにいるのだろう。
グレッダ女史と一緒だろうか。
温かい部屋で、食事を取れただろうか。
それとも……
僕は、隣の円柱を見た。
見たくなかった。
「……マリアがいます」
八神は頷いた。
「そうだな」
「置いてはいけません」
それだけは、はっきりしていた。
自分でも分からない気持ちや、答えの出ない疑問とは違った。
あの子を、ここに残して帰る。
その選択だけは、できなかった。
袖を引かれた。
天使さんが、僕を見ていた。
「あの子も、ここにいるの?」
「分かりません。ですが、研究所で暮らしていると」
「……だったら」
彼女は、ゆっくりと頷いた。
「確かめないとね…っ痛!」
立ち上がろうとして、顔をしかめる。
僕はすぐに肩を支えた。
「無理はしないでください」
「分かってる。まだ、ちょっと……力、入らないだけ」
八神が、彼女の呼吸を額、次に胸元に指を置き、何か呟いた。
「…気休めの呪いだ。外へ出たら、そのまま医者へ渡す。歩けるつもりでも、今は無理をするな」
天使さんは、小さく頷いた。
僕は八神へ向き直った。
「進みます」
「そうか」
八神が、部屋の奥へ顔を向ける。
「まあ、君が拒否しても、私は行くがな」
「……聞いた意味は?」
「君の意思は、聞いておくべきだろう」
反論しかけたとき、足元で何かが震えた。
低い音。
円柱の一つが、揺れていた。
次の瞬間、警報が鳴った。赤い光が、天井を走った。
耳に刺さる音が、繰り返される。
円柱の中で、液面が下がり始めた。
一本だけではなかった。
部屋の奥でも。
横でも。
僕たちの背後でも。
水が吸い込まれる音が、幾重にも重なった。
牛の頭が、持ち上がった。
虎の身体が、四肢を伸ばす。
瞼が、開いた。
こちらを見た。
僕は天使さんを、自分の後ろへ引いた。
ガラスへ、何かがぶつかった。
一度。
二度目で、ひびが走った。
三度目の音は、砕ける音だった。
異形が、円柱の外へ降り立つ。
濡れた足が床を打ち、鼻先から白い息が漏れた。
獣の声がした。
一種類の動物の声ではなかった。
唸り声に、低い鳴き声が重なっている。
喉のどこで、そんな音を作っているのか分からなかった。
別の円柱も割れた。
ライオンが牙を剥く。
その隣で山羊の頭が、違う方向を見る。
蛇の尾が、持ち上がった。
入口へ戻ろうとして、足が止まった。
そちらにも、いた。
僕たちを挟むように、濡れた身体が動いていた。
「八神さん」
「伏せろ」
声に従い、天使さんを抱えて身を低くした。
頭上を、白い光が通った。
八神の手に、曲剣があった。
細く、冷たい輝き。
霧氷月影。
一閃のあとを追うように、床が白く染まった。
水が凍る。
獣の脚が止まる。
氷は一瞬で身体を駆け上がり、開いた顎も、振り上げた爪も、そのまま閉じ込めた。
雄叫びが、途切れた。
音のなくなった部屋に、警報だけが残った。
「走れ!」
脅威が去ったと安堵する束の間、八神が叫んだ。
反射的に僕は天使さんの背と膝の裏へ腕を回した。
「掴まってください」
彼女が、僕の肩へ手をかけ、立ち上がり、走った。
凍った異形の間を抜ける。
床は濡れ、ところどころ凍っていた。
足を取られそうになるたび、重心を戻した。
天使さんの呼吸が、耳元にあった。
止まっていない。
今は、それだけを確かめた。
部屋の奥に、出口が見えた。
そこへ向かう。
背後で、硬い音がした。
ガラスではなかった。
氷だった。
振り返りかける。
「前を見ろ!」
八神の声が飛んだ。
僕は足を止めなかった。
背後から、また獣の声がした。
凍ったはずのものが、動いている。
氷の破片が床を滑り、僕の靴の先を掠めた。
出口を越えた。
通路へ出る。
そこで身体を返し、八神を待った。
八神は、出口の手前にいた。
こちらへ来ようとしていなかった。
背後で、凍った身体が次々に自由を取り戻している。
異形の一体が跳んだ。
八神が身をずらす。
濡れた爪が、床を削った。
「八神さん!」
目が合った。
八神は笑い、曲剣を乱雑に振るう。
今通った出口が、白く染まり、氷が、こちらまでせり出してきた。
壁から壁へ。
床から天井へ。
分厚い氷塊が、隙間なく出口を塞いだ。
慌てて出口から大きく後ろへ下がったことで、巻き込まれることはなかった。
警報がけたたましくなり続けている。
「八神さん!」
叫んだ。
声が、こちら側で跳ね返った。
透明な氷の向こうに、八神が見えた。
剣を振るい、術を発現させ、襲いかかる異形をいなしているが、余裕綽々の普段の攻勢とは違って見えた。
口が動く。
『行ってこい』
そう、読めた。
続いて、もう一言、何かを言ったが、その肩越しに、黒い影が迫りら八神の姿が、横へ消えた。
白い閃きだけが、氷の奥を走った。
「……間久部くん」
天使さんが、僕の肩を掴んだ。
「……行きましょう」
僕は氷を見た。
割れるかどうか、考えかけた。
考えるまでもなかった。
僕がここを開けて、何になる。
向こうには八神がいる。
僕の腕の中には、天使さんがいる。
託されたものを取り違えてはいけない。
僕は、氷から背を向け、その先へと歩んでいことにした。




