第30話 夜の研究所
零時。
車を降りた僕は、目の前の建物を見上げた。
白い壁。
ガラス張りの正面。
照明を落とされたロビー。
何度も出入りした入口だった。
「……ここ、ですか」
スラップス社の研究所。
八神は頷いた。
「間違いないな」
「天使さんが、ここに?」
「そのはずだ」
どっちだよ。
八神が、正面へ歩き出した。
僕は慌ててコートの袖を掴んだ。
「待ってください」
「今度は何だ」
不満気な八神の身体ごと止める。
「そのまま入るつもりですか」
「我々の仕事先だろう。入館証もある」
「そういう問題ではありません」
正面の向こうに、警備員の姿が見えた。
昼間なら、挨拶をして通る場所だった。
「店では、帰ったと聞きました。研究所へ戻るという話は、誰もしていません。もし本当にここにいるのなら、なぜですか」
「入って聞けばよかろう?」
「相手が何を知っているかも分からないのに、僕たちが探していると知らせるのですか」
八神が、僕を見た。
少しだけ、口元が上がる。
嫌な顔だ。
「では?天才くんは、どうするかね」
「……まず、裏へ回りましょう」
言ってから、建物を見上げ直した。
本当に、ここなのだろうか。
今朝、天使さんはここを出た。
そのあと、店へ行き、昼食もスタッフと取っている。
それが、なぜ。
「八神さん。もう一度だけ聞きます。ここだという根拠は」
「星の導きだ」
即答だった。
合法的に人を殴る方法を本気で探したい衝動に駆られた。
僕は息を吐いた。
この問答を続けても、時間しか減らない。
建物の脇へ向かう。
八神は、楽しそうでも、気負っているようでもなかった。
夜の散歩に付き合っているような足取りで、僕の隣を歩いた。
研究所の裏手にも、明かりはあった。
通用口。
搬入口。
窓のない壁面の上には、幾つもの設備が取り付けられている。
時折、巡回の警備員が通った。
そのたびに足を止め、姿が遠ざかるのを待つ。
自分たちの足音が、やけに大きく聞こえた。
八神は何も言わなかった。
僕も、口を開かなかった。
植え込みの脇を抜けようとしたとき、靴の先が何かに引っかかった。
身体が前へ傾く。
何とか踏みとどまり、振り返った。
疲れている。
そう思って足元を見て、動きを止めた。
金属が見えた。
土と落ち葉の間に、平たい取っ手のようなものが埋まっている。
屈んで、周囲を払った。
指先に、まっすぐな継ぎ目が触れた。
「八神さん」
声を落とす。
八神も、そこへ目を向けた。
「ほう」
取っ手へ指をかけ、引いてみる。
だが、動かなかった。
力を入れ直しても、僅かに軋むだけだった。
「どきたまえ」
僕は手を放した。
八神の手には黒い西洋剣が握られていた。
刀身の中を、光が一筋、流れた。
同時に八神が剣を振る。
力を込めたようには見えなかった。
地面に、線が走った。
土と、その下に隠されていた金属がまとめて裂けた。
厚さがどれほどあったのか、分からない。
ただ、そこにあるものの硬さが、剣にとって何の意味も持たないことだけは分かった。
八神が切り離された蓋を脇に寄せる。
蓋の下に、階段があった。
冷たい空気が、顔へ触れた。
地中の湿った匂いに、別の匂いが混じっている。
薬品のような、清掃したばかりの床のような。
僕は、暗い穴を見下ろした。
なぜ、こんな場所に。
そう思った直後、仕事中に見た幾つもの数字が、頭の中で繋がり始めた。
物資の搬入が多かった。
研究所なのだから、当然だと思っていた。
けれど、見せてもらった設備と、そこで使われている量に対して、多すぎるものがあった。
どこかへ運び出されている様子もない。
ならば、保管しているのか。
それにしては、倉庫に当たる建物が見当たらなかった。
気になって、仕事の合間に会計の台帳まで覗いた。
セキュリティはそこまで高くなかったので、色々手直ししたので、許して貰いたいが、渡された閲覧権限の範囲を越えていたことは、言い訳できない。
だが、帳簿に計算の誤差はなかった。
電力も、水も、施設維持費も、支出としてはきちんと記録されていた。
不明な出費が紛れ込んでいたわけではない。
そもそもの前提が違う。
僕が見ていた施設の規模が、違ったのだ。
見せられていない場所の分まで含めて、数字は初めから整っていた。
頻繁に購入されていたものを思い出す。
生理食塩水。
水酸化ナトリウム。
ホルマリン。
研究所にあること自体は、不思議ではない。
使い道も、一つではない。
けれど、納入の頻度と数量が気になったからこそ、覚えていた。
八神が、階段へ足をかけた。
「来るかね」
僕は頷いた。
それ以外の答えはなかった。
階段は、深かった。
途中で折れ曲がり、また下へ続く。
地上の音は、すぐに聞こえなくなった。
代わりに、低い振動が壁を伝わっていた。
空調か、機械か。
同じ音が、途切れず続いている。
僕は手すりへ触れた。
冷たかった。
八神のコートが、少し先を揺れていた。
どれくらい降りたのだろう。
数分経った頃、階段が終わった。
目の前には扉。
金属製の、厚い扉。
壁との隙間も、取っ手も、殆ど見当たらない。
脇にはテンキーの端末があり、表示には十二桁分の入力欄が並んでいた。
僕は立ち止まった。
十二桁。
数字だけだとして、一兆通り。
全部試すなど、考えるだけ無駄だった。
その前に、何らかの制限がかかるだろう。
端末を見て、扉を見た。
八神の剣で、また切れないだろうか。
だが、扉の向こうに何があるか分からない。
すぐ内側に人がいる可能性もある。
では、どうする。
「さて」
八神が前へ出た。
嫌な予感がした。
「八神さん。少し待って――」
指が動いた。
一つ。
次。
さらに、次。
迷いがなかった。
軽い電子音が、続けて鳴る。
僕は、呆れてその手を見ていた。
十二回目の音がした。
次の瞬間、端末の表示が変わった。
扉の奥で、重いものが外れる音がした。
低い振動が、足元へ伝わる。
大きな扉が、ゆっくりと動き始めた。
僕は、八神を見た。
「……何をしたのですか」
八神は笑った。
答えなかった。
扉が開ききる前に、その隙間へ身体を滑り込ませる。
僕は、足早に後を追った。
寒い。
最初に感じたのは、それだった。
汗の残る背中へ、冷気が触れる。
思わず肩を縮めた。
広い部屋だった。
薄い青色の光が、床へ落ちている。
天井は高く、配管が幾重にも走っていた。
機械の作動音と、水の流れるような音が、重なって聞こえる。
円柱が並んでいた。
人の背より高い、ガラス張りの円柱。
一本や二本ではない。
奥まで、幾列も続いている。
中には液体が満たされていた。
その向こうに、何かが見えた。
僕は、最も近いものへ目を向けた。
虎だった。
胴体は。
縞模様のある四肢が、液体の中で力なく曲がっていた。
太い尾が、ゆっくりと揺れる。
首の先にあるのは、牛の頭だった。
角があった。
閉じた瞼。
大きな鼻面。
それが、虎の身体へ繋がっている。
僕は、足を止めた。
作り物。
最初に、そう考えた。
模型か、標本。
何かの展示のために作られたもの。
けれど、皮膚も毛並みも、あまりに生々しかった。
隣の円柱を見る。
黒い牛の身体に、二つの頭があった。
ライオン。
その隣に、山羊。
背後へ伸びた尾の先で、蛇が丸くなっている。
頭の中に、知っている怪物の名前が浮かんだ。
同じではない。
だが、似せようとしているものは分かった。
あるいは。
似てしまったのだろうか。
僕は、もう一つ奥を見た。
人の形をしていた。
腕があり、脚がある。
その上に、頭が二つ。
大きさが違った。
片方がもう片方へ寄り添うように傾き、どちらも目を閉じていた。
胸の奥が、冷たくなった。
頭の数や、身体の形が恐ろしいのではなかった。
ここにあるものは、いずれも、誰かがそうしようとして作ったものに見えた。
揃えられた装置。
管理のための表示。
それぞれに付された番号。
形にするまでに、何をしたのか。
その間、これらは生きていたのか。
今も、生きているのか。
考えたくない問いが、次々に浮かんだ。
資料室で読んだ言葉を思い出す。
命の定義。
魂の定着。
生体との結合。
頁の上では、文字だった。
ここでは、目の前にあった。
喉が動いた。
吐き気を飲み込む。
八神は、黙っていた。
もう、冗談を言うような顔ではなかった。
僕も、何も尋ねなかった。
円柱の間を進む。
靴音が、硬い床に響いた。
どの中身も、目を閉じていた。
眠っているようにも、そうでないようにも見えた。
見続けることができなかった。
だから、視線を逸らした。
別の円柱へ。
その瞬間、頭の中が白くなった。
足が止まる。
機械の音が、遠ざかった。
見覚えのある髪が、液体の中で揺れていた。
閉じた目。
よく知っている、眉の形。
今朝、最後に見たときには、こちらを見ようとしなかった顔。
違う。
そう思った。
違うはずだった。
僕は、ガラスへ近づいた。
服も身につけず、両腕を力なく浮かべている。
呼びかけようとした。
名前が、喉から出てこなかった。
円柱の中にいたのは、天使さんだった




