第29話 彼女の行方
二十三時。
ホテルの入口に、八神が立っていた。
長いコートの裾が、夜風に揺れている。
指の間には煙草があり、細い煙が照明の中を昇っていた。
僕を見つけても、動かなかった。
ただ、最後の一口を味わうように煙を吸い、携帯灰皿へ押しつけた。
「ひどい格好だな」
返事をしようとして、息が詰まった。
膝へ手をつく。
汗が顎から落ち、足元の石に小さな染みを作った。
シャツは背中に貼りついていた。
髪も、袖も、何度直したか分からない。腕のガーゼは端が捲れ、靴には乾きかけた泥がついている。
「ホテルで待つと伝えたはずだが。随分、時間がかかったな」
「……探して、いました」
「見れば分かる。どこを?」
僕は顔を上げた。
「マーケットと、近くの公園を。店の人にも聞いて、通りも、もう一度。高いビルなら周囲を見渡せるかもしれないと思って、上へ行こうとしたのですが」
「それから」
「途中の階にいる可能性もあるので、順に見ようとして。ですが、全部は入れなくて」
説明しながら、見ていない場所が浮かんだ。
あの角の先。
工事中だった通路。
閉まっていた建物の裏側。
「植え込みも、見ました。誰かが物を落として、探しているかもしれません。排水溝も。あの人なら、他人が困っていれば、自分の服が汚れるぐらい――」
「落ち着け、麗」
僕は首を振った。
「分かっています。ですが、まだ見ていない場所が…」
「探す場所を増やす前に、状況を整理したまえ」
「誰かを!助けようとしているのかもしれないでしょう!」
声が大きくなった。
「女性が連れ去られそうになっていたとか、子供が帰れなくなっていたとか。そういうことがあれば、あの人は、考えるより先に行ってしまうんです」
「麗」
「危ないと思っても、放っておけないんです。自分で、余計なところまで入っていって」
そこで、言葉が止まった。
余計なところ。
今朝の自分の声が、頭の中で重なった。
関係ないでしょう。
僕は髪へ手を入れた。
掻き上げても、汗で濡れた髪はすぐに額へ戻ってくる。
考えろ。
何か、見落としている。
見落としていなければ、見つからないはずがない。
「……もう一度、行ってきます」
踵を返した。
「麗」
名前を呼ばれた。
「何ですか!」
振り向いて口を開いた瞬間、何かが放り込まれた。
反射的に飲み込みかける。
喉の手前へ小さな欠片が触れ、僕は激しく咳き込んだ。
……苦い。
そのあとから、甘さが広がった。
「美味いだろう」
八神が、開いた箱を持っていた。
チョコレートだった。
「何を、するんですか……!」
「落ち着けと言っている」
三度目の言葉は、静かだった。
僕は咳を収め、口の中に残ったものを噛んだ。
硬い欠片が砕ける。
濃いカカオの苦味が、舌の上に残った。
八神は箱をしまうと、今度は水筒を取り出した。
一本。
さらに、もう一本。
「コーヒー。紅茶。水もある。オレンジジュースがよければ、こちらだ」
どこに入っていたのか、考える気力もなかった。
「……コーヒーを」
「よろしい」
渡された蓋を開ける。
香りがした。
僕は、まだ少し乱れていた呼吸を整えてから、口をつけた。
飲み下す。
喉が動いたことを、妙にはっきり感じた。
何時間ぶりだろう。
息が漏れた。
もう一口、飲む。
さっきまで頭の中でぶつかり合っていた考えが、少しずつ、別々のものに戻っていった。
見た場所。
まだ見ていない場所。
人から聞いたこと。
僕が勝手に想像したこと。
混ざっていた。
分かっているつもりで、何一つ整理できていなかった。
「……すみません」
「何に対してかね」
「…取り乱していました」
「そうだな」
八神は、否定しなかった。
そのことに、少し救われた。
水筒を持つ手へ目を落とす。
指先が、まだ落ち着かなかった。
「分からないんです」
今度は、声を抑えられた。
「どこを探せばよいのか。何から確かめればいいか」
八神は僕を見た。
それから、ホテルの入口へ顔を向けた。
「行くぞ」
コートが翻った。
ただ、それだけだった。
見つかると言われたわけではない。
大丈夫だと約束されたわけでもない。
なのに、足元が少し確かになった気がした。
この人についていけばよい。
そう思いかけ、僕は唇を結んだ。
任せてしまえば楽だろう。
けれど、僕まで考えるのをやめてよいわけではない。
八神の隣へ並ぶ。
口元に、まだ僅かに煙草の匂いが残っていた。
「八神さん」
「何だ」
「ここ、建物の入口のすぐ傍ですよ。喫煙で罰金を払うつもりですか」
八神が、こちらを見た。
それから、からからと笑った。
「ようやく、調子が戻ってきたな」
*
二十三時三十分。
ホテル側への説明と確認を終え、僕たちは天使さんの部屋の前にいた。
支配人が扉を開ける。
何か分かれば連絡すると八神が告げると、彼は頷いて廊下を戻っていった。
「……勝手に入るのは、どうかと思います」
「今、開けてもらっただろう」
「ホテルの許可の話ではありません。本人の部屋です」
「麗。安否を確かめたいのか、廊下で礼儀について話していたいのか――どちらだ?」
僕は黙った。
八神が部屋へ入る。
「日頃暮らしている部屋を荒らそうというのではない。滞在先の一室だ。必要なところだけ確かめる」
その言葉に続いて、僕も足を踏み入れた。
一人で使うには、広すぎる部屋だった。
大きなベッド。
窓辺の椅子。
壁際の机には、ホテルの案内が一冊置かれている。
ベッドは整えられていた。
クッションの向きまで揃っている。
鞄も、服も、目につく場所にはなかった。
天使さんが朝、ここを出たあとのままなのか。
清掃で整えられたのか。
それすら、僕には分からなかった。
八神は迷わず浴室へ向かった。
「待ってください」
「必要なことだ」
振り向きもしなかった。
僕が入口へ追いつく頃には、洗面台の傍へ屈み込んでいた。
端の隙間へ指を伸ばし、細いものをつまみ上げる。
髪の毛だった。
「……それを、どうするのですか」
「借りる」
八神は指先の一本を眺め、部屋へ戻った。
今度は、懐から小さな瓶を取り出す。
蓋を外す。
黒い液体を、床へ撒いた。
「八神さん!」
「いちいち、うるさいぞ」
「せめて、何か敷いてから――」
言葉が止まった。
黒い水が、動いていた。
床に染み込まず、細く伸びる。
線が枝分かれし、曲がり、互いを避けるように繋がっていく。
文字だった。
読めない。
けれど、偶然できた模様ではなかった。
何かの文章が、床の上で形を成していた。
八神は、その中央へ髪を落とした。
「……この掃除は、誰がするのですか」
「優秀な助手がいると、後始末まで考えずに済むので助かる」
「今、考えてくださいよ」
…洗剤で落ちるのだろうか。
そもそも、水なのか。
染料なのか。
触れてよいものなのかさえ分からない。
八神は僕の懸念を気にも留めず、窓へ向かった。
カーテンを大きく開く。
夜景の向こうに、空が広がっていた。
雲はなかった。
街の明かりの上に、月と幾つかの星が見える。
「運がいい」
八神が呟いた。
「何が――」
問いかけるより先に、八神は床の文字へ目を落としている。
八神が、祝詞を唱え始めた。
低く、長く、言葉が続く。
意味を拾おうとした。
けれど、知っているはずの音が、次の音へ繋がった途端、別のものになってしまう。
耳で聞いているのに、胸の内側が震えた。
窓の外が、歪んだ。
そう見えた。
空を隔てるガラスが揺れたのかと思ったが、夜景は変わらない。
遠くの星だけが、ほんの僅かに位置を変えたようだった。
八神の手に、剣があった。
両刃の西洋剣。
朱色の柄は、獣が顎を開いたような形をしていた。
そこから伸びる刀身は、黒い。
光を映さない闇の中に、細かな輝きだけが浮いている。
一つ、刀身の星が流れた。
刀身の内側を、星が滑っていったように見えたのだ。
自然と息を止めていた。
八神の手が、開く。
剣は落ちなかった。
床に描かれた文字の上へ、ゆっくりと移動する。
宙に留まり、水平のまま回り始めた。
切先が窓へ向く。
次に扉へ。
また、窓へ。
回るたびに、黒い刀身の中で光が煌めいた。
肌が粟立つ。
部屋が狭くなったように感じた。
壁が動いているわけではないのに、見えないものが周囲から押し寄せてくる。
八神が印を結ぶ。
祝詞の最後の一音が、落ちた。
同時に、剣も落ちた。
硬い音。
剣は床へ横たわり、動かなくなった。
張りつめていた空気が、少し緩む。
八神は切先の向きを確かめた。
「こちらだな」
八神は剣を拾い上げ、歩き出す。
僕は、その背中を見た。
「……待ってください」
何だ」
「今ので、終わりですか?」
「終わりだが?」
「剣が落ちた方向へ、行くのですか」
「理解が早いな。行くぞ」
僕は片手で顔を覆った。
今しがた、確かに何かを感じた。
それは否定しない。
けれど。
「人の安否がかかっているときに、明日天気になれのようなことをしないでください」
腕を掴んで、抗議してみせる。
納得いかないものはいかないのだ。
「失礼な。由緒正しい占の呪いだぞ」
「見た目の問題ではありません。方向だけ分かっても、その先には建物も道も幾らでもあるでしょう」
剣の行き先、方角程度がわかったところでなんだというのだ。
僕の不満を聞いても、八神は表情を変えなかった。
「安心したまえ。失せ物探しに恋占い、星を読むのも、我々の得意分野だ」
「今、恋占いの話はしていません」
「知っているとも」
八神は、誇らしげに胸を張った。
僕は床を見た。
黒い文字が、ほどけ始めていた。
細い線へ戻り、瓶の口へ吸い込まれるように消えていく。
「…戻せるのですか」
「なんだ?掃除がしたかったかね?」
「……いいえ」
八神が瓶をしまった。
剣も、いつの間にか見えなくなっている。
僕は、もう一度窓の外を見た。
星は、先ほどと同じ場所にあるように見えた。
ほかに頼れる手掛かりはなかった。
それに、何も考えずに街を走り回っていた僕よりは、少なくとも、行き先を決める理由がある。
納得したわけではない。
そう自分に言い聞かせながら、僕は雇用主の後を追った。




