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間久部くんの受難   作者: Undo
スラップス
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28/47

第28話 不穏

18時。


 個室の扉が開き、天使さんが顔を出した。


「お待たせしました――って、え?」


 挨拶の途中で、足が止まる。


 円卓には、料理が隙間なく並んでいた。

 大皿に盛られた海老。艶のある肉料理。湯気を立てる蒸し魚。その周りを、小さな皿が埋めている。


 新しく運ばれてきた料理を置くために、給仕が既にある皿を少しずつ動かしていた。


「すごい……。これ、全部?」

「我々の夕食だよ。座りたまえ、翼くん」


 八神が、ワイングラスを掲げた。


 足元のワインクーラーには、空になった瓶が二本。

 手元の三本目も、半分ほど減っている。


「お仕事、お疲れさまでした」

「うむ。君もご苦労だった。さあ、冷めないうちに始めよう」

「何かのお祝いですか?」


 八神が笑った。


「感情をどこかへ置き忘れた朴念仁も、一端の男子だったと分かったのでね」


 天使さんが首を傾けた。


 八神の視線を追って、僕を見る。


「……間久部くん?」


 声は聞こえていた。


 けれど、返事をするまでに、少し時間がかかった。


「――はい」

「どうしたの?」

「いえ――」

「疲れた?」

「そういうわけでは……」


 上着は、ホテルに置いてきた。


 少し湿っていた肩の辺りも、もう乾いているはずだった。

 それなのに、手に持ったときの重さや、最後に触れた温かさが、まだ残っているような気がした。


「……間久部くん」

「……はい」

「今、聞いてた?」

「すみません。何でしょう」


 天使さんが椅子を引いた。


 僕の隣に座り、鞄を置く。

 それから、八神へ顔を向けた。


「何があったんですか」

「なに、少々、心を奪われる出来事があっただけだ」

「!!八神さん」


 僕は顔を上げた。


 八神は、楽しそうにグラスを傾けた。


「おや。聞こえていたか」

「余計なことを言わないでください」

「何を余計だと思ったのかね?」


 返事に詰まった。


 名前も、場所も口にしていない。

 グレッダ女史に禁じられたことには触れず、こちらが嫌がるところだけを正確に突いてくる。


「……人を心配していたのです」

「ほう」

「泣いていたので。放っておくわけにもいかなかったでしょう」

「へー」


 今度は、隣から声がした。


 天使さんは、料理を取り分けていた。


「女の子?」

「……なぜ、そうなるのですか」

「違うの?」

「違いませんが」


 箸が止まった。


 ほんの一瞬だった。

 すぐに、天使さんは自分の皿へ料理を移した。


「………そっか」

「何か、誤解していませんか」

「別にー間久部くんも、男の子だったんだなって」


 八神が、喉の奥で笑った。


 僕はそちらを見ないようにした。


「何をおかしなことのように。女性を前にして、多少、緊張することぐらいあります」

「ふぅん」

「正常な反応だと思いますが」

「―――私も、女の子だけど?」


 僕は天使さんを見た。


「知っていますよ」


 彼女は、黙った。


 それから、ゆっくりと僕に背を向け、別の大皿へ手を伸ばした。


「……そう」


 頬が、少し膨らんでいるように見えた。


 何か間違えただろうか。


 天使さんが女性であることは知っている。

 知らないと答えるほうが、おかしいはずだ。


 考えている間にも、彼女の皿には料理が増えていった。


「天使さん」

「何?」

「一度に取りすぎではありませんか」

「食べられるから」

「まだ、口の中に――」

「分かってる!」


 僕は口を閉じた。


 向かいで、八神が新しいワインを頼んだ。


「よい肴だ」


 何の料理について言ったのかは、尋ねなかった。



 翌朝、8時。


 研究所の入口で、僕は天使さんを見た。


「お店の仕事は、よいのですか」

「まだ時間あるし」

「ですが、こちらに来る予定でしたか?」

「仕事のこと、聞いておこうと思って」


 彼女は、僕を見ずに答えた。


 昨夜も、ホテルへ戻るまで、どこか口数が少なかった。

 体調が悪いのか尋ねても、違うと言う。


 今朝は普通に挨拶をした。

 けれど、それで元に戻ったのかどうか、僕には判断できなかった。


「必要なら、担当の方へ連絡しますが」

「そこまでしなくていいよ」

「無断で遅れるのは、よくありません。天使さんらしくもないですし」

「遅れないってば」


 少し、声が強くなった。


 天使さん自身もそれに気づいたのか、唇を結ぶ。

 鞄の持ち手を握り直し、僕から目を逸らした。


「……ちゃんと、行くから」


 何を気にしているのだろう。


 尋ねようとした、そのときだった。


「れい!」


 ロビーの奥から、声がした。


 振り向くと、白いワンピースが揺れていた。

 短い黒髪を弾ませ、マリアが駆けてくる。


 その後ろで、白衣の職員が慌てて何か言った。


 止まる気配はなかった。


「れい、きた!」


 僕は半歩、足を引いた。


 ぶつかるように抱きついてきた身体を、どうにか受け止める。


「おはようございます。マリアさん」

「さん、ちがう」


 顔を上げた彼女が、すぐに眉を寄せた。


「昨日、いったよ」

「……そうでしたね」

「マリア」

「はい。マリア」


 笑顔が戻った。


「れい、おぼえてた?」

「覚えていますよ」

「よかった」


 追いついた職員が、息を整えながらマリアへ声をかける。


 僕も彼女の肩から手を離そうとした。


 そのとき、隣で小さな音がした。


 天使さんが、鞄を持ち替えていた。


 彼女の目が、マリアから僕へ動く。

 何か言いかけたように口が開き、それから閉じた。


「……知り合い?」

「ええ。昨日――」


 言いかけて、止まった。


 会ったことを口外するな。

 グレッダ女史の声が、頭に戻ってくる。


 既に、目の前にいる。

 それでも、どこまで説明してよいのか分からなかった。


 天使さんは、僕の顔を見ていた。


 僕が言葉を探している間に、彼女は短く頷いた。


「…そう」


 その声には、昨夜と同じ響きがあった。


「…私、仕事あるから」

「天使さん?」

「遅れたら、よくないもんね…」


 こちらを見ずに踵を返した。


 僕は、マリアからそっと離れた。


「すみません。少し、待っていてください」

「れい?」


 職員へ目で断り、僕は天使さんを追った。



 研究所の外は、朝から暑かった。


 自動扉を抜けると、冷房で冷えた頬へ湿った空気が触れた。

 天使さんは車寄せを過ぎ、歩道へ向かっていた。


「天使さん」


 追いついて声をかける。


 彼女は、足を止めなかった。


「何?」

「どうしたのですか」

「仕事に行くんだけど」

「それは分かっています。昨日から、様子が変です」


 今度は、止まった。


 振り向いた顔を見て、僕も足を止めた。


「……昨日から?」

「ええ」

「間久部くんは、変じゃないんだ」

「僕が?」

「昨日の夜だって、ずっと上の空だったじゃない」


 それは、否定できなかった。


「そのことは、すみません」

「あの子のこと、考えてたの?」

「それは――」

「昨日、会ったんだよね」


 返事を待つ目だった。


 なぜ、そうまでして知りたいのだろう。

 何を答えれば、この空気が変わるのだろう。


「詳しくは、話せません」

「どうして?」

「そういう約束です」

「名前も?」

「名前は、もう聞いたでしょう」

「…呼び捨てなんだね」


 僕は、ようやく彼女が何を気にしているのか分かった気がした。


「……本人からそう呼ぶようにと言われたので」

「言われたら、そうするんだ」

「…嫌がっている呼び方を続ける理由はないでしょう」


 天使さんは、黙った。


 鞄の持ち手を握る指に、力が入った。


「……私には、何も話せないんだ」

「ですから、約束があるんです。僕一人で決めていいことではないので…」

「別に!…全部教えてって言ってないよ」

「ッッ!…では、何を聞きたいんですか」


 声が、思っていたより硬くなった。


 天使さんの眉が動く。


 僕も、余裕がなくなっていた。


 マリアのことを聞かれると、うまく答えられない。

 隠すべきことと、自分でも説明のつかないことが、頭の中で一緒になる。


 それを、見透かされている気がした。


「…心配してるだけでしょ」

「何をですか」

「だから――」

「僕が誰と話して、どう呼ぶかまで、天使さんには関係ないでしょう」


 言ってから、気づいた。


 天使さんの表情が、止まった。


 怒った顔でも、驚いた顔でもなかった。

 それまでこちらへ向けられていたものが、すっと引いていく。


「……そう」


 短い声だった。


「そうだね。そう。関係なかった」


 彼女は向きを変えた。


「待ってください」


 僕は手を伸ばした。


 その手首を掴んだ瞬間、彼女の身体が動いた。


 腕を返される。

 関節に痛みが走り、反射的に姿勢が崩れた。


 息が詰まる衝撃。


 次の瞬間には、地面が近づいていた。


 何とか受け身を取ったものの、前腕が舗装面を擦った。

 鞄が横へ落ちる。


 天使さんは、僕を見下ろしていた。


 一瞬、何か言おうとしたように見えた。


 僕が身体を起こすより先に、彼女は顔を背けた。


「……仕事、あるから」


 足音が遠ざかった。


 僕は、その背中を追えなかった。


 腕が痛かった。

 それより、さっきの言葉を言う直前まで戻れないことが、腹立たしかった。


「喧嘩かね」


 背後から、声がした。


 八神が、僕の鞄を拾っていた。


「随分と、派手にやられたな」

「……自業自得です」

「そうか」


 差し出された鞄を受け取る。


 八神は、それ以上、尋ねなかった。


     *


 ロビーへ戻ると、マリアは李所長とマイケル氏の傍にいた。


 僕を見つけると笑いかけ、それから顔を曇らせた。


「れい、いたい?」


 駆け寄ってきた彼女の視線が、僕の腕へ落ちる。


 擦れた皮膚に、血が滲んでいた。


「大したことはありません」

「ち、でてる」

「少し、擦っただけですから」


 マリアが、僕の腕へ手を添えた。


 傷を見て、困ったように眉を寄せる。


 それから身を屈め、傷を避けたところへ、そっと唇を触れさせた。


「マリア?」


 彼女が何か呟いた。

 続いて、同じ言葉を繰り返す。


 痛いのが、なくなりますように。


 日本語でも英語でもなかったが、そういう意味だった。


 僕が見ていると、彼女は少し得意そうに笑った。


「おまじない」

「……ありがとうございます」


 胸が落ち着かなかった。


 嬉しいのか、困っているのか、それとも別の何かなのか。

 今は、分けて考えられなかった。


「先に、こちらで処置しましょう」


 マイケル氏が救急用品を持ってきた。


 僕は礼を言い、汚れを落として傷を覆ってもらった。

 予備の滅菌ガーゼを、幾つか渡される。


「濡れたり汚れたりしたら、替えてください」

「ありがとうございます」

「れい、もう、いたくない?」

「ええ。大丈夫です」


 マリアは、ほっとしたように頷いた。


 李所長が、彼女へ声をかける。


「マリア。そろそろ、検査の時間だよ」

「……うん」


 名残惜しそうに、僕の袖を離した。


 職員に付き添われて歩きながら、何度も振り返る。

 僕は、そのたびに小さく頷いた。


 彼女の姿が見えなくなってから、入口を見た。


 天使さんは、もちろん、戻っていなかった。


 そのあとは、いつもどおりに仕事をした。


 資料を読み、分類し、数字を確かめる。

 追加で渡された記録も、午前中のうちに整理した。


 分からないところを尋ねれば、職員は答えてくれた。

 作成した表を見せると、助かったと言われた。


 何も、変わったことはなかった。


 昼になって、八神が僕の机へ来た。


「食事に行こうか」

「僕も、ですか」

「ほかに誰がいる」


 珍しかった。


 付き合わされることはある。

 けれど、仕事の途中で、わざわざ誘いに来ることは少なかった。


 連れていかれた店は、昼食に使うには少し立派だった。

 静かな席へ通され、八神が慣れた様子で注文する。


 料理を待っている間に、入口で会ったドラッグストアの関係者が、僕たちへ挨拶に来た。


「天使さんは、今日は店の者たちと食事に出ていますよ。昨日から、すっかり馴染んでしまって」


 僕は、そこで初めて、肩の力が抜けた。


「そうですか」

「ええ。よく働いてくれて、皆、助かっています」


 礼を言うのも変だと思い、僕はただ頷いた。


 その様子を、八神が見ていた。


 何も言わなかった。


「仕事は、どうだ」


 料理が運ばれてきてから、八神が尋ねた。


「問題ありません。予定されていた分は、明日までに終わります」

「課題の目処も?」

「ええ。提出に使える範囲は、確認が必要ですが」

「それは結構」


 八神は一口、料理を食べた。


 続いて、何でもないことのように言った。


「昨日、彼女。マリアを見つけたときのことだが」

「……その話ですか」

「嫌かね」

「仕事の進捗とは、関係ないでしょう」


 また、からかわれるのだと思った。


 視線を皿へ落とす。


「彼女は、初めから泣いていたのか」

「ええ」

「君が近づいたあとではなく?」

「違います。僕が見つけたときには、もう」


 八神の声には、笑いがなかった。


 僕は顔を上げた。


「床が濡れていたのも、そのときからか」

「そうです」

「何か、持っていたかね」

「手には、何も。本と資料は、近くに落ちていました」

「何を探していたと?」

「本です。ただ、どの本なのかは、本人も分からないようでした」


 八神は、少し考えた。


 その横顔を見て、僕も食事の手を止める。


 質問の向きが、違っていた。


 マリアをどう思ったのか。

 なぜ見惚れたのか。


 聞かれているのは、そういうことではなかった。


「……彼女について、何か分かったのですか」

「君は、何か感じなかったかね」


 僕は昨日の資料室を思い返した。


 物音。

 息遣い。

 棚の向こうにいた少女。


 怯えた目。

 差し出した手から、逃れようとした身体。


「…はっきりとは、言えません」

「曖昧でも構わんよ」

「暗かったのに、顔がよく見えました。照明が点く前からです」


 口にしてみると、些細なことにも思えた。


 光が、どこかから当たっていただけかもしれない。

 目が暗さに慣れていたのかもしれない。


「それから……何かあるかもしれないと思って、警戒して近づいたはずなのに、彼女を見てからは、それを考えなくなっていました」

「ほう」

「ですが、泣いている人を見つけたのですから、不自然とまでは」


 言葉を切った。


 説明は、幾つもつく。

 けれど、説明がつくことと、何もおかしくないことは、同じではない。


「研究所にいる理由も、濡れていた理由も、聞けていません。グレッダ女史の態度も気になります」

「そうだな」

「ただ、それだけです。結論を出せるほど、何も分かっていません」


 八神は頷いた。


 否定もしなかった。

 何かを教えてくれることもなかった。


「八神さんは?」

「私か?さてね、サッパリだ。これから色々とな」

「なら、何を――」

「麗」


 呼ばれて、口を閉じた。


「気をつけたまえ」


 短い言葉だった。


 八神は、それから食事を再開した。


 僕は、しばらく手を動かせなかった。


 何に気をつけるのか。

 誰に気をつけるのか。


 聞けば、また曖昧にされる気がした。


 それでも、普段なら聞き返していたと思う。


 この人が、からかうでもなく、笑うでもなく、僕にそう言った。

 そのことが、妙に重かった。


 食事を終え、席を立つ。


 出口へ向かう途中で、八神が振り返った。


「それと」

「……はい」

「翼くんとは、仲良くすることだ」


 今度こそ、返す言葉がなかった。



13時


 午後の仕事は、あまり覚えていない。


 何を提出したかは分かる。

 どこを修正し、何を確認したかも、聞かれれば答えられる。


 作業に間違いはなかった。

 少なくとも、担当の職員からは、これで問題ないと言われた。


 ただ、気がつくたびに、別のことを考えていた。


 八神の忠告。

 研究所のこと。

 ここで暮らしているという、マリアのこと。


 白衣の大人たちの中にいる、白いワンピースの少女。

 彼女だけ、研究所の時間から取り残されているように見えた。


 窓の外では、業者の車が何台も出入りしていた。


 搬入。

 受け取り。

 書類への署名。


 車体に描かれた社名の中に、見覚えのあるものがあった。


 一つだけではなかった。


 どこで見たのか。

 八神の事務所だったか、仕事で目を通した資料だったか。


 記憶を辿りかけると、別の顔が浮かんだ。


 今朝の、天使さん。


 泣いていただろうか。


 いや、涙は見ていない。


 怒っていたのだろうか。


 腕を返されたときの速さを思えば、怒っていたのかもしれない。

 けれど、最後にこちらを見た顔は、それだけではなかった。


 関係なかった。


 そう言った声が、何度も頭の中で繰り返された。


 関係ないと言ったのは、僕だ。


 放っておいてほしいと思った。

 答えられないことを、聞かれたくなかった。


 だからといって、あの言葉を選ぶ必要はなかった。


 彼女が何を気にしていたのかは、今も分からない。

 自分がなぜ、あれほど感情的になったのかも、うまく説明できない。


 ただ。


 あの人にあの顔をさせたまま、明日も顔を合わせるのは嫌だった。


 僕は時計を見た。


 終業までは、まだ時間がある。


 残っていた資料を引き寄せ、入力を再開した。


15時48分


 終業の1時間前に、その日の仕事はすべて終わった。


 ついでに、翌日の予定分も半分ほど片づいた。


「本当に、ここまで?」


 担当の職員が、画面と僕を見比べる。


「確認をお願いします。問題がなければ、今日は少し早く失礼してもよいでしょうか」

「ええ、もちろん。こちらこそ、助かりました」


 礼を言い、端末を閉じる。


 鞄を持って、研究所を出た。


 明日で、今回の依頼は終わる。

 残りのノルマも、一、二時間あれば片づくはずだった。


 ―――せっかく海外まで来たのだ。


 仕事を終えたあと、少しくらい観光してもよい。

 写真を撮って、店を見て回るぐらいの時間はあるだろう。


 帰国後の勉強もある。

 けれど、その程度なら、あとで取り戻せる。


 その隣に、天使さんがいてもよいと思った。


 彼女なら、僕一人では入らない店へも足を向けるだろう。

 よく分からないものを見つけて、立ち止まる。

 写真を撮ろうと言い、僕まで画面へ入れようとする。


 少し面倒だ。


 それでも、悪くない。


 何と言えばよいだろう。


 まずは、謝ろう。


 余計な説明は、あとでよい。

 関係ないと言ったことを、先に謝る。


 天使さんのことだ。

 こちらの顔を見るなり、投げたことを謝ってくるかもしれない。


 そうなる前に、僕から言えばよい。


 先に謝って、出鼻を挫いてしまおう。

 そうすれば、彼女も今朝の続きのような顔はできないはずだ。


 そこまで考えて、自分が謝罪まで勝ち負けにしようとしていることに気づいた。


 ……………我ながら、面倒な性格だった。



16時27分


 ドラッグストアは、相変わらず繁盛していた。


 入口から客が出てくる。

 入れ違いに、買い物籠を手にした人が中へ入る。


 実演用の台は、片づけられていた。


 僕は店内を覗いたが、天使さんの姿は見えなかった。


 まだ仕事中なのだろう。


 時計を見る。

 約束された終業時刻までは、少しあった。


 早く着きすぎたらしい。


 僕は入口から離れ、人の邪魔にならない場所に立った。


 携帯電話を取り出す。


 『店の前にいます。』


 そこまで打って、消した。


 謝る前に、短い返事で帰るよう言われたら、困る。

 顔を見て話したかった。


 携帯電話をしまう。


 それから、しばらく待った。


17時


 終業時刻になった。


 出てこなかった。


 そんなにきっちり終われる仕事でもないのだろう。

 後片づけや、引き継ぎもある。


 天使さんなら、頼まれる前に手を出す。

 誰かが困っていれば、自分の仕事が終わっていても帰らない。


 もう少し、待つことにした。


18時16分


 道路の向こうで、照明が点いた。

 店の看板が、先ほどより明るく見え始める。


 空の色が変わっていた。


 遅いな、と思った。


 レジの金額が合わないのだろうか。

 在庫の数に不備でもあったのだろうか。


 あるいは、明日で最後だからと、スタッフに食事へ誘われているのかもしれない。


 昼も、一緒に出かけていたと言っていた。


 それなら、仕方がない。


19時5分


 僕は携帯電話を出し、もう一度、時刻を確かめた。


 連絡は、来ていなかった。


 来る理由もない。

 ここで待っていることを、彼女は知らないのだから。


 今度は、短く送った。


『仕事は、まだ終わりませんか?店の前にいます』


 画面を見ていた。


 返事はなかった。


 接客中なら、確認できない。

 作業中でも同じだ。


 僕は携帯電話を伏せた。


 もう少し。


 何か、頼まれているのだろう。


 真面目で、人付き合いがよくて、他人の頼みを簡単には断れない人だ。


 昨日、会ったばかりのスタッフとも、あんなふうに笑っていた。


 だから、遅いだけだ。

 

 きっとそうだ。


 僕は、そう考えた。


 もう少しだけ、待ってみよう。


 店から出てきた客の向こうを、何度も確かめながら。



21時53分


 ホテルの部屋には、静かな音楽が流れていた。


 八神は窓辺の椅子に腰を下ろし、シャンパンのグラスを傾けた。


 ガウンの襟元を緩める。

 眼下には、高層ビルの明かりが幾重にも重なっていた。


 海に映る光が、僅かに揺れている。


 悪くない眺めだった。


 ただ、考えることが少し増えた。


 身体検査。

 体力測定。

 そして、霊能力の検査。


 そうしたものを求めるだけなら、ほかにも適任がいる。


 グレイ。

 サーシャ。


 特定の道具や条件に頼らず、本人の身体能力と霊能力だけを比較するなら、世界の頂点と、その次に位置する二人だ。


 研究対象としても、分かりやすい。


 高い能力があり、それを扱う技術がある。

 検査を頼めば、少なくとも八神よりは真面目に取り組むだろう。


 それでも、この研究所は八神を呼んだ。


 自分が特別であることに、疑いはなかった。


 ただし、その特別さには条件がある。


 三星剣。


 古の神器を手にしたとき、八神は最強であり得る。

 あれらを抜きにして、同じ評価は成り立たない。


 故に、特殊なのだ。


 祓屋の能力を調べたいだけなら、八神でなくてもよかった。


 三星剣を調べたい。

 それは、先方も明言している。


 だが、測定項目を振り返ると、剣だけでも足りない。


 剣を持たないときの八神。

 持っているときの八神。

 力を使う前と、使ったあと。


 欲しかったのは、力の大きさそのものではなく――。


 携帯電話が鳴った。


 八神は、テーブルへ目を向けた。


 画面には、優秀な助手の名前が出ている。


 この時間まで連絡がなかった。

 仲直りに時間をかけているのなら、それはそれで結構なことだと思っていたのだが。


 通話を繋ぐ。


「どうした、麗」


『今、どこにいるんですか!』


 怒号が飛んできた。


 八神は、僅かに携帯電話を耳から離した。


 随分な挨拶だった。


 年長者への口の利き方について、一言ぐらい教えてやろうか。


 そう思ったところで、次の声が聞こえた。


『天使さんが、いなくなりました』


 八神の表情から、笑みが消えた。


 音楽だけが、変わらず流れていた。


「……店の者には、聞いたのか」

『とっくに帰ったと!僕が着くより前に。電話にも出ません。ホテルにも戻っていません』


 声が速い。


 息を整えることすら、忘れているようだった。


 八神は、グラスを持ったまま立ち上がった。


「今、どこだ」


 場所を聞く。

 短く、そこで待つよう告げる。


 通話を終えると、窓の外へ目を向けた。


 先ほどまでと、同じ夜景だった。


 八神は名残惜しそうにそれを眺め、残っていたシャンパンを飲み干した。


「さて。忙しくなるな」


 空のグラスを、テーブルへ置いた。

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