第27話 聖母
その少女は、涙を浮かべていた。
書棚と壁の間に、身を縮めて座っている。
照明の届きにくい場所なのに、なぜか、その顔だけははっきりと見えた。
黒い髪は短く、不揃いに切られていた。
頬にかかる長さも、左右で少し違う。
それでも艶があり、幾筋かが額に貼りついている。
大きな黒い瞳。
光を含んだ黒曜石のような目が、僕を見上げていた。
褐色の肌に、白い無地のワンピース。
どちらの色も、もう片方を際立たせていた。
僕は、懐中電灯を身体の後ろへ下げた。
「大丈夫ですか」
空いている手を差し出す。
少女の肩が、跳ねた。
頭を庇うように両腕を上げ、顔を伏せる。
身体を引こうとした背中が壁に当たり、それでも、さらに小さくなろうとしていた。
僕は手を止めた。
それから、ゆっくり引っ込めた。
まずい。
薄暗い資料室。
壁際で怯える少女。
その前に、懐中電灯を握って立つ僕。
誰かが来たら、どこから説明すればよいのだろう。
最初の一言を間違えれば、その先を聞いてもらえない気がした。
いや。
自分の立場を心配している場合ではない。
少女は、まだ顔を上げなかった。
指先が細かく震えている。
どうすれば、怖がらせずに話ができるだろうか。
こういうとき、身近な人間ならどうするか。
八神の顔が浮かびかけ、即座に除外した。
代わりに思い出したのは、昼食を共にした学友だった。
以前、公園で泣いている小学生を見かけたことがある。
天使さんは、すぐにその子の前へしゃがみ込んだ。
いきなり手を引いたりはしなかった。
無理に顔を上げさせることもなかった。
自分の名前を言う。
相手がこちらを見るまで待つ。
それから、名前を尋ねる。
その間も、ずっと、穏やかな声だった。
僕は懐中電灯を床へ置いた。
両手が空いていることを見せてから、少し距離を残して膝を折る。
目線を合わせる。
急に動かない。
声を低くしすぎない。
こちらが緊張すれば、相手にも伝わる。
落ち着け。
何も、難しいことではないはずだ。
「僕は、間久部麗といいます」
少女の指が、僅かに動いた。
「ここで、仕事をしています。音がしたので、誰かいるのかと思って」
説明が多い。
天使さんは、もっと短く話していた。
僕は一度、口を閉じた。
ここは日本ではない。
相手が日本語を理解するとも限らなかった。
英語に切り替え、もう一度、ゆっくりと名乗る。
「麗です。あなたの名前を、教えてもらえますか」
少女が、腕の隙間からこちらを見た。
目が合う。
僕は、そのまま待った。
急かさない。
質問を重ねない。
頭では分かっていても、沈黙が長くなると、何か言わなければならない気がしてくる。
天使さんは、どうしてあんなに自然にできるのだろう。
少女の腕が、少しずつ下がった。
唇が動く。
「……マリア」
小さな声だった。
僕は聞き返さず、頷いた。
「マリアさん、ですね」
そのとき、頭上の照明が点いた。
奥の列だけ消えていたらしい。
一度、細く瞬いた光が、書棚の間を白く照らす。
少女の顔が、明るく浮かび上がった。
胸が、強く鳴った。
涙を溜めた、大きな瞳。
整った顔立ちの中に、まだあどけなさの残る頬と口元。
眉が不安そうに下がっている。
僕の次の言葉を待つように、唇が僅かに開いていた。
何か、言わなければ。
そう思ったのに、言葉が出なかった。
代わりに、髪から落ちた雫が見えた。
濡れている。
髪だけではなかった。
白い服も水を含み、膝の下には小さな水溜まりができていた。
空調の利いた部屋で、肩が震えている。
僕は慌てて、着ていた上着を脱いだ。
「これを、使ってください」
差し出しかけて、先ほどの反応を思い出す。
手を止め、彼女の届く場所へ置いた。
「寒いでしょう。肩に掛けてください」
マリアは上着を見た。
僕を見て、また上着を見る。
「……いいの?」
「ええ」
小さな手が、布をつまんだ。
しばらく確かめるように触れてから、自分の肩へ引き上げる。
少し大きかったのか、片側がずり落ちた。
直そうとする手に合わせて、今度は反対側が落ちる。
僕は手伝いかけ、また止まった。
「前を、持っていれば大丈夫です」
「ここ?」
「はい。そこです」
マリアは両手で襟元を握った。
そして、ほんの少し、息を吐いた。
濡れた子犬が、ようやく雨を避けられる場所へ入ったような仕草だった。
可愛い、と思った。
あまりに素直にそう思ってしまって、次に何を考えればよいのか分からなくなった。
怖がらせたくない。
嫌われたくない。
できれば、泣きやんでほしい。
いや、それは目の前で誰かが泣いていれば、普通に考えることだ。
では、どうして、こんなに鼓動が速いのだろう。
彼女が顔を上げるたび、こちらまで姿勢を正したくなるのは、なぜなのだろう。
一目惚れ?
そんな言葉が浮かんだ。
僕は、頭の中でそれを押し戻した。
判断が早すぎる。
まだ、名前しか知らない。
「お幾つですか」
自分でも、唐突な質問だと思った。
マリアが瞬きをする。
「年齢です。何歳でしょうか」
「じゅうろく」
「十六歳。僕は十七歳です」
それが分かったところで、次に何を言えばよいのか。
「ここには、いつから?どなたかと一緒ですか。それから、えぇっと……何か、好きなものは――」
言いながら、何を聞いているのだと思った。
最後の質問は、今、必要だっただろうか。
マリアは口を開き、閉じた。
どこから答えればよいのか分からないように、目を動かしている。
「すみません。一つずつにします」
「……いっぱい」
「ええ。少し、聞きすぎました」
少しではなかった。
マリアは、僕の顔を見ていた。
まだ涙は残っている。
けれど、先ほどのように顔を隠そうとはしなかった。
「ここに、いるの」
「研究所に、ですか」
「うん。マリア、ここにいる」
言葉を選ぶというより、知っている言葉を一つずつ取り出しているような話し方だった。
「今日は、何をしていたのですか」
「さがしてた」
「何を?」
「ごほん」
本。
僕は周囲を見た。
足元に、数冊の本と、開いたファイルが落ちていた。
彼女が読もうとしたものだろうか。
「どの本か、分かりますか」
「……わかんない」
「表紙の色などは」
「わかんないの」
眉が、また下がった。
僕は慌てて首を振った。
「責めているのではありません。一緒に探せるかと思っただけです」
マリアは、上着の端を握り直した。
「おこってない?」
「怒っていません」
「ほんと?」
「本当です」
彼女は、僕の顔をじっと見た。
確かめられている気がした。
言葉ではなく、顔に答えが書いてあるとでも思っているようだった。
僕は、できるだけ穏やかな表情を作ろうとした。
うまくできているかは、分からない。
マリアが、少し首を傾けた。
「れい」
「はい」
「おかお、へん」
僕は固まった。
彼女の口元が、緩んだ。
小さく、息が漏れる。
そのまま、笑った。
涙の残る目が細くなる。
先ほどまで強張っていた頬が、柔らかく動いた。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
今度は、言い訳が思いつかなかった。
「……緊張しているんです」
「どうして?」
「それは――」
僕が答えに詰まると、マリアはまた笑った。
何がおかしいのか、僕には分からない。
けれど、笑っているのなら、それでよいような気もした。
彼女は少し身じろぎして、お腹の辺りへ手を置いた。
「おなか、すいた」
「食事は、まだですか」
「うん」
「どなたか、呼びましょうか。普段、一緒にいる方は――」
そこで、ようやく、自分が何も確認できていないことに気づいた。
どうして、濡れているのか。
なぜ、一人で泣いていたのか。
どこか痛めていないか。
名前と年齢と、好きなものを聞いている場合ではなかった。
「…マリアさん」
声をかけると、マリアは眉を寄せる。
「マリアだよ。さん、ちがうよ」
「いえ、さんと言うのは、敬称で…」
「けいしよー?」
「ですから…なんと言うか―――!」
なんと説明しようと思案している中、マリアが一気に顔を寄せてきた。
「マ・リ・ア。マリアはマリア。…れい、OK?」
息が頬に、唇にかかる。
鼓動が早くなる。
言葉が出にくくい、なんとかハイと絞り出すと、マリアの顔がパァッと明るくなった。
「そ、それで…どこか痛いところはありませんか?」
「いたい?」
「怪我などは」
「ない」
「そうですか――」
ほっと胸を撫で下ろす僕。
「では、寒くない場所へ――いえ、その前に、ここへ来る途中で何かあったのですか。困っていることがあれば、僕にできることでよければ」
……また、言葉が増えていた。
どうにも調子が出ない。
マリアは、懸命に聞いていた。
途中で口を挟まず、僕が話し終わるまで待っている。
そのことが、なおさら申し訳なかった。
「……ごめんなさい。今のも、一つずつで」
「れい、いっぱい、きくね」
「ふ、普段は、それほどでもないのですが」
彼女が、笑う。
それから、何かを伝えようと口を開いた。
その瞬間、資料室の扉が勢いよく開いた。
「マリア!」
グレッダ女史の声だった。
僕が振り返るより早く、白衣が書棚の間へ入ってきた。
後ろに、助手らしい職員が数人。
そのさらに後ろから、身体に何本もの配線を残した八神が顔を出す。
「そこを退いて!」
グレッダ女史の手が、僕の肩を押した。
僕は姿勢を崩しかけ、棚へ手をつく。
彼女はもう、マリアの前に膝をついていた。
「何をしていたの。こんなに冷えて……」
頬に触れる。
手を取り、腕を確かめる。
次々に身体の状態を確認するその手つきには、慣れと、焦りがあった。
「タオルを。濡れたものは替えます」
助手の一人が、抱えていた布を広げた。
グレッダ女史が自分の白衣を脱ぎ、マリアの肩へ回す。
「…後ろを向いていてください」
僕は慌てて顔を背けた。
助手たちが間に立つ気配がした。
布の擦れる音と、濡れた衣服を受け取る声が続く。
僕は、目の前の背表紙を見ていた。
題名は、頭に入らなかった。
「れいがね」
背後で、マリアが言った。
「これ、くれたの。さむいからって」
短い沈黙があった。
「……ミスタ間久部」
振り向くと、グレッダ女史が僕を見ていた。
マリアは大きな白衣に包まれている。
僕の上着は、助手の腕に掛かっていた。
「ここで、何を?」
「し、資料を見ていました。音がしたので確かめたら、彼女がいて」
嘘は言っていない。
グレッダ女史の視線が、僕の足元へ落ちた。
懐中電灯。
僕は息を呑んだ。
「それは、物音の正体が分からなかったので。彼女に向けたわけでは――」
「何を話しましたか」
「!!…名前と、年齢を。それから、怪我がないかと……本を探していたと聞きました」
答えてから、自分の声が普段より速いことに気づいた。
八神が、僕の顔を見た。
楽しそうに、口元が持ち上がる。
今、その顔をするのはやめてほしかった。
「グレッダ」
マリアが、白衣の袖を引いた。
「れい、おこってない」
「…分かっているわ」
「やさしく、したの」
グレッダ女史が、彼女を見た。
その目つきだけが、僅かに和らいだ。
「ええ。分かったから。先に、身体を温めましょう」
助手へ顔を向ける。
「医務室へ。体温を確認して、着替えと食事の用意を。私も、すぐに行く」
助手たちが頷いた。
マリアが立ち上がる。
白衣の裾が長く、足元へ届きそうだった。
グレッダ女史はそれを確かめてから、僕へ向き直った。
「ここで彼女に会ったことは、口外しないこと」
声は大きくなかった。
けれど、その場の空気が変わった。
「ほかの職員にもです。何を話したか、どこにいたか。あなたから、誰かへ伝えることはしないでください」
なぜですか、と聞きかけた。
その問いが、口から出なかった。
昨日、立ち入り条件を話し合ったときの厳しさとは違っていた。
交渉する余地があるのかどうか、それを確かめることさえ拒むような目だった。
僕は八神を見た。
八神は、口を挟まなかった。
先ほどの笑みだけを消して、グレッダ女史を見ていた。
僕は、頷いた。
「本日の業務と測定はここまでにします。続きは明日、改めて」
彼女は僕たちを交互に見た。
「今日は、もうお帰りいただいて構いません」
「貴方もです、ミスター八神」
帰ってもよい。
そう言われたのに、残るという選択肢はないように聞こえた。
「そうか。では、お言葉に甘えよう」
八神が答えた。
普段どおりの声だった。
それが、かえって少し気になった。
グレッダ女史は一度だけ頷き、助手たちへ進むよう促した。
僕の上着が返される。
受け取った布は、肩の辺りが少し湿っており、ほのかに花の匂いがした。
マリアは助手に付き添われ、扉へ向かった。
グレッダ女史が、その隣を歩く。
何か、言うべきだろうか。
寒くないように。
ちゃんと食事を取ってください。
探していた本は、見つかるとよいですね。
どれも、口にする前に遅くなった。
マリアが扉の前で振り返る。
目が合った。
彼女は一度、グレッダ女史を見た。
それから助手の脇をすり抜けた。
「マリア?」
呼び止める声より先に、小さな足音が近づいてきた。
僕が動く前に、身体へ温かいものが触れた。
マリアが、僕に抱きついていたのだ。
上着を持つ手が、宙で止まる。
彼女は顔を上げた。
「あ、りがと」
片言の、日本語だった。
一音ずつ確かめるように言って、笑う。
僕は、何も返せなかった。
マリアは満足したように腕を離し、待っているグレッダ女史のもとへ戻っていった。
扉を出る前に、もう一度だけ手を振る。
僕は、ようやく少しだけ手を上げた。
扉が閉まった。
鍵の戻る音がした。
僕はしばらく、そこから目を離せなかった。
八神は、助手の横顔を眺めた。
普段なら、何か一つ言えば返事がある。
内容によっては、二つも三つも返ってくる。
今は、こちらの存在すら意識していないようだった。
「麗」
返事はない。
濡れた上着を抱えたまま、閉じた扉を見ている。
八神は少し首を傾けた。
からかうのは簡単だった。
だが、今の顔は、言葉を投げる前にもう少し眺めておきたくもなる。
珍しいものを見た。
そう思いながら視線を下げたところで、床に散らばった本が目に入った。
八神は屈み、一冊を拾い上げた。
聖書だった。
表紙の端が濡れている。
床には幾つもの水滴があり、それが書棚の奥の水溜まりまで続いていた。
開いたままのファイルもある。
その横には、魔術に関する書物。
八神はファイルの上端をつまみ、水から離した。
魂の定着。
生体との結合。
いずれも、昨日の事業説明には出てこなかった言葉だった。
もっとも、それだけなら、驚くことではない。
人工霊体を扱う研究所なのだ。
似た題材へ手を伸ばしていても、不思議はなかった。
ただ。
少女は、濡れていた。
涙を浮かべて。一人で。これらの本の傍にいた。
そして、グレッダは説明を避けた。
八神の脳裏に、先ほどの光景が戻る。
白衣を肩へ回されたとき、マリアの襟元から背中の上部にかけて、印の端が僅かに見えた。
肌に刻まれた、刺青。
全体を見たわけではない。
それでも、線の曲がり方と、文字の置き方には覚えがあった。
八神は、手元の書物へ目を落とした。
表紙を閉じる。
「……ふむ」
低い声が、静かな資料室へ落ちた。
その口元に、薄い笑みが浮かぶ。
まだ、決めつけるには早い。
確かめたいことは、幾つもあった。
だが、退屈な測定に付き合った甲斐は、あったらしい。
八神は本を水のない棚へ置き、立ち上がった。
隣では、助手がようやく自分の上着へ目を落としていた。
その顔を見て、笑みが少し深くなる。
まずは、この少年を現実へ戻す必要がある。
そのあとは、迎えに行く相手が一人。
聞いておきたいことも、調べておきたいこともできた。
八神は垂れ下がった配線を指で持ち上げた。
「さて」
今日の予定を組み直すには、まだ十分な時間があった。




