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間久部くんの受難   作者: Undo
スラップス
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26/47

第26話 青い春

「待ってって、言ったよね!」


 背後から声が飛んできた。


 振り向くより先に、背中へ衝撃が来る。

 肩の辺りを掴まれ、僕は一歩、前へ踏み出した。


「……走ってきたんですか」

「走ってきたよ!」


 天使さんが、息を弾ませていた。


 店の制服の上から鞄を掛けている。

 もう片方の手には、畳んだエプロンが握られていた。


「何で行っちゃうの!?」


「お仕事中でしたので」


「待っててって言ったじゃない!」


「聞こえませんでした」


「目、合ったよね?」


「気のせいです」


「そんなわけないでしょ!」


 正論だった。


 僕は視線を横へ逃がした。


 天使さんが、少し屈んで顔を覗き込んでくる。

 目を逸らすと、今度はそちらへ回ろうとした。


「間久部くん」


「……何ですか」


「何か、怒ってる?」


 その声で、僕は顔を戻した。


 彼女は、さっきとは違う顔をしていた。

 まだ呼吸は少し速いのに、眉だけが不安そうに下がっている。


「怒っていません」


「じゃあ、どうして」


「昼食に行こうと思っただけです」


「私も、一緒に行こうと思ったんだけど」


 返す言葉が、すぐに出てこなかった。


 彼女の指が、僕の肩から離れる。


「……邪魔だった?」

「そういうことではありません」


 少し、返事が早すぎた。


 天使さんが瞬きをする。


 ―顔が熱い。

 …中東は気温以外にも湿度が高いらしいから…熱中症には気をつけないと…


 僕は咳払いをした。


「それより、腕は大丈夫なのですか」


「あ、見てたんだ」


「刃物を使っているところは」


「平気。ほら」


 差し出された腕には、殆ど跡が残っていなかった。


 それが分かっても、先ほど血が滲んだ光景は消えなかった。


「治るからといって、傷つけてよいわけではないでしょう」

「……うん」


 天使さんは、自分の腕へ目を落とした。


「ちゃんと見せたほうが、分かりやすいと思って」


「説明する方法は、ほかにもあるはずです」


「そうだね。午後は、相談してみる」


 素直に頷かれると、今度はこちらが困った。


 もう少し言い返されると思っていた。


 沈黙が落ちた。


 周りの音が嫌に耳を突く。


 店先から人を呼ぶ声が聞こえ、袋を提げた客が僕たちの横を通り過ぎていく。


 その中で、僕たちだけが、次に何を言えばよいのか分からずにいた。


 携帯電話が鳴った。


 画面に表示された名前を見て、嫌な予感がした。


「……はい」


『辛気臭いな麗。休息は有意義に過ごすべきだぞ』


「用件は何ですか」


『随分と、つれないな。若者同士の語らいを邪魔してしまったかな』


 僕は周囲を見た。


 通り。

 店の窓。

 道路の向こう。


 長い金髪は、見当たらなかった。


「…どこにいるのですか」


『?研究所だが?』


「本当に?」


『私にも仕事があるのでね』


 電話の向こうから、誰かが八神を呼ぶ声がした。

 聞き覚えのある、マイケル氏の声だった。


『午後の準備が進んでいる。食事を済ませたら、時間どおりに戻りたまえ。二人で道に迷わないように』


「なぜ、二人だと」


『そうなのか?』


 僕は黙った。


 電話の向こうで、八神が笑った。


『では、よい休息を』


 通話が切れる。


「八神さん?」


「ええ。食事を済ませて、仕事へ戻るようにと」


「そっか…」


 天使さんが、少し考えるように視線を動かした。


「……一緒に食べる?」


「そのつもりで来たのでしょう」


「そうだけど。まだ、聞いてなかったから」


 僕は携帯電話をしまった。


「行きましょう。休憩が終わってしまいます」


 天使さんが頷く。


 今度は、隣を歩き始めた。



 昼食は、通りに面したオープンテラスで取った。


 大きな日除けの下に、小さなテーブルが並んでいる。

 僕たちは軽食と冷たい飲み物を頼み、向かい合わせに座った。


 普段なら、天使さんのほうから話し始める。

 僕が短く返すと、そこからまた別の話が続く。


 今日は、少し違った。


「研究所、どうだった?」


「資料の整理をしていました」


「難しい?」


「そこまで難しいものでは…要は慣れです」

「そっか」


 会話が止まる。


 僕はグラスを持ち上げた。

 氷が、小さく音を立てる。


「……天使さんは?」


「え?」


「お店です。忙しかったのでは」


「あ、うん。最初は説明を聞いて、品出しを教えてもらって。それから、実演を手伝うことになって」


「随分と、進みが早いですね」


「何か、皆、頼むのが上手なんだよね」


 天使さんが少し笑った。


 僕も、何か言おうとした。


 目が合う。


 台の上で向けられた笑顔が、脈絡もなく思い出された。


 僕は視線を皿へ戻した。


「……引き受ける前に、内容は確かめたほうがいいですよ」

「うん」


 いつもなら、大変な剣幕で分かってるよ、とでも返ってきそうだった。

 今日は、その先が続かなかった。


 食事は、おいしかったと思う。


 ただ、食べ終わってから振り返ると、何がどんな味だったのか、少し曖昧だった。


 十五時三十分。


「麗。昼食は、どうだった」

「先ほども聞かれました」

「今度は、味について聞いている」

「おいしかったですよ」

「何が?」

「仕事の邪魔をしないでください」


 八神は、声を立てて笑った。


 作業用の机から少し離れた場所で、椅子に腰掛けている。

 身体のあちこちに計器が取り付けられ、細いコードが装置へ伸びていた。


 午前中の記録を受け、測定方法を変えたらしい。


 今度は、検査中の姿勢や出力の条件を一つずつ確認しながら進めていた。

 八神も、その都度頷いている。


 動かなくてよい検査には、比較的協力的なのかもしれない。


「この状態のまま、もう少しお願いします」


 職員が言った。


「もう少し、とは?」


「あと三分ほど」


「長いな」


 前言を撤回したほうがよさそうだった。


 その一方で、装置を囲む職員たちの声は、時間が経つほど大きくなっていった。


「もう一度、基準値を確認して」


「確認済みです」


「こちらの変化と同期している?」


「いえ、こっちは殆ど動いていません」


「それで、こちらだけ上がるのか……?」


 マイケル氏が画面へ身を寄せる。

 ほかの職員も、次々と集まった。


 僕は入力を続けた。


 少し前、通りがかりの職員に感想を求められた。

 何についてか尋ねると、そこから説明が始まってしまった。


 興味がないわけではない。

 けれど、話が途中から独り言に近くなり、どこで席へ戻ればよいのか分からなくなった。


 同じことが、もう一度起こりそうだった。


 僕は作業中の記録を保存し、立ち上がった。


「少し、席を外します」


「おや。逃げるのか?」


「お手洗いです」


「そうか。ゆっくりしてきたまえ」


 八神は、妙に理解のある顔で頷いた。


 その直後、マイケル氏に姿勢を戻すよう言われ、つまらなさそうに正面を向いた。


 用を済ませたあと、僕は少しだけ廊下を歩いた。


 午前中に案内された場所は、覚えていた。

 作業室の先に、小さな資料室がある。


 担当業務に関連する報告書や、閲覧可能な研究資料が置かれている部屋だった。

 手が空いたときに見てもよいと、説明を受けている。


 扉の横へ入館証をかざすと、短い電子音がした。


 鍵が外れる。


 中は、静かだった。


 窓のない部屋に、書棚が何列も並んでいる。

 天井の照明はついていたが、棚の奥までは光が届かず、背表紙の一部が影に沈んでいた。


 扉が背後で閉まり、鍵の戻る音がした。


 入口の案内を確かめ、業務関連の棚へ向かう。

 人工霊体の運用記録の隣に、生体研究の概要をまとめたファイルがあった。


 引き抜いて、頁を開く。


 生命活動と霊的反応の対応。

 肉体の維持に必要な条件。

 命を、どの時点で命と見なすのか。


 先へ進むと、引用されている文献の種類が変わった。


 魂に関する教義。

 死後の存続についての記録。

 霊体に形と役割を与えるための考察。


 知らない言葉も、多かった。


 けれど、知らないから奇妙なのではない。


 図表と測定値の間に、宗教書から引かれた文章や、儀式の手順を比較した記録が挟まっている。


 科学の資料を読んでいるつもりだった。

 いつの間にか、魔術について調べているような気分になっていた。


 もっとも、その境界を僕が決められるわけでもない。


 現象があり、それを調べている。

 彼らにとっては、初めから同じ仕事なのかもしれなかった。


 次の頁へ指をかけたとき、部屋の奥で音がした。


 何かが、擦れた。


 僕は顔を上げた。


 書棚の間に、人の姿はない。


 少し待つ。


 また、音がした。

 今度は、それに続いて、息を吸うような気配があった。


 僕はファイルを閉じた。


 先客がいたのだろうか。


 この部屋には、鍵がかかっていた。

 だからといって、無人だったとは限らない。入館証を持つ職員が、先に入っていただけかもしれない。


 それなら、何もおかしくはない。


 ただ、僕が入ってきたとき、挨拶もなかった。

 足音も、頁をめくる音も聞こえなかった。


 聞こえるのは、奥で何かを擦る音と、短く途切れる息遣いだけだった。


 入口を振り返る。


 戻って、職員を呼ぶ。

 八神へ連絡する。


 携帯電話へ手を伸ばしかけたとき、喉を詰まらせたような音がした。


 僕の手が止まる。


 誰かが、倒れているのかもしれない。


 けれど、声に似た音を出すものが、必ず人間だとは限らないことも知っていた。


 耳を澄ます。


 すぐ、そこの棚の向こうだった。


 八神が電話に出て、ここへ来るまで待つ。

 その間、何も起こらないだろうか。


 相手が襲ってくるにせよ、助けを必要としているにせよ。


 僕は入口脇の壁へ目を向けた。


 非常用の備品が、まとめて掛けられている。

 その中から、長めの懐中電灯を外した。


 手の中に、重さがあった。


 頼りになるかは、分からない。

 それでも、何も持っていないよりはよかった。


 逆手に握り、腕を身体の脇へ寄せる。


 足音を抑えて、棚の間を進んだ。


 一歩。

 それから、もう一歩。


 紙と、古い接着剤の匂いがした。

 空調の風が、首筋へ冷たく触れる。


 息遣いが、近くなる。


 泣いているようにも聞こえた。


 僕は棚の角で立ち止まった。

 背後へ下がれるだけの距離を残し、声をかける。


「……誰か、いるんですか」


 音が止まった。


 返事はない。


 懐中電灯を握る指に、力が入る。


 僕は、ゆっくりと棚の向こうを覗いた。


 褐色の肌の少女が、そこにいた。


 書棚と壁の間に、身を縮めるように座り込んでいる。


 僕を見上げた目が、大きく見開かれた。


 その目には、涙が浮かんでいた。

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