第25話 心境の変化?
午前7時30分
翌朝、僕と天使さんは忙しかった。
もっとも、目を覚ましたときには、そんな予感は少しもなかった。
身体を起こすと、よく乾いたシーツが滑り落ちた。
厚いカーテンの隙間から朝の光が差し込み、広い部屋の端まで柔らかく照らしている。
昨夜は、食事を終えて部屋へ戻るなり眠ってしまった。
寝るためだけに使うには、明らかに広すぎる部屋だったが、眠り心地に文句はなかった。
身支度を整え、朝食会場へ向かう。
天使さんは、既に席についていた。
僕を見つけると手を振り、それから目の前の皿を少しだけ自分のほうへ引き寄せた。
「おはよう」
「おはようございます。随分としっかりした朝食ですね」
「全部、少しずつだよ?」
皿の数について言ったつもりだった。
果物。
パン。
卵料理。
湯気の立つ小さな蒸籠まである。
「おいしそうだったから、つい」
「そうですか」
僕も料理を取り、向かいに腰を下ろした。
大きな窓の外には、朝の街が広がっていた。
行き交う車を見下ろしながら、温かい料理を食べる。 コーヒーも悪くなかった。
ここまでは、よかった。
食後のカップを置いた直後、二人の女性が僕たちの席へやって来た。
「天使翼さんですね。お迎えに上がりました」
スラップス社の子会社が運営するドラッグストアのスタッフだと名乗った女性たちは、揃いの制服を着ていた。
「先に店舗で説明をいたします。サイズの確認もありますので」
「サイズ?」
「制服です。こちらへどうぞ」
「あ、はい。間久部くん、また後で――」
鞄を持つ。
椅子を戻す。
その間にも、片方の女性はもう通路へ出ていた。
天使さんは慌てて後を追い、振り返りながら僕へ手を振った。
連行、という言葉が浮かんだ。
本人が笑っているので、恐らく違う。
「間久部様」
今度は、僕の横に男性が立っていた。
「研究所までお送りいたします。お車の用意ができております」
昨日の契約は、もう働き始めているらしかった。
午前9時
「重役出勤だな、麗」
研究所へ着くと、先に来ていた八神が言った。
「指定された時間の十分前ですが」
「私は、もっと早かったぞ」
「待つのが嫌なら、同じ車で来ればよかったでしょう」
「君の寝顔を拝見しに行くべきだったかな」
「起こされなくて幸いでした」
八神は楽しそうに笑った。
僕は職員の案内に従い、入館証を受け取った。
施設の利用方法と立ち入り範囲について説明を受けたあと、端末の並ぶ作業室へ通される。
最初の仕事は、治験データの整理と分析だった。
氏名などを除いた記録が、製品ごとにまとめられている。
服用量、使用期間、症状の変化、副作用の報告。
提出された時期も形式も揃っていないそれらを、比較できる形へ整える必要があった。
「まずは、この範囲をお願いします。分類については、こちらの基準に――」
「この二つは、別の症状として扱いますか?」
僕が画面の項目を示すと、担当の職員が説明を止めた。
「表記は異なりますが、同じ分類です」
「分かりました。あと、こちらは観察期間が違いますので、単純に件数だけ比較すると偏ります。期間を揃えた集計も作って構いませんか」
「……ええ。お願いします」
基準さえ分かれば、あとはそれに従えばよかった。
記録の揺れを揃える。
重複を確認する。
数字の食い違う箇所には印をつけ、元の記録への照会が必要なものを分ける。
薬の良し悪しを、僕が決めるわけではない。
判断する人間が、何を根拠にするのか。
その材料を並べ直す仕事だった。
何頁か進めたところで、背後から声がした。
「何か、分からないところはありますか」
「今のところは。確認していただきたい箇所は、こちらへまとめています」
「こちら、というのは?」
「集計表の隣です。全体の傾向は、その次に」
職員は画面を見た。
僕は続きを入力した。
しばらくしても、職員はそこにいた。
「……もう、ここまで?」
「?何か、手順を間違えていましたか?」
「いえ…少し、確認させてください」
席を譲ると、画面を切り替え、元の記録を開き、また集計表へ戻っていた。
確認に時間がかかりそうだったので、僕は手元に残っていた資料へ目を通した。
難しい仕事ではあるのだと思う。
扱う項目が多く、専門用語に似た名称の羅列、見落としが結果に響く。
ただ、筋道ははっきりしていた。
朝食後の頭を動かすには、もう少し歯応えがあってもよかった。
やがて次の資料が渡された。
その表紙を見て、僕の手が止まった。
八神の身体能力測定。
続いて、霊能力に関する検査記録。
「こちらも、比較できる形に整理していただけますか」
職員の声が、少し疲れていた。
頁をめくる。
握力。
走力。
瞬発力。
持久力。
測定時刻まで細かく記載されている。
僕たちが朝食を食べていた頃、この人は既に、随分と忙しくしていたらしい。
最初の数値を見て、単位を確かめた。
次に測定方法を読む。
間違いではないようだった。
握力。垂直跳び。立ち幅跳び。
短時間で終わる種目には、目を疑う数字が並んでいる。
その一方で、持久力を調べる項目には、途中終了の記載があった。
理由の欄を見る。
『本人の申し出による』
その下に、小さく補足があった。
『疲れるので、これ以上は走りたくないとのこと』
僕は一度、目を閉じた。
能力の限界を測った記録と、本人が飽きるまでの時間を測った記録が、同じ表に収まっている。
次の頁は、さらにひどかった。
ESP検査。
透視やテレパシーといった、いわゆる超感覚的知覚を調べるものだ。それに加え、念動力などの検査も行われたらしい。
結果の欄には、同じ文字が並んでいた。
測定不能。
測定不能。
測定不能。
できなかった、という意味ではないようだった。
透視の項目には、指定された対象以外の情報まで回答した、とある。
テレパシーの項目では、課題と無関係な指摘によって検査者が動揺し、継続を中断したと記されていた。
何を言ったのかは、書かれていない。
念動力の項目には、対象物の移動を確認、との記載がある。
ただし、指示された条件での再現には応じず、定量評価に必要な記録を得られなかったらしい。
どこを読んでも、能力より先に性格が見えてくる。
これを、どう分析しろというのだろう。
八神という人物は、測定への協力姿勢に著しい偏りがある。
特に、長時間の拘束と単調な反復に対して――。
そこまで考えて、やめた。
研究資料に悪口を載せるのは、恐らくよくない。
比較には使えない項目を分け、測定条件を揃えた再検査が必要だと記して、資料を脇へ寄せた。
別の仕事へ戻る。
時計を見ると、思っていたより時間が経っていた。
天使さんは、どうしているだろうか。
接客には向いていると思う。
人見知りもしないし、頼まれた仕事を投げ出す性格でもない。
ただ、正しいと思ったことを、その場でそのまま実行するところがある。
商品の説明をしているうちに、客の生活態度まで指導していなければよいのだが。
13時になって、ようやく休憩を告げられた。
「戻りは14時半で大丈夫です」
担当の職員はそう言ったあと、完成した資料へ目を落とした。
「……午後にお願いする分を、用意しておきますので」
僕は礼を言い、端末を閉じた。
天使さんの勤務先は、研究所からそう遠くなかった。
昼食を取る前に、様子だけ見ておこうと思った。
店の場所は、すぐに分かった。
人だかりができていたからだ。
入口の脇に小さな実演用の台が設けられ、その周囲を客が取り囲んでいる。
店名の下には、昨日から見慣れた会社のマークがあった。
「はい、こちらをご覧ください!」
よく通る声だった。
聞き覚えもあった。
嫌な予感がして、人垣の切れ目から中を覗く。
天使さんが立っていた。
店の制服を着て、袖を上げている。
その手に握られているものが、照明を受けて鋭く光った。
刃物だった。
僕が声を出すより先に、それが彼女の腕へ触れた。
白い肌に、細く血が滲む。
人々の間から、悲鳴に似た声が上がった。
「大丈夫です。見ていてくださいね」
天使さんは落ち着いた様子で、脇に控えていたスタッフからチューブを受け取った。
軟膏を傷へ塗り、刃物をスタッフへ返す。
さっきまで見えていた赤い筋が、薄くなった。
彼女が腕の向きを変える。
血は止まり、傷口も、離れた場所からでは見つけにくくなっていた。
一拍遅れて、拍手が起きた。
「詳しい使い方は、こちらのスタッフがご説明します。気になることがあれば、遠慮なく聞いてください!」
天使さんが、隣へ手を差し向けた。
待っていたスタッフが商品を掲げ、別の一人が客へ説明書を配り始める。
スラップス社特製の傷薬。
その実演販売らしかった。
四六のガマか。
思わず、そんな言葉が浮かんだ。
ただし、感心するより先に、店の責任者へ聞きたいことができた。
誰が考えた実演なのか。
そして、なぜ今日来たばかりの人間が、その役を引き受けているのか。
天使さんは拍手に頭を下げていた。
顔を上げ、客の問いかけに頷く。
隣のスタッフが何か言うと、すぐに笑って返した。
数時間前に初めて会った人たちとは思えなかった。
僕が記録の表記を揃えている間に、彼女はもう、この場所に自分の居場所を作っていた。
ふと、学校での天使さんを思い出した。
美人だと思う。
顔立ちが整っているし、姿勢もよい。
制服でも、今の店の衣装でも、人の目を引く。
けれど、彼女が目立つ理由は、それだけではない。
廊下を走る生徒を見つければ声をかける。
揉め事があれば、間に入る。
皆が面倒がって目を逸らしたことにも、本人は大真面目に向き合う。
実直で、裏表がなく、快活な善人。
融通が利かず、空気を読まない、とも言える。
学校でも、よく知られた存在だった。
告白したという生徒の話を、僕でさえ聞いたことがある。
一方で、苦手だと言う人間もいた。
いつでも正面から向き合われるのは、疲れる。
見逃してほしいことを見逃さず、放っておいてほしいときにも手を伸ばしてくる。
僕も、その手を何度も振り払おうとした。
今、台の上にいる彼女も、きっと同じなのだろう。
任された仕事を、精いっぱいやっている。
ただ、頑張る方向については、一度、誰かと相談したほうがよいと思う。
客がまた増えた。
僕は邪魔にならないよう、少し横へずれた。
そのまま、しばらく眺めていた。
天使さんが商品を手渡す。
客が笑い、彼女も笑う。
声も、仕草も、よく届いていた。
心配する必要は、あまりなかったのかもしれない。
刃物については、後で確認するとして。
少なくとも、人付き合いに関して、僕が彼女へ助言できることはなさそうだった。
昼食は、一人で済ませよう。
そう考えて身体の向きを変えかけたとき、天使さんと目が合った。
彼女が、僕を見つけた。
ほんの一瞬、驚いた顔になる。
それから、笑った。
さっきまで客に向けていた笑顔とは、違っていた。
頬が緩み、目元まで嬉しそうに細くなる。
僕がそこにいるという、それだけのことで。
胸の奥が、不意に強く鳴った。
天使さんの唇が動く。
ま。
っ。
て。
て。
声は届かなかった。
意味は、分かった。
彼女は隣のスタッフへ何か伝えると、台の奥へ引っ込んだ。
僕は、足元へ目を落とした。
人通りの邪魔になる。
ここに立っている理由は、それほどない。
何となく、落ち着かなかった。
僕は人垣を離れ、マーケットのほうへ歩き出した。




