第24話 科学とオカルトと
僕は額に手を当てた。
天使さんの口元にも、何とも言えない笑みが浮かんでいる。
「……報酬、ですか」
「うむ」
「そちらは、最後の頁に記載しております。実務に対する費用と、今回の測定、観測への協力費です」
李所長が説明する。
八神は、その頁を開いたまま、机の上へ置いた。
「これで、どこまで分かるつもりだ?」
「どこまで、と言いますと」
「一度測って、それで終わりか。それとも、この計画を前へ進めるまで、私に付き合ってもらいたいのか」
李所長が、一瞬、言葉を止めた。
「今回の結果によっては、継続してご協力をお願いしたいと考えています。もちろん、その際には改めて条件を――」
「では、先に聞いておこう。君たちは、何を見たら十分だと判断する?」
誰も、すぐには答えなかった。
八神の指が、資料の端を軽く叩く。
「出力を測る。形が保たれているか確かめる」「それだけでは、維持の仕組みまでは分からんだろう。次は条件を変えたくなる。その次は、中を知りたくなる」
マイケル氏が、僅かに口を開いた。
八神は、そちらへ目を向ける。
「違うかね?」
「……研究としては、そのとおりです」
「では、君たちが何を求めているのか、互いにはっきりさせておこう」
浅く息を吐く。
その手に、剣があった。
取り出した瞬間を、見ていない。
つい先ほどまで資料に添えられていたはずの手が、今は袋に包まれた一振りを握っていた。
袋の端がハラリとはだけ、柄頭から鯉口と刀身が覗く。
陽光覇剣。
現れた刀身は、ごく僅かだった。
それだけで、背筋が強張った。
空調の音は聞こえていた。
窓の外では、何も変わらず木々が揺れている。
けれど、意識をそちらへ向けられない。
磨かれた机の上に、細い光が落ちた。
暖かな色だった。
その暖かさに気を許せないことを、僕の身体は知っていた。
マイケル氏が息を呑む。
グレッダ女史のペン先が、紙の途中で止まった。
八神が、剣の角度を僅かに変える。
「八神さん」
僕は、なるべく普段どおりの声を出した。
「悪ふざけが過ぎます」
「実物があったほうが、話が早かろう」
「場所を考えてください」
「そうですよ。どこから出したんですか」
天使さんも、眉を寄せていた。
八神は僕たちを見比べ、つまらなさそうに唇を曲げた。
「少しぐらい、格好をつけさせてくれてもいいだろうに」
袋がひとりでに剣を包む。
小さな音がした。
そこで初めて、自分の呼吸が浅くなっていたことに気づいた。
八神が剣を脇へ下ろす。
その動きを目で追ったはずなのに、次に見たときには、もう何も持っていなかった。
向かいの三人は、しばらく動かなかった。
「今のが……」
最初に口を開いたのは、マイケル氏だった。
「どれほどの時間、維持できるのですか」
「調べたことはないな」
「外部からの供給は?」
「ないぞ。私と剣のものだけだ」
「展開時と収容時で、消費は変わるのですか。それから、今、どこへ――」
「マイケル」
グレッダ女史が止めた。
「測定していないわ。まず、観測できる条件を整えないと」
「分かっている。だが、あれだけのものが、あの大きさに収まっている。もし、その構造を比較できれば――」
言いかけて、自分の資料へ目を落とす。
大きな手が、頁を何枚もめくった。
「当初の測定項目だけでは足りません。維持時間を追う必要がある」
「それと、出力を変えたときの状態も。可能なら、生成から収容までの過程を、繰り返し」
李所長の目つきが変わった。
「現在の設備で、対応できますか」
「調整は必要でしょう。しかし、調べる価値はあります。今の問題に、別の方向から手をつけられるかもしれない」
そこには、先ほどまでとは違う熱があった。
成功が約束されたわけではない。
何が分かるかさえ、まだ確かではない。
それでも、同じところを回り続けていた人間が、初めて別の道を見つけたような勢いがあった。
八神は、その様子を眺めていた。
「さて。今、増えた分だが」
机の上から白紙を一枚引き寄せる。
ペンを借り、数字を書きつけた。
「私の時間と、これを扱う手間を買うなら、この程度は見てもらおうか」
紙が、机の中央を滑った。
李所長が見下ろす。
マイケル氏が覗き込み、グレッダ女史も目を向けた。
三人とも、黙った。
僕も横から数字を見た。
念のため、桁を数える。
「……八神さん」
「何かね」
「やりすぎです……」
「そうか?」
「少なくとも、その場で判断していただける額ではないかと」
八神は、先ほど読んでいた研究計画を指した。
「こちらには、もっと大きな数字が並んでいたが」
「成功後の経済効果と、今使える研究費を一緒にしないでください」
「君は、先方の会計担当だったかな」
「同席している人間です」
天使さんが、そっと紙を覗いた。
少しして、何も見なかったように姿勢を戻す。
その判断は正しいと思った。
「この額を、そのままお約束することはできません」
李所長が言った。
「今回の予算では賄えませんし、追加の申請にも根拠が必要です」
「そうだろうな」
「まずは当初の範囲で観測を行い、その結果を踏まえて、次の契約を検討する形では」
八神は椅子へ背を預けた。
「それでも構わんよ。ただし、私が次も都合をつけられるとは限らんがね」
李所長が口を閉じる。
マイケル氏は、机の上の紙を見ていた。
グレッダ女史だけが、八神から目を離さなかった。
八神の鼻歌が再開した。
僕は額から手を下ろした。
これ以上抱えていても、事態は改善しそうにない。
「……別の条件なら、継続した協力を検討していただけるのですか」
グレッダ女史が尋ねた。
八神が、鼻歌を止めた。
「話が早くて助かる」
その手が、僕たちを示した。
「この二人に、課題の題材になる仕事を与えてほしい」
僕は八神を見た。
「先ほどの実務では、足りませんか」
「記録をつけるだけで終わらせず、何を調べているのか理解できるようにしてもらいたい。研究の説明を受け、疑問があれば担当者に尋ね、自分で確かめる機会を持てる仕事だ」
天使さんが、小さく声を漏らした。
「あ……課題」
八神は続けた。
「それから、研究所への出入りを自由にすること。私が同行しなくても、彼らだけで仕事に来られるようにしてくれたまえ」
「入館資格を発行することは可能です」
李所長が応じる。
その隣で、グレッダ女史が口を開いた。
「ただし、施設への入館と、機密区画への立ち入りは別です」
「担当する仕事に必要な場所にも入れないのかね?」
「必要な区画へは、権限を付与します。それ以外の場所へ、無制限に入っていただくことはできません」
「では、仕事に必要な範囲は保証してもらおう。それから、担当外の研究でも、申請して話を聞くことは認めてほしい」
グレッダ女史が、少し眉を寄せた。
「すべての申請を許可するとは、お約束できません」
「理由もなく断らなければよい。学生だからと受付で追い返されては、勉強にならんからな」
僕は、八神の横顔を見た。
この人は、こちらを見なかった。
「知り得た機密は守らせる。課題として外へ出す内容も、そちらの確認を受けよう。危険な設備を勝手に触らせろという話ではないよ」
「研究への参加は、業務と見学の範囲です。お二人を測定対象にする話ではありません」
グレッダ女史の言葉に、僕は頷いた。
「その点は、書面にもお願いします」
「ええ」
彼女は僕を一度見てから、八神へ視線を戻した。
「その条件で、報酬は?」
「当初の額で構わん」
「追加の観測への協力も含めて?」
「今回の滞在中にできることなら、相談に乗ろう。具体的な内容は、その都度合意する。それでどうかね」
李所長とマイケル氏が、顔を見合わせた。
「こちらとしても、ありがたいお話です」
李所長が言った。
「業務に参加していただく以上、内容を理解していただいたほうが助かります。課題に適した題材も、各部門で提案できるでしょう」
「測定補助なら、紹介できる仕事はあります」
マイケル氏も頷く。
「何のために測るのか、そこから説明しましょう。数字だけ書き取っても、面白くありませんから」
天使さんが、少し嬉しそうな顔をした。
グレッダ女史だけは、まだ八神を見ていた。
「……随分と、大きな譲歩ですね」
「若者の学びを支えるのも、大人の役目だろう」
今、この場で、誰よりも大人の振る舞いから遠かった人間が言った。
彼女の視線が、僕と天使さんへ移る。
何かを測るような目だった。
けれど、僕を見ても、取引の理由は分からないと思う。
僕自身、まだ分かっていないのだから。
やがてグレッダ女史は、机上の金額へ一度だけ目を落とし、ペンを取り直した。
「協力範囲と立ち入り条件を、書き直しましょう」
「あと一つ。大事なことだ」
「……何でしょう」
警戒するグレッダ女史に八神はクルクルと指を回して言った。
「滞在の間のホテルと食事は保証してくれたまえ」
グレッダ女史は目を伏せて、常識の範囲でならと答えたことで、交渉のテーブルは一段落したのだった。
その後のやり取りは、ずっと静かだった。
僕たちが担当する業務。
課題のために利用できる記録。
入館と区画ごとの権限。
八神が協力する観測の範囲。
話し合った内容が文面に移されると、僕は初めから読み直した。
隣で天使さんも、資料と修正された書類を見比べている。
分からない箇所を小声で尋ねられ、僕も声を落として答えた。
八神は、その間、出された茶を飲んでいた。
誰が始めた交渉なのか、時々、分からなくなる。
必要な確認を済ませ、署名された書類が交換される頃には、窓から差し込む光が随分と傾いていた。
帰り際、グレッダ女史が僕たちに言った。
「明日は、まず施設と業務の説明から始めます。疑問があれば、その場で聞いてください」
「ありがとうございます」
「ただし、答えられないこともあります」
「分かっています」
僕が答えると、彼女は僅かに頷いた。
ロビーへ戻ると、赤いソファーには誰も座っていなかった。
天使さんは一瞬だけそちらを見たが、立ち止まらずに僕たちへ続いた。
また来る機会ができたからかもしれない。
「初めから、これが目的だったのですか」
帰りの車が研究所の敷地を出たところで、僕は尋ねた。
八神は窓の外を見たまま、首を傾けた。
「これ、とは?」
「僕たちが、自分で研究所へ通えるようにすることです」
「よい条件になっただろう」
「それは、交渉した結果の話です」
あの金額が通ると、本気で思っていたのだろうか。
通れば、それでもよかったのかもしれない。
この人なら、そういうこともありそうだった。
けれど、代わりに提示した条件には、迷いがなかった。
僕たちに仕事を与えること。
説明を受け、質問し、自分で確かめられる立場にすること。
ただ働き口を探すだけなら、あそこまで言う必要はなかったはずだ。
「研究所へ来る前から、考えていたのではありませんか」
「君たちの課題については、常に気にかけているよ」
「常に、ですか」
「よい雇用主だろう」
八神が、ようやくこちらを向いた。
楽しそうな顔だった。
答えるつもりのないときの顔でもあった。
「何の話?」
天使さんが、僕と八神を交互に見た。
「お仕事、決まったんだよね?」
「ええ。決まりました」
「じゃあ、よかった。課題も、ちゃんと進められそうだし」
鞄の中の資料へ、目を落とす。
「人工霊体の動作確認って、実物を見ながらやるんだよね」
「そうなると思います」
「どんなことができるんだろう。説明してくれるって言ってたけど、私でも分かるかな」
「分からなければ、その場で聞いてよいそうですよ」
「そっか」
天使さんが笑った。
「そうだったね」
八神は満足そうに頷いた。
「さて、見通しも立ったことだし、夕食にしようか。翼くん。何か食べたいものはあるかね?」
「え、今から?」
「店へ着く頃には、よい時間になるだろう」
「うーん……せっかくだから、こっちの料理がいいな。でも、何があるんだろう」
考え込む天使さんの横で、八神が僕を見た。
ほんの一瞬だったが、それで十分だった。
もう、この話を続ける気はないらしい。
僕は息を吐き、携帯電話を取り出した。
「チリクラブはどうですか」
「蟹?」
「ええ。胡椒を利かせたブラックペッパークラブもあります。ほかには、海南鶏飯やラクサ、サテあたりでしょうか」
「待って待って待って。後半、全然どんな料理か分からない」
「写真を見せます」
画面を天使さんのほうへ傾ける。
赤いソースに覆われた蟹を見て、彼女の目が輝いた。
「これ、おいしそう」
「そうですね。海鮮なら、こちらの店も……」
「麗」
「何ですか?八神さん」
「先ほどから、随分と立派な店から選んでいるようだが」
「せっかくの機会ですから」
僕は、次の候補を表示した。
高層階。
大きな窓。
夜景と料理の写真の下に、相応の価格が記されている。
「今日は、よい雇用主にご馳走していただけると伺っていますので?」
「まだ、奢るとは言っていないが?」
「八神さん、これ見て。海が見えるんだって」
天使さんが画面を指差した。
八神は彼女を見て、それから僕を見た。
僕は黙って、別の料理の写真を表示した。
「……君は、妙なところで学習が早いな」
「よい雇用主のご指導のおかげです」
車が、海沿いの道へ出た。
窓の向こうに、暮れかけた空が広がっていた。
水平線の近くに残る橙色が、上へ行くほど薄まり、まだ青い空へ溶けている。
海もその色を映して、遠くでは空との境目が見つけにくくなっていた。
街のほうでは、高層ビルの窓に明かりが灯り始めていた。
陽の残るガラスの壁面に、夜の光が少しずつ増えていく。
あの中のどこかで、夕食を取ることになるのだろう。
天使さんは、蟹と鶏飯の間で悩んでいた。
八神は、どちらも頼めばよいと言った。
僕は、その言葉を聞き逃さないようにした。
明日になれば、研究所での仕事が始まる。
人工霊体を、間近で見られるかもしれない。
今日の資料に書かれていたことも、自分の目で確かめられる。
そのうえで、また別の疑問が出てくるのだろう。
八神が何を考えているのかは、結局、聞き出せなかった。
ただ、僕が知りたいと思った先へ、この人が道を用意した。
そこにどんな思惑があるにせよ、そのことまでは否定できない。
礼を言うべきなのかもしれない。
そう思ったところで、八神が店の価格を覗き込み、わざとらしく溜息をついた。
もう少し、考えてからにしよう。
僕は携帯電話を天使さんへ渡し、背もたれに身体を預けた。
車の揺れが、思っていたより心地よかった。
外国へ連れ出され、研究所で仕事が決まり、目の前で剣まで抜かれた。
その一日を、少し高い夕食で締めくくれば悪くないと思い始めている。
この順応の早さについては、いずれ真剣に考える必要がありそうだった。
けれど、今ではない。
「間久部くん、眠いの?」
「少しだけ。着いたら、教えてください」
「うん。お店、決めちゃっていい?」
「お願いします。遠慮は要りませんので」
「……そこは多少してもらいたいものだな」
八神の声を聞き流して、僕は目を閉じた。
瞼の裏に、海へ落ちていた夕日の色が残っている。
隣ではまだ、夕食の相談が続いていた。
これからのことは、明日の僕に任せよう。
今日の僕には、もう十分に働いてもらった。




