第47話 壇上の天使
終業式の朝に、雇用主の欠伸を眺めることになるとは思わなかった。
八神は、椅子へ深く沈んでいた。
長い金髪が肩から垂れ、片手には湯気の立つカップ。
もう片方の手で何かの書類を持っているが、目はほとんど閉じている。
「それで、用件は何でしょうか」
返事の代わりに、欠伸が出た。
隠そうともしない。
終わってから、目尻を指で拭う余裕まであった。
昨日、異界の学園で向けられていた視線を思い出す。
憧れ。
畏怖。
最強の祓屋への、隠しきれない興味。
あの生徒たちに、この姿を見せたらどうなるだろう。
「八神さん」
「聞こえている」
「では、答えてください。今日は終業式です」
「知っているとも」
「翼さんは、委員会の会合で先に登校しています。僕も、遅れるわけにはいきません」
八神が、薄く目を開けた。
「君の口から、その台詞を聞けるとはな」
「呼び出しておいて、感慨に浸らないでください」
机の上には、封筒が幾つか重なっていた。
普段なら整理を命じられる量だったが、今日は手を出さない。
資料を片づけるためだけに、朝から呼ばれたのなら抗議する。
ほかの用件なら、なおさら早く聞いておきたい。
「何をすればよいのですか」
八神は煩わしそうに手を振った。
「エスコートしてやれ」
「……誰を?」
事務所の奥で、扉の開く音がした。
振り返る。
その先に立っていた姿を見て、登校時刻も、続けるはずだった文句も、頭から抜け落ちた。
*
「おはよう。自転車は降りてからね」
翼が声をかけると、正門へ差しかかった生徒が慌てて足をついた。
「ごめん、天使さん」
「うん。おはよう」
会釈を返して、次に来た生徒へ目を向ける。
終業式の日だからといって、朝の仕事がなくなるわけではない。
服装の確認。
校内への持ち込みが認められていない物の検査。
駆け込んでくる生徒への注意。
学期最後の登校日ということもあって、どこか皆の足取りが軽かった。
今日が終われば、夏休みになる。
普通科の二年生として迎える、いつもどおりの夏休み。
昨日までは、そのつもりだった。
「袖、捲れたままだよ」
「あ、ほんとだ」
目の前の生徒がシャツを直す。
それを確かめながらも、頭の片隅には、別の制服姿が浮かんでいた。
角のある生徒。
水槽の中で手を振った生徒。
木剣を四本も使いこなした、赤い鬼。
霊能科。
同じ学校に、あんな場所があった。
しかも、自分にも通う資格があるという。
体育科への推薦を断ったときとは、事情が違っていた。
あのときは、どこか一つに決めたくなかった。
剣道部の助っ人をすれば、陸上部からも声がかかる。
別の部の練習へ顔を出すこともあれば、週末には校外のボランティアへ参加することもある。
一つの競技へ重点を置けば、ほかから頼まれたときに断らなければならない。
それが、何となく嫌だった。
普通科で授業を受けて、友達と話して、困っている人がいたら手を貸す。
空いた時間に好きなことをして、頼まれればまた出かける。
それで、十分に楽しかった。
最近は、そこへもう一人加わった。
間久部麗。
進学科所属。
学園が始まって以来の天才。
そう呼ばれているくせに、教室ではあまり歓迎されていないらしい。
顔を思い浮かべると、少しだけ眉が寄った。
言い方がよくないのだ。
正しいことを言っている。
聞かれたことには、たいてい答えられる。
教えるときだって、途中で投げ出したりはしない。
けれど、そこで終わればいいのに、もう一言足す。
相手が分かっていないことを、分かっていないまま口にする。
つい先日も、授業を聞いていれば理解できるでしょう、と真顔で言われたばかりだった。
できないから、教わっているのに。
「天使さん、これって持ち込み大丈夫?」
同じ委員の生徒に呼ばれ、差し出された品を確認する。
「先生に提出するものなら大丈夫。教室で出さずに、そのまま職員室へ持っていってね」
「分かった」
礼を言って去る背中を見送った。
麗について聞いた噂は、決してよいものばかりではなかった。
人を馬鹿にしている。
海外でもう評価されているから、学校なんてどうでもいい。
親の遺産があるから、苦労する必要もない。
最後の話を、誰がどこまで知っているのか、翼には分からなかった。
口にする者の多くも、詳しく知っているようには見えなかった。
それでも、話は広がっていた。
教師たちも、初めは彼の優秀さを喜んでいたらしい。
ところが、自分の説明の誤りを指摘され、授業の前提へ疑問を投げかけられるようになると、手放しで褒めるばかりではいられなくなった。
それにしたって、と思う。
今回の期末試験で、麗が一問落とした。
満点記録が途絶えた。
職員室でその話になり、高等教育の勝利だ、とまで言った教師がいたのだ。
書類を届けに行っただけなのに、妙にはっきり耳へ残った。
ケアレスミスらしい。
本人に聞いたら、途中で寝てしまったのだと、あっさり答えた。
悔しがるでもなく、言い訳をするでもなかった。
たった一問で、大人があれだけ喜んでいるとも知らずに。
初めは、自分も似たような目で見ていたのかもしれない。
頭はよいのに、不真面目な生徒。
能力があるのだから、きちんとすればいいのに。
そう思って、何度も注意した。
風紀委員長から麗の面倒を見るよう頼まれたときも、断る理由はなかった。
欠席が増え、このまま退学にでもなれば、学園としても困る。
どうにか通わせたい教師たちの意向もあったのだと、後になって知った。
頼まれれば、できる限りのことをしたくなる。
その性格を、うまく使われたのだろう。
ただ、世話を焼くこと自体は、嫌いではなかった。
相手は、それまで関わったことのない種類の同級生だった。
注意しても、素直に頷かない。
言い返してくる内容だけは、妙に筋が通っている。
腹が立って追いかけると、今度はもっと面倒な話を始める。
同級生の男の子と、これほど言い合ったこともなかった。
いつの間にか、それが普通になっていた。
今なら、友達だと言える。
あちらも、そう言った。
だからこそ、昨日のことは簡単に片づけられなかった。
*
大天使ミカエル。
自分の中にあるという力の名を、調べてみたことがある。
聖書を開き、携帯電話でも検索した。
画面へ並ぶ情報の多さに、一度、携帯電話を伏せた。
名前を聞いたことぐらいはあった。
けれど、そこに描かれていた存在と、自分がどう結びつくのかは分からなかった。
勇敢で、誠実で、剣を持つ天使。
古い絵画だけではない。
漫画やアニメ、ゲームの絵まで出てきた。
少なくとも、皆が知っている名前なのだと分かった。
それが、自分の中にいる。
制服の胸元へ、そっと手を添える。
何も分からない。
熱も、声も、特別な鼓動もなかった。
研究所での記憶には、抜けているところが多い。
思い出そうとすると、息苦しい熱と、遠くから届いた声が浮かんでくる。
麗の声だった。
もう一度、ああなったら。
そんな考えを振り払うように、手を下ろした。
興味がない、では済まないことは分かっている。
昨日、雪華にも言われた。
学ばなくても力はなくならない。
知らないふりをしていても、向こうから関わってくる。
だから、祓屋という仕事についても、少し調べた。
相談先を探す人は、多いようだった。
けれど、出てくる広告は、見れば見るほど不安になるものも多かった。
何に効くのか分からない品物。
説明のない金額。
大きな言葉ばかりで、何をしてくれるのか分からない案内。
麗なら、どこがおかしいか、一つずつ説明するのだろう。
八神なら、鼻で笑うかもしれない。
その八神から、五千万円の報酬を提示されたばかりだった。
基準が、どこにも見つからない。
進路として考えてよいのだろうか。
そもそも、進路を選ぶ前に、自分の身体のことを学ぶべきなのだろうか。
「天使さん」
顔を上げる。
同じ風紀委員の同級生が、確認用の用紙をまとめていた。
「こっちは終わり。そろそろ講堂へ行こう」
「あ、うん」
「今日、少し静かだね」
「そう?」
「うん。でも、仕事はいつもどおりだったけど」
渡された用紙へ目を通す。
担当欄には、必要な確認がすべて入っていた。
気になることを考えていても、足と口はいつものように動いていたらしい。
「大丈夫。ちょっと考え事」
「珍しい」
「それ、どういう意味?」
笑いながら返して、残った道具を片づけた。
門の周囲に、遅れて来る生徒がいないか目を向ける。
麗の姿はなかった。
先に入ったのだろうか。
八神の用事が、長引いていなければいい。
*
講堂は、ほとんど埋まっていた。
制服の列の間を教師が歩き、前方では進行役がマイクを確かめている。
風紀委員が朝の仕事を終えてから、自分のクラスの席へ入れたことは、ほとんどなかった。
今日も、入口にいた教師から後方を示された。
同じ委員たちと並び、最後列近くの空席へ腰を下ろす。
鞄を足元へ置くと、ようやく肩の力が抜けた。
天井が高い。
昨日見た講堂のような教室を思い出し、慌てて考えるのをやめた。
進路。
霊能力。
天使の力。
間久部麗。
最後の名前だけ、分類が違う気がした。
けれど、どのことを考えても、途中で彼の顔が出てくる。
先のことを考えるのは、あまり得意ではないのかもしれない。
今日やることなら、決められる。
困っている人が目の前にいれば、何をすればよいかも分かる。
まだ起きていないことを幾つも並べ、その中から選ぶとなると、途端に手が止まる。
霊能科へ移ったら、今の友達とはどうなるだろう。
委員会は続けられるのか。
卒業したら、何になるのか。
そもそも、自分は何になりたいのか。
問いばかりが増えていく。
窓から入る光を見上げ、息を吐いた。
また、同級生の顔が浮かんだ。
難しい顔で、こちらの質問へ答えている。
一言余計なことを付け足して、怒られている。
分からないなら、聞けばよいでしょう。
いかにも言いそうだった。
まあ、何とかなるか。
「翼さん」
「ひゃっ」
変な声が出た。
隣の席の前に、麗が立っていた。
眉を寄せ、こちらを見ている。
「……大丈夫ですか」
「だ、大丈夫」
周囲へ顔を向ける。
近くにいた委員が、少し驚いた顔をしたあと、笑いを堪えていた。
頬が熱くなった。
「いつ来たの?」
「今です。何度か呼んだのですが」
「そ、そうだった?」
「ずっと上を向いていたので。気分でも悪いのかと」
「考え事してただけ」
麗が天井を見る。
そこに何か書いてあるとでも思ったのだろうか。
その横顔で、ようやく少し落ち着いた。
「ここ、空いてますか」
「うん」
麗が隣へ腰を下ろす。
椅子の動く音がして、鞄が足元へ置かれた。
それだけなのに、先ほどまで遠く聞こえていた周囲の話し声が、急にはっきり戻ってきた。
*
壇上へ、恰幅のよい男性が上がった。
灰色の髪を、後ろへ丁寧に撫でつけている。
鼈甲縁の眼鏡に、仕立てのよいダブルのスーツ。
封心学園理事長、荒金謙三。
正面へ立った姿には、慣れた落ち着きがあった。
昨日、八神から聞いた話が浮かぶ。
厄介事を引き込む体質。
こんなに立派な人にも、苦労はあるらしい。
理事長が一礼すると、講堂のざわめきが収まった。
学期を振り返る挨拶から、式が始まる。
運動部の成績。
文化部の活動。
各大会での受賞と、優秀な成績を収めた生徒への表彰。
名前を呼ばれた生徒が立つたび、拍手が広がった。
夏休みの過ごし方についての話も続く。
事故に気をつけること。
生活のリズムを崩さないこと。
目標を持って、長い休みを過ごすこと。
いつもなら、きちんと聞ける話だった。
今日は、隣が気になった。
麗は前を向いていた。
眠そうには見えない。
ただ、いつもより少し落ち着かないようにも見えた。
拍手が起きたところで、そっと顔を寄せた。
「ねえ」
「何ですか」
「今朝の用事、何だったの?」
麗の手が、膝の上で止まった。
「八神さんに呼ばれたんでしょ」
「……ええ」
「また、変な仕事?」
口が開きかけて、閉じる。
珍しかった。
何でもすぐ説明する人なのに、言葉を選んでいる。
その様子に、少し不安になった。
「昨日の話?」
麗がこちらを見た。
困ったような、それでいて困っているだけではなさそうな顔だった。
「すぐに分かります」
「すぐって?」
「もう少しだけ」
前方へ視線を戻す。
翼もつられて壇上を見たが、理事長が話しているだけだった。
どういうことだろう。
もう一度聞こうとしたとき、マイクを通した声が、はっきり響いた。
「さて。最後に、皆さんへ紹介しておきたい生徒がいます」
講堂の空気が動いた。
前の席で、何人かが顔を上げる。
「二学期を前に、新たな仲間を迎えることになりました」
転校生。
そんな言葉が、あちこちで囁かれた。
舞台袖へ向かって、理事長が手を差し出す。
一人の少女が、姿を現した。
黒い、短い髪。
照明の下でも分かる、褐色の肌。
大きな瞳が、講堂を見渡した。
息が止まった。
見慣れた制服を着ていた。
袖から出た手が、落ち着かない様子で動いている。
理事長の隣へ進む足取りは軽く、途中で小さく弾むように跳ねた。
それから、客席へ向かって手を振った。
屈託のない笑顔だった。
大勢の視線を浴びていることが、ただ嬉しいらしい。
右を見て、左を見て、また手を振る。
講堂が、どっと湧いた。
隣の席で、麗が小さく息を吐いた。
「紹介しましょう」
理事長の声が響く。
「マリア・ガブリエルさんです」
名前が、耳へ届いた。
何度も考えた。
保護されたと聞いてから、どうしているのだろうと思っていた。
ちゃんと食べているだろうか。
怖い思いをしていないだろうか。
あのあと、誰と話しているのだろうか。
会えないまま、帰ってきた。
その子が、そこにいた。
顔を向けると、麗もこちらを見ていた。
「……マリア」
声にすると、唇が震えた。
「ええ」
短い返事だった。
麗の目元も、普段とは違っていた。
何か言おうとして、言葉が見つからない顔をしている。
その顔がおかしくて、嬉しくて、笑った。
笑った途端、涙が頬へ落ちた。
「知ってたの?」
「今朝、初めて」
「教えてくれたら、よかったのに」
「説明しようとは、思ったのですが」
麗も、少し笑った。
その目に浮かんだものが、照明を受けて光る。
壇上では、マリアがまだ手を振っていた。
あの暗い研究所ではなく。
制服を着て、大勢の生徒の前で。
まるで、これから始まることを少しも疑っていないように、笑っていた。




