第4話 八神祓事務所
八神祓事務所には、触れてはいけないものが多い。
西側の棚に置かれた朱塗りの箱。
客がいないときにも鳴る、受付の呼び鈴。
帳簿上は空室なのに、夜になると誰かが咳をする二階の奥。
そして何より、八神の機嫌がよいときの新しい仕事の話。
最後のひとつを覚えるまでに、僕は三度ほど死にかけた。
「麗。そこの箱を取ってくれ」
「どの箱ですか」
「君が今、触れないように避けた箱だ」
「昨日、触るなとおっしゃいましたが」
「ああ。昨日はな」
八神は頬杖をついたまま、愉しげに目を細めた。
金色の髪が机の端からこぼれている。午前零時を過ぎているというのに、その顔には眠気の欠片もない。
僕の方はといえば、二時間前に地下道で怪異の囮を務め、戻るなり仕入れ品の検品を命じられ、ようやく最後の伝票を処理したところだった。
「今日は触っても安全なのですか」
「開けなければね」
「持った途端に開く、ということは?」
「学習したじゃないか」
褒められている気はしなかった。
箱には手を伸ばさず、請求書の束を八神へ差し出す。
「先に、こちらへ確認の署名をお願いします」
「細かいことは任せると言っただろう」
「その細かいことの中に、事務所の備品として計上されたあなたの衣服代が含まれています」
「仕事着だ」
「同じ仕立屋から今月三着届いています」
「汚れる仕事だからな」
「一昨日、血まみれになった僕の制服は経費で落ちなかったのに?」
「制服は学校にも着ていくだろう」
八神は悪びれもせず、細い指でペンを回した。
腹立たしいことに、その仕草だけなら絵になる。
ただし、見惚れていると伝票が一枚、署名されないまま下へ戻される。
「そちらもです」
「見逃してくれてもいいんじゃないか」
「仕事ですので」
ペンが止まった。
八神はゆっくりと僕を見上げる。
その左目に笑いが浮かんだときには、言い返したことを少しだけ後悔していた。
「結構。では、仕事熱心な君に、もうひとつ頼もう」
こうして仕事が増える。
増えた仕事を片づけなければ帰れないので、さらに手際がよくなる。
手際がよくなると、八神は満足そうに仕事を増やす。
仕事を始めて一か月。
僕はようやく、この事務所で有能さを示すことの不利益を理解し始めていた。
下働き、と一口に言っても、その内容は多岐にわたる。
掃除、洗濯、来客対応。
品出し、在庫管理、仕入れの照合。
売上の記帳と、領収書を残す習慣のない雇用主への執拗な聞き取り。
それだけなら、まだよかった。
夜の廃病院で灯りを持って立っている。
誰も住んでいないはずの家へ、一人で呼び鈴を押しに行く。
川岸にしゃがみ、背後から名前を呼ばれるまで待つ。
八神はそれらを、助手の仕事と呼んだ。
囮と呼ぶと人聞きが悪いらしい。
僕にとっては、どちらでも結果は同じだった。
それでも学業との両立が成り立っているのは、移動時間に課題を終え、授業中に新たに覚えるべきことがほとんどないという事情による。
成り立っているだけだ。
余裕があるわけではない。
帰宅して靴を脱いだ記憶はあるのに、次に気づいたときには朝だったこともある。
玄関で眠り込まなかっただけ、よしとすべきだろう。
そんな生活に、ようやく休日が与えられた。
『明日は来なくていい』
昨夜、八神は確かにそう言った。
聞き間違いを疑い、僕は三度確認した。
三度目には「そんなに私に会いたいのか」と返されたので、それ以上はやめた。
学校も、今日は午前授業で終わる。
午後からは帰宅し、入浴して、眠る。
夕方に目が覚めたら、途中まで読んでいた本を開いてもいい。
怪異の出現時刻も、商品の保管温度も、八神の気まぐれも考えずに過ごせる。
その予定を思い浮かべたとき、僕は思いのほか真剣に、午後の到来を待っていた。




