第3話 そして受難の日々が始まる。
放課後。
旧校舎には、僕と同じように風紀委員へ捕まった生徒が十数人集められていた。
古い机や椅子が積まれた教室には埃が溜まり、天井の隅には幾重にも蜘蛛の巣が張っている。
入った瞬間から、視線を感じていた。
生徒たちのものではない。
じっとりと肌へ貼りつく、欲に濡れた視線だった。
辺りを探れば、こちらも相手を認識することになる。
僕は気づかないふりをした。
「間久部君、それ廊下へ運んでくれる?」
「分かりました」
「そっちを持って――って、ちょっと!」
僕が大型の教卓を一人で持ち上げると、天使さんが目を丸くした。
「あなた、本当に何なのよ」
「高校生です」
「知ってるわよ!」
教卓を廊下へ運び出そうとしたところで、一人の女子生徒に声をかけられた。
「間久部君。少しいいかしら」
三年生の荒金伊都。
この学校の理事を務める荒金氏の一人娘であり、本人も人目を引く美貌の持ち主だった。
教師でさえ彼女には言葉を選ぶという。
僕には関係のないことだ。
そう思う一方で、彼女の背後に漂う黒い気配が濃くなったことには気づいていた。
「手短にお願いします」
「本当に愛想がないのね。まあ、そこも嫌いではないけれど」
荒金先輩は薄い冊子を僕へ差し出した。
表紙には、十歳の頃に僕が海外で発表した論文の題名が印刷されている。
「これを読んだわ」
「専門外の方が読んでも、あまり面白いものではないと思います」
「面白かった。全部を理解できたとは言わない。でも、分からない言葉は調べたわ」
彼女の指が冊子の角を強く押さえていた。
余裕を装っているが、緊張しているのだろう。
「少なくとも、あなたの顔しか見ていない女の子たちよりは、あなたを理解しているつもりよ」
そこまで言うと、荒金先輩は真っすぐ僕を見た。
「以前から気になっていたの。私と付き合わない?」
軽い思いつきではない。
そのことは、彼女の声を聞けば分かった。
論文を探し、読み、理解しようとした時間まで否定するつもりはない。
だからこそ、曖昧な期待を残すべきではなかった。
「お断りします」
先輩の表情が固まる。
一瞬だけ、胸が痛んだ。
他人を傷つけたいわけではない。
ただ、僕は誰かを内側へ招き入れる方法を知らなかった。
扉を開けば何が入ってくるのかを、知りすぎている。
「……まだ、何も話していないでしょう?」
「要件は理解しましたので、結論を申し上げました」
「理由を聞いても?」
「誰とも交際するつもりがないからです。先輩個人に問題があるわけではありません」
「私が誰の娘かは知っているわよね」
傷ついた心を、家柄で守ろうとしている。
そう理解できても、僕に差し出せる言葉はなかった。
「存じています。それが僕の返答へ影響するとは思いません」
「ちょっと二人とも! 何を話してるの、手が止まってる!」
天使さんがこちらへ歩いてきた。
「告白していたの。少しくらい待ってもらえる?」
「こ、告白!? 学校で!?」
「声が大きいです、天使さん」
「間久部君は黙ってて!」
キッと先輩に向き直る天使さん。
「荒金先輩。ここは学校です。不純異性交遊につながるような――」
「交際を申し込むことの、どこが不純なの?」
「それは……健全な交際なら、直ちに校則違反というわけではないですけど……」
思いつきで話に入らないでほしいな。
話がややこしくなる。
「なら、あなたには関係ないでしょう」
「でも間久部君は、今は掃除当番で――」
「先ほどお断りしましたので、話は終わっています」
言った直後、失敗したと思った。
周りには騒ぎを聞きつけた他の生徒が集まっていた。
荒金先輩の頬が赤くなる。
「あなた、私を振ったことまでそんな大声で言う必要がある?」
教室にいた生徒たちが、気まずそうに視線を逸らした。
怒り。
羞恥。
自尊心を傷つけられた痛み。
感情が傷口のように開き、その背後で待っていたものが歓喜した。
黒い影が蠢く。
天井の蜘蛛の巣から、人間の頭ほどもある赤黒い蜘蛛が音もなく下りてきた。その腹には女の顔が浮かんでいる。
『欲しいのだろう』
怪異の声は、僕にしか聞こえていない。
『欲しいなら、捕らえればいい』
「荒金先輩。そこから離れてください」
大声で叫び、手を伸ばしたが、荒金先輩には逆効果だった。
「今さら何よ」
伸ばした手を思いっきり叩かれ拒絶の意思を示された。
それと同時
「上です」
間に合わない。
そう悟った瞬間には、蜘蛛の脚が先輩の肩へ触れていた。
黒い染みが制服へ広がり、首筋を這い上がる。荒金先輩の身体が大きくのけ反った。
「――私が」
瞳が赤く染まる。背中から節くれ立った六本の脚が現れた。
「私が声をかけてあげたのに、どうして私を選ばないの?」
先輩の声だった。
けれど、その言葉が彼女のすべてではないことを、僕は知っている。
怪異は、人の心にないものを一から作るわけではない。
小さな傷へ爪を差し込み、痛みだけを何倍にも膨らませる。
彼女の心を開かせた一因は、僕だ。
教室に悲鳴が上がった。
生徒たちが出口へ殺到する。僕は天使さんの腕をつかみ、後方へ引いた。
「走ってください」
「荒金先輩を置いていけないでしょう!」
本当に面倒な人だ。
「あなたが残っても状況は改善しません」
「でも――」
蜘蛛の脚が振るわれた。
僕は天使さんを突き飛ばしてかわしたが、脚の先端が彼女の肩をかすめる。
わずかな傷だった。
しかし、天使さんの顔から急速に血の気が失われる。
「毒か」
倒れかけた身体を抱き留めた。
昼に僕を叱っていた身体が、ひどく軽い。
「間久部、君……」
「しゃべらないでください。呼吸を整えて」
返事はない。
彼女の手から力が抜けていく。
見えるものには関わらない。
見えない好意にも応じない。
そうやって誰も近づけなければ、誰も巻き込まずに済むと思っていた。
けれど今、僕の腕の中にいる彼女は、僕が遠ざけ続けても勝手に近づいてきた人だった。
そして、傷ついた。
荒金先輩の身体を支配する怪異が、天井へ張りつく。無数の霊糸が出口を塞いでいった。
「私のものになって」
彼女自身の声と怪異の声が重なって響く。
「そうすれば、その女も助けてあげる」
「お断りします」
「どうして!」
どうして?そんな事決まっている。
「僕が誰と行動するかを決めるのは僕です。脅迫によって決定権を奪おうとする相手に、従う理由はありません」
当然の言葉だった。
正しさしか残っていない言葉でもあった。
「なら、死ね!」
蜘蛛の爪が振り下ろされる。
天使さんを抱えたままでは避けられない。
彼女を離せば、僕だけなら助かるかもしれない。
その考えを、僕は最後まで考えきることができなかった。
目を閉じて覚悟を決める。
せめて、天使さんにこれ以上の傷をつけないために。
鈍い金属音が、喉元で鳴った。
僕を貫くはずだった爪が、宙を舞っている。
「昨日に続いて今日もとは」
耳へ絡みつくような、楽しげな声がした。
「君はよほど、怪異に愛されているらしいな」
金色の長髪が、埃にまみれた教室で揺れていた。
陽光の差さない旧校舎で、その髪だけが淡く輝いて見える。
この人物が現れたことに安堵している自分を認めるのは、ひどく不愉快だった。
「八神……さん」
「今、無理に敬称を足しただろう」
八神は肩越しに振り返る。
唇には笑みがある。
けれど左目の奥には、他人の生死を前にした焦りが少しもなかった。
「助けていただけますか」
「断る」
助かった。
そう安堵した直後の返答だった。
八神は怪異へ背を向けた。
「では、失礼する」
「待ってください。どこへ行くつもりですか」
「帰るんだが?」
「この状況が見えていないのですか」
「よく見えているとも」
八神は指を一本ずつ折りながら数えた。
「蜘蛛の怪異が一体。憑依された女が一人。毒を受けた女が一人。そして、私に料金を踏み倒させた男が一人だ」
おのれ、過ぎた事をチクチクと。
「踏み倒していません。契約が成立していなかっただけです」
「そうだったな」
八神は振り返った。
薄く笑う。
昨日、胸へ刺さった棘が、今になって深く沈んだ。
「だから今回も、私が助ける理由はない」
「昨日の仕返しですか」
「人聞きが悪い」
八神は静かに歩み寄ってきた。
怪異の爪が届く場所だというのに、散歩でもするような足取りだった。
「私は祓い屋だ。依頼もないのに怪異を祓えば、商売にならないだろう」
天使さんの呼吸が浅くなっていく。
蜘蛛の怪異は、失った爪を再生させていた。
時間がない。
「どうすれば助けるのですか」
「さて」
八神が僕の前で足を止めた。
視線が、僕の腕に抱かれた天使さんから、僕の顔へゆっくりと上がってくる。
「昨日、誰かが教えてくれただろう。双方の合意が成立しなければ、仕事はできない」
すべて分かっている。
分かったうえで、僕に言わせようとしている。
八神は身体をわずかに屈め、僕と視線の高さを合わせた。
金の髪がさらりと肩から落ちる。
残された左目に、僕の顔だけが映った。
「お願いするには、どうしたらいいのかな?」
囁くような声だった。
甘く聞こえるのに、そこには逃げ道がひとつもない。
獲物の首へ糸をかけているのは、蜘蛛ではなく、この人物の方ではないか。
そんな錯覚を覚えた。
法外な金額を請求される。
それだけでは済まないかもしれない。
この男とも女ともつかない祓い屋に、一度借りを作れば、どこまで踏み込まれるか分からない。
天使さんは鬱陶しい。
頼んでもいない世話を焼き、僕の欠席を数え、食事にまで口を出す。
それでも、彼女が傷つくことを望んだことは一度もない。
パンの袋へ置かれた卵焼きが脳裏に浮かぶ。
おいしいと言ったときの、得意げな顔まで。
荒金先輩も同じだ。
僕が告白を拒んだことは間違いではない。
けれど、彼女の勇気を人前で踏みにじったのは、僕の言葉だった。
だからといって、彼女が怪異に身体を奪われていい理由にはならない。
誰も近づけなければ、傷つけずに済む。
そう思っていた。
違った。
僕はただ、自分が傷つかずに済む場所へ立っていただけだ。
「依頼します」
喉がひどく乾いていた。
「何を?」
分かっているくせに、八神は問う。
その声に急かす響きはない。
だからこそ、僕が自分の意思で選ぶほかなかった。
「天使さんを助けてください。荒金先輩から怪異を引き剥がし、二人とも生きて帰してください」
八神が怪しく微笑んだ。
「君を殺そうとした女もか?」
「本人の意思ではありません」
「料金は高いぞ」
値踏みするような聞き方だ。
そんな覚悟がないとでも。
「後で支払います」
「契約書は?」
「今は用意できません。ですが、口頭でも契約は成立します」
僕は八神の左目を正面から見た。
見えるものに、反応してはいけない。
それが僕の処世術だった。
けれど今、目の前の怪物じみた人間から目を逸らせば、大切ではないと言い張ってきたものを、本当に失う。
「僕、間久部麗は、あなたに二人の救命を依頼します」
一語ずつ、逃げ道を塞ぐように告げる。
「これで、よろしいですか」
八神の笑みが深くなった。
美しいと思った。
同時に、ひどく禍々しいとも思った。
「確かに承った」
その言葉は救いの約束ではなく、僕の首にかけられた契約の輪のように聞こえた。
八神がコートの内側へ手を入れる。
引き抜かれたのは、先日の七色の剣、陽光覇剣とは似ても似つかない曲剣だった。
刃は光を反射しない。
鈍色の刀身が周囲の明かりを呑み込み、そこだけ夜を切り取ったように沈んでいる。
蜘蛛の怪異が後ずさった。
『月の剣……』
「三星剣が一振り――霧氷月影」
八神が曲剣の腹へ指を滑らせた。
その仕草には、長く連れ添ったものへ触れるような親密さがあった。
蜘蛛が天井を蹴る。
同時に、八神が曲剣を振るった。
「眠れ」
音が消えた。
床が、壁が、天井が、白銀に染まる。
吐息さえ凍りつく静寂の中、それまで見えなかった無数の蜘蛛の糸が銀色に浮かび上がった。
旧校舎全体を覆い尽くす、巨大な巣。
僕たちは最初から、この怪異の腹の中にいたのだ。
蜘蛛の怪異は、その中央で動きを止めていた。自らが張った糸ごと凍りつき、空中へ縫い留められている。
『嫌だ……私は、ただ……欲しかっただけ……』
「そうか」
八神は怪異の眼前へ歩み寄った。
声だけは、恋人の懺悔を聞くように優しい。
「だが、欲しがられた側にも、断る権利はある」
霧氷月影の切っ先が、蜘蛛の女の顔へ触れた。
「他人を縛る糸は、いつか自分の首にも絡むものだ」
八神が剣を横へ薙ぐ。
怪異だけが荒金先輩の身体から引き剥がされ、凍りついた巣の中心へ吸い込まれていく。
亀裂が走った。
蜘蛛の巨体が細かな氷片となって砕け散る。
白銀の欠片が八神の周囲を舞った。
その中心に立つ姿は、神聖なものにも、葬列を導く魔性にも見えた。
荒金先輩の身体が落下する。
僕が動くより早く、八神が片腕で受け止めた。
つい先ほどまで怪異へ向けていたものとは別種の、丁寧な手つきだった。
「毒はどうなりましたか」
「もう抜いた。二人とも死にはしない」
天使さんの呼吸が穏やかになっている。
荒金先輩の背中から異形の脚は消え、その顔にも血色が戻りつつあった。
僕は、ようやく息を吐いた。
安堵すると同時に、膝から力が抜けそうになる。
気づかれるのが嫌で、天使さんを抱く腕へ力を込めた。
「……ありがとうございます」
返事はなかった。
顔を上げると、八神の姿はすでに消えていた。
人二人を救ったというのに、霜の匂いも、足跡ひとつも残っていない。
ただ僕の耳には、あの囁くような声だけが残っていた。
二人を保健室へ運び、事情を聞きたがる教師たちを適当な説明でかわした頃には、日が暮れていた。
荒金先輩はまだ眠っている。
天使さんは目を覚ますなり、僕の無事を確かめたあとで、「どうしてあなたまでそんな顔をしているの」と言った。
自分が毒で倒れたというのに、理解しがたい人だ。
僕は「疲れているだけです」と答えた。
嘘ではない。
校門を出たところで、制服のポケットに違和感を覚えた。
折り畳まれた紙が二枚入っている。
いつ入れられたのか分からない。
思い返せば、八神が僕へ直接触れた瞬間すらなかった。
一枚目は請求書だった。
桁を数える。
途中で数えるのをやめた。
「……人の足元を見るにも限度があるでしょう」
二枚目には、見知らぬ住所が記されていた。
八神祓事務所。
その下には、赤い文字が添えられている。
『返済方法については応相談。現金での支払いが困難な場合、労働による返済を認める』
さらに、その下。
『明朝六時出勤。遅刻は罰金』
僕はしばらく紙を見つめた。
契約時に、返済方法の指定はしていない。
労働で返すとも言っていない。
異議を申し立てる余地はいくらでもある。
それなのに、八神の笑みを思い出すと、こちらの反論まで最初から計算に入れられている気がした。
破り捨てようとして、やめる。
破棄した場合の違約金まで、どこかに小さく書かれているかもしれない。
紙を夕日に透かす。
案の定、裏面の隅に肉眼では読みづらい文字が並んでいた。
『契約書類の破損および紛失は再発行手数料の対象となる』
「……どこまでも胡散臭いですね」
けれど、二人が生きていることだけは事実だった。
その事実の前では、僕の理屈も負け惜しみにしかならない。
昨日、あの祓い屋を契約の不備で退けたとき、僕は自分が勝ったつもりでいた。
実はそうでなかった。
あのとき八神は、僕がどのような人間かを確かめていたのだ。
僕が何を拒み、何を前にすれば、自分から頭を下げるのか。
考えれば考えるほど、最初の出会いまで偶然だったのか疑わしくなってくる。
僕は請求書をポケットへ戻した。
明朝六時。
行く義務はない。
そう自分へ言い聞かせながら、住所までの所要時間を頭の中で計算している。
そのことが、何より腹立たしかった。
こうして、僕の、間久部麗の受難は始まったのだった。




