第22話 天才の性
「スラップスほどの企業なら、依頼先には困らないはずです」
僕が言うと、八神はわずかに首を傾けた。
「何の依頼先だ?」
「霊的な現象について助言を求める相手です。国の認定を受けた霊能力者も、専門の機関もあるでしょう」
「あるだろうな」
「研究成果を公表するつもりなら、なおさらです。第三者による検証も、信用も必要になる」
膝の上の書類には、整った文字と数字が並んでいた。
研究。
開発。
品質管理。
流通。
どれも、説明と検証を必要とする仕事だった。
そこへ八神が加わる。
理由を聞けば笑い、方法を尋ねればはぐらかし、移動先すら着くまで教えない人間が。
「なぜ、八神さんなのですか」
「私が優秀だからでは?」
「それは否定していません」
八神が、少しだけ眉を上げた。
天使さんまで、こちらを見た。
そこまで珍しいことを言ったつもりはなかった。
「だから気にしているのです。あなたへ依頼しなければならない理由があるのではないか、と」
「麗」
「はい」
「それは、先方に聞きたまえ」
僕は息を止めた。
八神は、穏やかな顔をしていた。
「私を選んだ理由など、私には分からんよ」
「何も知らずに引き受けたわけではないでしょう」
「依頼は聞いた。引き受けられると判断した。それだけだ」
「判断に必要な情報を、僕たちにも――」
「聞きたいことが、随分と増えたな」
言葉が止まった。
八神の左目が、僕を見ていた。
からかうような笑みは、消えていない。
けれど、その視線から逃れるように書類へ目を戻すことは、なぜかできなかった。
「この業界は、埒外の魔窟だ」
静かな声だった。
「常識も正論も、持っていて構わない。むしろ、手放さずにいたまえ。自分の意思を通せなければ、他人の思惑に乗っ取られる」
八神の指が、肘掛けを軽く叩いた。
「だが、自分の知っていることだけを並べても、知らないものの正体は分からんよ」
「危険を承知で近づけと?」
「必要ならば」
即答だった。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず、というだろう」
「虎に食べられては、意味がありません」
「ならば、何を確かめ、どこで引き返すか、自分で決めることだ」
車が緩やかに曲がった。
身体がわずかに傾く。
書類の端を押さえた指に、力が入った。
「麗。君は本当に、関わりたくないだけなのか?」
胸の奥を、何かで突かれた気がした。
関わらないほうがいい。
それは、僕がずっと守ってきた判断だった。
見えても、反応しない。
聞こえても、答えない。
何者なのかを尋ねない。
なぜそこにいるのかを考えない。
差し伸べられた手へ、自分の手を重ねない。
知らなければ避けられない危険もある。
それでも、知ろうとしたことで、向こうから見つけられてしまうことのほうが怖かった。
だから、距離を取った。
怪異にも。
怪異と関わりそうな物事にも。
ときには、その近くにいる人間にも。
そうすることに慣れすぎて、いつの間にか、自分が何を知りたいのかまで確かめなくなっていたらしい。
僕は手元の資料を見た。
人工霊体。
どうやって作ったのだろう。
何もないところから生み出したのか。
別の何かを材料にしたのか。
作られた霊は、自分が存在していることを知っているのだろうか。
人の言葉が分かるのか。
何かを望むのか。
そして、作った人間は、それをどう扱うつもりなのか。
問いは、簡単に出てきた。
出てきてしまえば、今度は答えが気になった。
危険かどうかを判断するため。
天使さんを巻き込まないため。
不当な仕事を押しつけられないため。
どれも本当だった。
けれど、それだけではなかった。
知りたかった。
発表された成果が何を意味するのか。
科学の言葉で語られるその現象が、僕の見てきたものとどうつながっているのか。
なぜ、そこに八神が必要なのか。
誰かが「成功した」と書いた記事を読むだけでは、もう足りなかった。
自分の目で確かめたいと思っていた。
我ながら、面倒な性分だった。
分からないものを前にすると、放っておけない。
筋道が見えなければ、見えるまで考えたくなる。
それで仕事を受けてきた。
それで、天才などと呼ばれてきた。
ところが、自分自身に最も近い不可解なものについては、ずっと目を逸らしていた。
その矛盾に気づいてしまうと、少しおかしかった。
怖いものは、今でも怖い。
できれば安全な場所にいたい。
なのに、知りたいという気持ちが消えないことを、どこかで喜んでいる。
僕は、いつからこんなふうになったのだろう。
目の前には、勝手に人を外国へ連れ出す雇用主がいた。
隣には、放っておいてほしいという言葉を、あまり聞いてくれない学友がいる。
二人と関わるようになってから、予定どおりにいかないことばかりだった。
そのたびに、外へ引っ張り出される。
自分で閉じていたとさえ意識していなかった場所から、少しずつ。
「間久部くん」
天使さんが、僕の顔を覗き込んだ。
「……変な顔してる」
「失礼ですね」
「だって。怒ってるのか、笑ってるのか分からないんだもの」
僕は窓へ顔を向けた。
ちょうど車が、建物の影へ入った。
暗くなったガラスに、自分の顔が薄く映る。
眉間には、まだ皺が寄っていた。
そのくせ、口元だけが、わずかに緩んでいる。
困ったような笑顔だった。
否定できなかったので、僕は書類へ視線を戻した。
「……確認したいことが、増えただけです」
「さっきから、いっぱい聞いてたじゃない」
「まだ足りません」
八神が笑った。
今度は、それを不快だと思うより先に、腹立たしいほど見透かされていたのだと分かった。
「いい旅になりそうだ」
「仕事でしょう」
「そうだったな」
楽しそうに言って、八神は前方へ目を向けた。
ハイヤーが速度を落とす。
窓の外で、街路樹の流れがゆっくりになった。
僕は膝の上の資料を閉じ、鞄へ収める。
帰りの飛行機は、まだ調べていない。
その前に、確かめることができてしまった。
車は間もなく、目的地へ到着しようとしていた。




