第20話 甘い蜜の毒
眩しかった。
布を外した直後、視界は白く焼けた。
日本の事務所で見慣れていた蛍光灯の平たい明るさとは違う。頭上から降り注ぐ陽光が、目の奥まで直接入り込んでくる。
反射的に目を細めた。
頬を撫でた風は、涼しくなかった。
熱を含んだ湿った空気が、肌へまとわりつく。シャツの襟元が一瞬で重くなり、額には細かな汗が浮いた。
足元には、白い石畳が広がっていた。
強い日差しを受けた表面が、まぶしいほどに光を返している。
その向こうには、青い海があった。
水面は細かな光を無数に散らし、視線を向けるたびにきらめきが揺れる。潮の匂いと、湿った風の匂いが混じっていた。
耳へ届く音も、事務所とはまるで違っていた。
観光客の話し声。
聞き慣れない言語の断片。
靴音。
遠くで鳴る車のクラクション。
風に混じる水音。
それらが一つの塊になって、絶えず周囲を満たしている。
僕は、ゆっくりと顔を上げた。
海の向こうには、高層ビルが幾重にも並んでいた。
ガラス張りの壁面が陽光を反射し、青空の下で鋭く輝いている。その一角には、三つの高層棟を巨大な船の形をした構造物がつないでいた。
視線を横へ動かす。
ライオンの頭と魚の身体を持つ白い像が、海へ向かって勢いよく水を吐いていた。
僕は、まだ手に持っている目隠しを見た。
それから、もう一度、像を見た。
「……マーライオン」
隣で、天使さんがつぶやいた。
一拍置いて、その声が明るくなる。
「マーライオンよね、あれ! 本物?」
「少なくとも、一般にそう呼ばれているものだね」
八神は、どこへ行っても変わらない調子で答えた。
僕たちが座っていたのは、屋外のラウンジに置かれているような、クッション付きのソファだった。
背後へ顔を向ける。
事務所の扉はない。
歩いてきたはずの廊下もない。
そこにあるのは、青空と、白い建物と、行き交う人々だけだった。
数分前まで、僕は日本の事務所にいた。
机も、書類も、見慣れた壁もあった。
八神から目隠しを渡され、手を引かれ、いくつかの扉をくぐった。
それだけだったはずだ。
飛行機にも乗っていない。
空港を通ってもいない。
海を越えた感覚すらない。
それなのに、足元の石畳は熱を持ち、空気は異国の湿気を含み、目の前には写真でしか見たことのない景色が広がっている。
現実感が、追いついてこなかった。
僕は立ち上がった。
「八神さん」
「いい天気だ」
「場所の説明をお願いします」
「シンガポール」
「確認はできています」
東南アジア。
赤道に近い、海に囲まれた都市国家。
地理の知識は問題なく働いていた。
問題なのは、その知識が、数分前まで日本の事務所にいたという事実と折り合わないことだった。
七月の日本も十分に暑い。
けれど、ここで感じる暑さは種類が違う。
肌の表面に薄い膜を張るような湿気。
呼吸するたび、熱を含んだ空気が喉へ入ってくる。
日差しは強く、建物の影へ入っても、熱気がすぐに消えるわけではない。
制服の背中に、早くも汗が滲み始める。
「どういう理屈で、ここへ来たのですか」
「難しい話になる」
「では、なぜここへ連れてきたのですか」
「仕事だよ」
「説明に必要な部分を、毎回省略なさらないでください」
八神は僕の肩へ、軽く手を置いた。
「続きは歩きながらにしよう。車を待たせている」
そう言って、歩き出す。
僕は、その背中を見送った。
周囲では、観光客が笑いながら写真を撮っている。
誰も、僕たちがつい先ほどまで日本にいたとは知らない。
誰も、僕たちが移動の途中を一切経験していないことを気に留めない。
世界のほうが、僕の混乱など関係なく動いていた。
深く息を吸う。
熱く湿った空気が肺に入り、遠くの潮の匂いと、どこか甘い植物の匂いがした。
「天使さん。行きますよ」
「待って、あと一枚」
振り返ると、彼女は既に携帯電話を構えていた。
マーライオンを撮り、対岸の建物を撮り、空を撮る。
画面の中へ、この異常な移動を証明するものを保存しているらしい。
順応が早い。
そのとき、近くにいた観光客が彼女へ声を掛けた。
写真を撮ってもらえないか、という依頼だった。
「あ、はい。大丈夫です」
天使さんは笑顔で相手の携帯電話を受け取った。
「天使さん」
「すぐだから」
写真を撮る。
相手へ見せる。
礼を言われ、笑って返す。
そこまでは、まだよかった。
相手が何かを尋ね、天使さんが広場の向こうへ顔を向けた。
どうやら、別の撮影場所について話しているらしい。
「あっちからなら、たぶん――」
歩き出そうとしたところで、僕は制服の襟元をつかんだ。
「行きますよ」
「ちょっと、首」
「現地で新たなボランティアを始めないでください」
「道を教えようとしただけじゃない」
「僕たちも今、着いたところです」
観光客へ短く詫び、天使さんを促す。
少し先で、八神がこちらを見ていた。
口元が笑っている。
暑さとは別の理由で、頭が痛くなってきた。
◇
ハイヤーの車内は、よく冷えていた。
座席へ腰を下ろすと、天使さんが小さく息を吐く。
「涼しい……」
「暑いところがお好きなのでは?」
「好きなのと、暑くないのは別でしょ」
それは、もっともだった。
車が静かに走り出す。
窓の外を、街路樹と整った歩道が流れていった。
僕は八神へ顔を向けた。
「今度こそ、説明していただけますね」
「もちろん。そのために座っている」
移動のためではないのだろうか。
指摘する気力が惜しかったので、続きを待った。
「依頼元は、ある研究所だ。頼みたいのは試験記録の文字起こしと、データの整理。君には、内容の照合も任せたい」
「研究所?」
天使さんが窓から顔を戻した。
「医薬品や化学製品に関わる施設だよ。臨床試験に関する記録も含まれている。もっとも、君たちが扱う範囲は先方が用意する」
「それ、私にできますか?」
「専門的な照合は麗くんの仕事だ。翼くんには、別の仕事も用意してある」
八神が、薄い書類の束を差し出した。
受け取り、目を通す。
研究施設の業務概要。
公開可能な資料の範囲。
関連する販売部門での体験について。
「開発中の製品名や、試験の具体的な内容は学校では発表できない。ただし、既に販売されている製品が、どのような経路で人の手に届くか。その一部なら見せられるそうだ」
八神は天使さんへ視線を移した。
「研究所の属する企業グループには、ドラッグストアもある。ちょうど短期の補助要員を募集していてね。店での仕事と、商品が届くまでの流れを学ぶ機会を設けられる」
「じゃあ、自由研究も?」
「公開する内容を先方に確認してもらう必要はあるが、課題の条件には沿えるだろう」
天使さんの顔が明るくなった。
「それ、すごく助かります。お願いします」
早かった。
つい先ほどまで、説明もなく外国へ連れてこられた人間の返答とは思えない。
僕は書類から顔を上げた。
「少々、お待ちください」
「どうしたの、間久部くん」
「確認が済んでいません」
天使さんではなく、八神を見る。
八神は、僕の言葉を待っていた。
「ただの研究所ではありませんね」
「ただの、とは?」
「ごく一般的な研究施設から、通常の事務作業の依頼を受けた。そういうお話ではないのでしょう」
車窓の景色が変わっていく。
僕はそちらを見なかった。
「記録の文字起こしも、データの整理も、専門の人員へ依頼できます。必要なら、機密保持の契約も結べる」
「君の能力を評価しているのかもしれない」
「それなら、僕へ直接依頼すればよいことです」
書類を揃え、膝へ置いた。
「八神さんは、祓い屋です」
天使さんが黙った。
「あなたを通して依頼する理由が、どこにあるのですか」
八神の口元に、笑みが浮かんだ。
不機嫌になったわけではない。
むしろ、感心したように、ゆっくりとうなずいた。
「成長したじゃないか。麗」
「喜ぶ前に答えてください」
「以前なら、もう少し話を進められたのだが」
「日々、学ばせていただいておりますので」
八神が笑った。
僕は笑わなかった。
「核心を伏せたままでは、お返事できません。仕事の内容だけでなく、僕たちが何に関わることになるのか。それを伺っています」
「慎重なのはいい。しかし、ときには人を信じることも大切だぞ。翼くんを見習いたまえ」
天使さんが、少しだけ姿勢を正した。
僕は彼女へ尋ねた。
「天使さん。今の説明だけで、本当に問題ないと思いますか」
「……そう言われると、気になるけど」
「ほら。君が疑うから、翼くんまで不安になった」
「原因をこちらへ移さないでください」
八神は、相変わらず楽しそうだった。
車は滑らかに走り続けている。
今さら返事を保留にしたところで、目的地へ向かっている事実は変わらない。
そのことも、気に入らなかった。
「依頼の詳しい話は、先方から聞くといい」
「八神さん」
「私がすべて話しては、面白くないだろう?」
「仕事に、そういう配慮は必要ありません」
「まあ、名前くらいは伝えておこうか」
八神が窓の外へ、一度だけ目を向けた。
金色の髪に、陽が差していた。
すぐに街路樹の影が流れ、その表情を薄く覆う。
「バイオ医薬工学研究所スラップス」
僕の指が、膝の上で止まった。
「今回の依頼主だ」
空調の音が聞こえた。
天使さんが、僕を見る。
「知ってるの?」
知っていた。
数日前に目を通した情報の中に、その名前があった。
医薬、生体工学、そして通常の学術誌にはまず載らない領域にまで、研究の手を広げる巨大企業。
その名とともに伝えられていたのは、一つの成果だった。
人工霊体の生成に成功した。
真偽を確かめる手段はなかった。
詳しい資料も公開されていない。
ただ、そんなものを作ろうとする人間がいて、成功したと称する組織がある。その事実だけで、十分に距離を置く理由になった。
怪異が見える人間として。
そして、怪異にとって都合のよい身体を持つ人間として。
できれば、生涯、関わりたくない相手だった。
「……どうした、麗?」
八神が呼んだ。
僕は手元の資料を見下ろした。
文字起こし。
データ整理。
学校の自由研究。
ずいぶんと穏当な言葉が並んでいる。
「どうした。顔色が悪いよ」
誰のせいだと思っているのだろう。
窓の外では、南国の陽光が街を明るく照らしていた。
運転手は前を向き、天使さんは僕の返事を待ち、八神は微笑んでいる。
僕は、携帯電話の入ったポケットへ手を伸ばしかけた。
今から乗れる、日本行きの飛行機。
それを検索したいという衝動を抑えるのに、この日、どの試験よりも集中力を必要とした。




