第19話 2度あることは
数学、物理、化学。
試験日程を組んだ人間は、もう少し科目の取り合わせについて考えてもよかったのではないか。
僕自身に不満があるわけではない。
ただ、隣を歩く天使さんが、事務所へ着くまでに三度もため息をついたので、そう思った。
「ご機嫌よう。試験はどうだった?」
八神祓事務所の扉を開けると、雇用主は珍しく机に向かっていた。
書類を脇へ寄せ、僕たちを見る。
その微笑みは、仕事に来た助手を迎えるというより、面白い話を待っている人間のものだった。
「特に問題はありませんでした」
僕が答えると、八神は天使さんへ視線を移した。
「翼くんは?」
「……終わりました」
「それは知っている。終わったから、ここへ来たのだろう?」
「いろいろと、です」
八神が小さく笑った。
天使さんは鞄を持ち直し、少しだけ顎を上げる。
「でも、まだ週明けがありますから。現代文と古文、英語に、日本史と世界史と公民。まだ挽回のチャンスはある!」
「取り返す予定の点数が、ずいぶん多そうですね」
思わず口を挟むと、天使さんがこちらを睨む。
「これから頑張るのよ」
「昨日も、同じことをおっしゃっていました」
「昨日は昨日で頑張ったでしょ」
「ええ。その成果が出ていることを祈ります」
「今、祈るのをやめて。もう書いちゃったんだから」
八神が、机に肘をついた。
楽しそうだった。
こちらとしては、昨日の勉強時間がどの程度得点に結びついたのか、多少なりとも気になる。
特に、何度も確認した箇所については。
「数学の最後の問題は?」
尋ねると、天使さんの目が逸れた。
「……部分点って、あるわよね」
「途中式によるでしょう」
「途中までは書いたの」
「どこまでですか」
「問題文に書いてあった式」
僕は口を閉じた。
「何か言ってよ」
「週明けに備えましょう」
「その優しさ、今はつらいわ」
八神が声を上げて笑った。
「結構。仲良くやっているようで何よりだ」
「本題をお願いします」
これ以上、雇用主の娯楽に付き合う必要はない。
僕が促すと、八神は椅子の背へ体重を預けた。
「そうだな。その前に、いくつか確認しておこう」
「暑いところは平気かね?」
僕は八神を見た。
「……仕事の説明ですよね」
「そのための質問だ」
「程度によりますが、得意ではありません」
「私は平気です。寒いより好き」
天使さんは、まだこの質問を不審に思っていないらしかった。
八神はうなずく。
「英会話は?」
「日常会話くらいなら」
天使さんが答え、こちらを見る。
「間久部くんは、得意そうよね」
「英語を含めて、十六か国語ほどなら」
「……十六?」
「会話に支障がないのは、そのくらいです」
天使さんが、ゆっくり瞬きをした。
「週明けの英語、代わりに受けてくれない?」
「次の質問で失格になりそうな申し出だな」
八神が愉快そうに言った。
「訪問先のマナーを守り、節度を持って行動できるかね?」
「できます」
天使さんは即答した。
僕も答える。
「人として守るべき線は、弁えているつもりです」
「よろしい」
「ただし、こちらへも同程度の配慮を求めたいのですが」
「実によろしい」
聞き流された。
八神が立ち上がり、机の引き出しを開ける。
取り出したものを見た瞬間、僕は続けようとしていた言葉を失った。
黒い布が、二つ。
「では、これを」
差し出された目隠しを前に、天使さんも黙った。
見覚えがあった。
物そのものが同じかどうかは分からないが、少なくとも、これを渡される状況には覚えがある。
「八神さん」
「何だ」
「仕事先は、どちらでしょうか」
「着けば分かる」
「着く前に知りたいのですが」
「必要な手順なのだよ」
質問の形をしていた。
ただし、八神の手は差し出されたままで、ほかの選択肢が用意されている様子はなかった。
天使さんと目が合った。
彼女も、昨日の電話について「怪しい」と言った人間である。
ここで目隠しを受け取ることの意味は、分かっているはずだった。
「……危なくないんですよね?」
「私の言うとおりに歩けばね」
「そういう意味ではないと思いますが」
僕の指摘にも、八神は微笑んでいた。
しばらく考えたあと、僕は布を受け取った。
断る機会を逃した気がした。
おそらく、昨日から数えて何度目かの。視界を塞ぐと、事務所の空調の音が大きくなった。
布の内側は暗い。
結び目を確かめていると、八神の指が手首へ触れた。
「こちらだ。足元に気をつけたまえ」
「僕たちは、どこへ――」
「敷居がある」
言われたとおり足を上げる。
靴底の感触が変わった。
扉が開き、閉じる。
少し歩いて、また扉をくぐる。
事務所の間取りは知っている。
毎日のように掃除しているのだから、知らないはずがなかった。
けれど、歩数を数え始めてすぐ、その知識が役に立たないことだけは分かった。
「天使さん」
「いるわよ」
すぐ近くから返事がした。
その声を確認してから、僕はまた足を進めた。
空気が変わった気がする。
温度ではない。閉じた部屋特有の、音の返り方が違っていた。
「あと一歩。そこで止まって」
八神の手が、僕の腕を軽く押さえた。
「後ろに椅子がある。座りたまえ」
空いている手を伸ばすと、滑らかな張り地に触れた。
指先で位置を確かめ、腰を下ろす。
思っていたより深く、身体が沈んだ。
柔らかい。
背もたれもあるらしい。
隣で衣擦れの音がした。
「座ったかね?」
「はい。でも、これ――」
天使さんの声が、途中で揺れた。
腹の底が、ふっと持ち上がる。
落ちたのか、浮いたのか。
区別するより早く、僕は座面の端をつかんでいた。
耳の奥に、かすかな圧迫感があった。
それが消えると同時に、頬へ熱い空気が触れた。
水の音がした。
遠くから、いくつもの声が聞こえる。
足音。
風。
「もう外して構わない」
僕は目隠しへ手を掛けた。




