第17話 学生の苦悩 壱
天使さんのシャープペンシルが止まってから、三分が経っていた。
考えているのなら、構わない。
問題文を読み直すにしても、解き方を探すにしても、自分で取り組む時間は必要だ。
ただし、先ほどから彼女の視線が追っているのは、窓の外を行き来する鳩だった。
「天使さん」
「……何?」
「そちらに答えはありませんよ」
「分かってるわよ」
こちらへ顔を戻した天使さんは、いかにも今まで考えていましたという顔で問題集を見下ろした。
そして、シャープペンシルを一度だけ回す。
「これ、どこからやるんだっけ」
「二行前まで戻ってください」
「戻るの?」
「誤りを抱えたまま先へ進んでも、よい結果にはなりませんので」
「数学の話よね?」
「今のところは」
向かいの席から、控えめなため息が届いた。
図書館の閲覧室は、冷房がよく効いていた。
窓の向こうでは街路樹が強い日差しを受けている。薄いブラインドの隙間から差す光は白く、机の端に置いた天使さんの筆箱だけを、妙に明るく照らしていた。
七月。
期末試験が終われば、夏休みが始まる。
午前中の試験を終えた僕は、本来なら一人でここへ来るはずだった。
依頼されている資料の照合を進め、必要な文献を確認し、事務所へ向かう。
そういう予定だった。
ところが、帰り際に天使さんと目が合った。
その結果、今、僕の資料の隣には数学の問題集が広げられている。
「間久部くん、ここ」
「符号が逆です」
「まだ何も言ってないんだけど」
「そこを尋ねるおつもりだったのでは?」
「……そうだけど」
消しゴムを動かし始めたのを確認して、僕は手元の複製資料へ視線を戻した。
不鮮明な墨の跡。
欠損した文字。
前後の記述と一致しない年号。
余白へ候補を書き込み、別紙の翻刻と照合する。
研究機関から届いた古文書の解読依頼だった。持ち出しを許可された資料だけでも、確かめるべき箇所は相応にある。
こうした仕事は、嫌いではない。
少なくとも、読めないからといって古文書が机に突っ伏すことはなかった。
「間久部くん」
「今度は何でしょう」
「やる気が出ない」
僕はペンを止めた。
天使さんは問題集へ片肘をつき、頬を手のひらに預けていた。声量こそ図書館にふさわしいものだったが、主張は明瞭だった。
「出してください」
「それで出たら苦労しないでしょ」
「では、出るのを待たずに進めてください」
「厳しい」
「一緒に勉強するとおっしゃったのは、天使さんです」
「教えてくれるとも言ったじゃない」
「教えていますよ。先ほどから、同じ箇所を三度ほど」
天使さんが口を閉じた。
反省したのかと思ったが、その視線は壁の時計へ移っていた。
僕も時間を確認する。
昼食には、少し遅い。
「……何か食べに行きますか」
天使さんが顔を上げた。
「いいの?」
「この状態で続けても、効率が悪いでしょう」
「そうよね。気分転換って大事だもの」
問題集が閉じられた。
実に素早かった。
◇
いつから、こういうことになったのだろう。
図書館を出て、天使さんと並んで歩きながら考える。
八神の事務所で働くようになってから、生活は忙しくなった。
掃除、会計、商品管理。依頼に必要な資料の整理と、できれば関わりたくない現場への同行。
それに学校と、以前から受けている仕事が加わる。
そこまでは、まだ分かる。
分からないのは、休日の買い物や、放課後の勉強や、川沿いのごみ拾いまで予定に組み込まれるようになったことだった。
買い物では荷物を持った。
勉強では問題を教えた。
ごみ拾いでは、川岸にしゃがんでいたものに話しかけられた。
最後の件は、天使さんには伝えていない。
拾うものを増やされても困る。
一度、八神には抗議した。
すると、あの人は書類から顔も上げずに言ったのだ。
『翼くんと仲良くな』
僕の訴えは、その一言で処理された。
「何、難しい顔してるの?」
「休日の使い方について、少々」
「間久部くんって、放っておくとずっと仕事してそうだものね」
「実際、仕事はありますので」
「だからって、そればっかりじゃよくないでしょ」
天使さんは、前を向いたまま続けた。
「八神さんにも頼まれてるし」
僕は彼女を見た。
「何をですか」
「間久部くんのこと。よろしくしてやってくれるか、って」
なるほど。
僕の知らないところで、話がついていたらしい。
「……僕の承諾がなかったようですが」
「友達と出かけるのに、そんな大げさなもの要らないでしょ」
言い終えるより先に、天使さんが歩調を速めた。
通りの向こうに、目的の店の看板が見えている。
「あそこ、まだランチやってるかな」
「時間によるのでは」
「ちょっと早く歩きましょ」
返事を待たず、彼女は先へ行った。
友達。
ずいぶんと簡単に使う言葉だと思った。
僕は鞄を持ち直し、その後を追った。
◇
遅い時間のおかげか、ファミリーレストランは空いていた。
窓際の席へ案内され、注文を済ませる。
天使さんはドリンクバーから戻るなり、冷えたグラスを両手で包んだ。
「生き返る……」
「それは何よりです」
「間久部くん、夏休みどうするの?」
「唐突ですね」
「もうすぐじゃない。予定くらいあるでしょ」
「天使さんは?」
尋ね返すと、彼女は指を折り始めた。
「最初の週は、地域の子ども向けの催しのお手伝い。それから商店街の清掃があって、部活の助っ人が何日か」
「所属していない部の?」
「人数が足りないんだって。あと、アルバイト。友達と夏祭りにも行く約束してる」
「お忙しいことで」
「夏祭り、屋台が結構出るのよ。去年は途中で雨が降ってきちゃって、あんまり回れなかったから、今年はちゃんと見たいのよね」
運ばれてきたハンバーグを前に、天使さんは言葉を切った。
店員へ礼を言い、ナイフとフォークを手に取る。
「で、間久部くんは?」
「おそらく、仕事です」
「……それだけ?」
「八神さんのところの仕事に加えて、先ほどの資料もありますし。ほかにも、夏の間に進めておきたい依頼が何件か」
「何件かって、ああいう難しそうなのが?」
「内容はそれぞれ違いますが」
僕も食事へ手をつけた。
「図書館と仕事場を往復しているうちに、終わると思います」
天使さんのフォークが止まった。
「社畜みたいね」
「もう少し、言葉を選んでいただけませんか」
「じゃあ……すごく働く人」
「意味を薄めただけでは」
天使さんは困ったように笑い、切り分けたハンバーグを口へ運んだ。
僕は水を飲んだ。
仕事だけの夏休み。
口にしてみれば、いつもと変わらない予定だった。
依頼されたものを調べ、考え、形にして返す。
報酬を受け取る。
次の仕事へ取りかかる。
それでよかった。
予定が埋まっていることを、窮屈だと思った覚えもない。
自分の時間を、自分で決めて使っている。それ以上の何かを求める理由がなかった。
なのに、今は少しだけ気が重かった。
夏祭りに行きたいのかと聞かれれば、そういうわけでもない。
人は多いし、騒がしい。人ではないものまで集まる場所に、わざわざ足を運ぶ必要もないだろう。
それでも、図書館と仕事場の往復だけで終わる夏を、以前ほど当然には受け止められなくなっていた。
最近、こういうことが増えた。
授業の合間や、帰り道。
誰かの何でもない話を、少し長く聞いてしまう。
仕事の進捗とは関係のない出来事が、その日の記憶に残る。
生活に張りができた、とでも言うのだろうか。
向かいを見る。
天使さんは大きく切ったハンバーグを頬張っていた。
目が合うと、何か言おうとして、口が塞がっていることに気づいたらしい。しばらく一生懸命に咀嚼してから、ジュースへ手を伸ばす。
「……何?」
「いえ」
考えるのをやめた。
少なくとも、今、結論を出す必要はない。
「間久部くんも、誰かと遊びに行けばいいのに」
「予定が合えば、そのうち」
「誰と?」
僕は黙った。
天使さんも黙った。
数秒後、その表情が少しだけ柔らかくなった。
やめてほしかった。
「……私、空いてる日なら付き合うわよ」
「お気遣いなく」
「そんな遠慮しなくても」
「していません」
「同い年の友達、ほかに――」
「ところで、天使さん」
僕はナイフを置いた。
「高校生活において、夏休みをどう使うかは重要だそうですね」
「……急に何?」
「進路によっては、早い段階から準備が必要になりますし。苦手分野を克服するにも、まとまった休みはよい機会でしょう」
彼女の視線が、わずかに泳いだ。
「それは、まあ」
「夏休みの課題もあります」
「まだ始まってないじゃない、夏休み」
「始まる前から把握しておくべきでは?」
天使さんはしばらく僕を見たあと、卓上のメニューへ手を伸ばした。
「……パフェ、食べようかな」
「問題集のときと、対応が同じですね」
「甘いものを食べたら、考えられる気がするの」
それで解決するなら、数学の成績に悩む人間はもう少し少ないはずだった。




