第16話 宴の終わりとはじまり
「さて。食事にしよう」
重い面持ちの後、立ち上がった八神が発した言葉は、あまりに普通の言葉だった。
さっきまで張りつめていたものが、その一言でほどける。
グレイが残りの酒を飲み干した。
「賛成だ。さすがに腹が減った」
サーシャもグラスを置く。
八神が僕たちを見る。
「何が食べたい?」
天使さんが、すぐに口を開いた。
「お肉がいいです」
迷いがなかった。
「できれば、普段食べられないような、ちょっと豪華なもの」
「いいじゃないか」
グレイが笑った。
「よく焼いたものか、それとも――」
「本人に店で選ばせればいい」
サーシャが遮った。
声は相変わらず平坦だったが、目元が少しだけ緩んでいた。
八神も笑っている。
「聞いたか、麗。こういうときは、あれくらい素直でいい」
「比較対象にしないでください」
「君は?」
僕は少し考えた。
空腹だった。
眠る前には、何も欲しくなかった。
今は温かい料理の匂いを想像するだけで、胃が動く。
「……僕も、お肉で結構です」
「遠慮深いな」
八神の言葉に、天使さんがこちらを向いた。
「ほかに食べたいものがあるなら、言えばいいでしょう」
その顔を見て、僕は気づいた。
この人が何かを望むと、八神は面白がって応じる。
グレイも同じらしい。
サーシャさえ、拒む様子がない。
理由は分からない。
けれど、今はそこまで考えなくてよかった。
「天使さん」
「何?」
「先ほどのラウンジで、デザートの写真もご覧になっていましたよね」
「あ。あれ、おいしそうだった」
「あと、魚料理も評判がよいそうです」
「せっかくだから、そっちも少し食べてみたいわね」
「賢明な判断だと思います」
八神が、僕を見た。
僕は目を逸らさなかった。
その左目が、細くなる。
「知恵がついたじゃないか」
「日々、学ばせていただいております」
グレイが声を上げて笑った。
天使さんだけが、少し不思議そうな顔をしていた。
◇
会場を出ると、廊下の空気は涼しかった。
背後では、まだ競売の話をする声が続いていた。
金額。
落札者。
巨大な竜。
そのすべてが、扉を一枚隔てるだけで、少し遠くなる。
前では、グレイがサーシャへ隣の席を勧めていた。
サーシャは「座席は店が決める」と答えている。
八神はそのやり取りを聞きながら、いつものように笑っていた。
天使さんが、僕の横へ並ぶ。
「もう、本当に大丈夫そうね」
「ええ」
「よかった」
短い言葉だった。
僕は内ポケットへ、そっと手を当てた。
石がある。
取り出してはいないのに、そこに収まっていることが、はっきり分かった。
目を閉じると、草原が浮かびそうだった。
金色の髪。
口元の笑み。
声にならなかった言葉。
けれど、次の瞬間には、天使さんが献立の話を始めていた。
「デザート、何種類くらいあるのかしら」
「多ければ、盛り合わせをお願いしてはいかがですか」
「そんなのできる?」
「八神さんでしたら、何とかしてくださるのでは」
前を歩く八神の肩が、わずかに揺れた。
聞こえているらしい。
僕は、少しだけ歩調を速めた。
眠れなかった一か月。
奪われた休日。
知らない国と、見たこともない競売。
言いたいことは、まだ山ほどある。
それでも、今は腹が減っていた。
今日は僕の誕生日らしい。
ならば、一食くらいは、遠慮をせずに食べてもいいだろう。
天使さんに、もう一品頼んでもらう言い方を考えながら、僕はレストランへ足を向けた。




