第15話 敗北の後に見るものは
席には三人いた。
八神だけではない。
グレイは椅子を一脚増やしてもらったらしく、ゆったりと腰を下ろしていた。手には、琥珀色の酒が入ったグラス。
サーシャの前には、水が置かれている。
八神は、舞台を見ていた。
こちらへ顔を向けない。
文句も、嫌味もない。
僕はかえって不安になった。
「戻りました」
「ああ」
短い返事だった。
八神の口元を見る。
笑っていた。
声は出していない。
唇の端だけが、わずかに持ち上がっている。
機嫌が悪いのか、よいのか。
少なくとも、第一部で主催者に三百億と告げられたときの笑いとは違っていた。
僕も舞台へ目を向けた。
そこに、竜がいた。
最初は、全体を捉えられなかった。
舞台の上へ、あまりに多くのものが重なっていた。
黒い外骨格。
折り畳まれた翼。
太い脚。
湾曲した爪。
長い首の先で、顎がわずかに開いている。
牙が見えた。
頭には、あの角が続いていた。
第一部で見せられたものが、本当に先端にすぎなかったことを、ようやく理解した。
剥製。
そう説明されている。
確かに、動かない。
息もしない。
けれど、舞台の中央へ置かれたそれを、ただの物として眺めることができなかった。
眼が、残っていた。
照明を受けて、表面が光る。
その光の位置を確かめながら、僕は無意識に半歩、横へ動いていた。
何も起きない。
当然だ。
それでも、胸の奥に小さな冷たさが残った。
「大きい……」
天使さんが呟いた。
今回は、僕も同じ感想だった。
舞台へ、一人の男が上がってきた。
赤い髪。
長い髪が、歩みに合わせて背で揺れる。
僕は息を止めた。
エントランスで見かけた人物だった。
あのときと同じ黒い衣服。
あのときと同じ、柔らかな微笑み。
男は竜の傍らへ立った。
巨大な剥製の前に立てば、普通は人間の小ささが目立つ。
なのに、不思議と、そうは見えなかった。
「本個体を落札されました、聚楽様でございます!」
じゅら。
女性が告げた音を、僕は頭の中で繰り返した。
男は軽く会釈した。
大げさに手を振ることも、誇らしげに胸を張ることもない。
歓声を受け取って、静かに頭を下げる。
それだけだった。
赤い髪が肩から落ち、顔を上げると、元の位置へ戻った。
その視線が客席を巡る。
こちらまで見たのかどうかは、分からなかった。
僕は目を逸らせなかった。
男はスタッフに促され、舞台の奥へ去っていった。
歓声は、まだ続いていた。
オークションが終了し、席へ戻っても、僕はすぐには座れなかった。
三人の間に、何かがあった。
言い争っているわけではない。
黙り込んでいるわけでもない。
グレイは時折グラスへ口をつけ、サーシャは舞台と客席を交互に見ている。
八神は、あの薄い笑みを残したままだった。
先ほどまで、何を話していたのだろう。
誰が競り合ったのか。
いくらまで値が上がったのか。
尋ねたいことはあった。
けれど、そのどれも、今ここで口にしてよい話題とは思えなかった。
「八神さん」
天使さんが言った。
僕は彼女を見た。
止めるには遅かった。
「あれ、いくらで売れたんですか?」
八神が、ようやく舞台から目を離した。
「小さな国の国家予算の半分くらいかな」
さらりと答えた。
天使さんが首を傾げる。
「国家予算って……一年分の?」
「そうだな」
「それ、いくらくらい?」
彼女の視線が僕へ来た。
僕は答えなかった。
国による。
当然、幅がある。
けれど、今その幅を数字へ直すことに、何の意味があるだろう。
第一部では、二百を三百へ書き直した。
今度は、書く場所そのものを変えなくてはならない気がした。
「間久部君?」
「……考えない方が、食事がおいしくいただけます」
「そんなに?」
僕は頷くにとどめた。
グレイが、小さく息を漏らした。
笑ったのかもしれない。
サーシャは水を一口飲んだ。
八神は、舞台奥の扉をもう一度見た。
聚楽が消えた扉だった。
その横顔を見て、僕は背筋へ冷たいものを感じた。
負けて悔しがっている顔には見えない。
では、何を面白がっているのだろう。
考えていると、八神が立ち上がった。
「さて。食事にしよう」
あまりに普通の言葉だった。




