第12話 幕間 思惑をのせて
三人が立ち去ってからも、天使さんはしばらく僕の腕を離さなかった。
「顔、真っ白だったわよ」
「今は、少し楽です」
「本当に?」
「ええ」
嘘ではなかった。
不思議なことに、先ほどまで身体に貼りついていた重さが、少しずつ薄れている。
呼吸が深くなる。
足元も、もう揺れていない。
天使さんに支えられて、安心したのだろうか。
そう考えてから、内ポケットへ手を当てた。
布の隙間から、水色の光がかすかに見えた。
取り出すほどではない。
覗き込んだときには、もう分からなくなっていた。
「部屋へ戻りましょう」
僕が言うと、天使さんは少し迷った顔をした。
「うん。そうね」
「何か?」
「さっき、係の人に聞いたんだけど。上に、景色のいいラウンジがあるんだって」
彼女はすぐに続けた。
「無理にとは言わないわよ。休める席もあるって聞いたから、少し気分が変わるかと思っただけ」
僕は窓の外を見た。
水面が明るかった。
部屋へ戻れば、そのまま眠ることになるだろう。
せっかく北欧まで来たのだから、と考えたわけではない。
ただ、誰かの言葉に従うことが、それほど億劫ではなくなっていた。
「……少しだけでしたら」
天使さんが頷いた。
「疲れたら、すぐ戻りましょう」
それは、こちらの台詞にしたいところだった。
◇
昇降機へ向かう途中、コンサートホールへ続く通路の前に人だかりがあった。
上階席へ通じる扉の近くだ。
数人の男女が、一人の人物を囲んでいる。
揉めている様子ではない。
道を空け、言葉をかけ、相手の反応を待っている。
その中心に、赤い髪が見えた。
鮮やかな色だった。
赤茶でも、銅色でもない。
長い髪が肩から背へ流れ、その下の黒い衣服との境目が、やけにはっきりしていた。
横顔が見えた。
整った顔だった。
男とも女とも取れる輪郭。
それでも僕は、男性だろうと思った。
理由はない。
そう感じただけだ。
その人物が、顔をこちらへ向けた。
目が合った。
僕は足を止めかけた。
相手は驚かなかった。
唇がわずかに動き、柔らかな微笑みになる。
初対面の相手と視線が合ったときの、ごく自然な会釈に似ていた。
けれど、目を逸らすまでの間が、少し長かった。
傍らの者が何かを告げる。
男はそちらへ向き直り、開かれた扉の奥へ入っていった。
赤い髪が見えなくなる。
「間久部君?」
天使さんに呼ばれた。
「何かあった?」
「……いいえ」
僕は歩き出した。
知らない人物だった。
会話もしていない。
それなのに、昇降機の扉が閉まるときまで、あの微笑みが頭に残っていた。
◇
スカイラウンジは、思っていたより静かだった。
大きな窓の向こうに、街と水辺が広がっている。
一部は外へ出られる造りになっていて、開かれた扉から穏やかな風が入ってきた。
僕たちは、その近くの席へ案内された。
椅子へ腰を下ろすと、身体の力が抜けた。
舞台から遠い。
競り上がる数字も聞こえない。
誰も、僕の内側を覗き込もうとしない。
それだけで、ずいぶん違った。
「改めて。お誕生日、おめでとう」
天使さんが言った。
僕は顔を上げた。
「……ありがとうございます」
「朝、言ってくれればよかったのに」
「尋ねられませんでしたので」
「そういうのは、尋ねられなくても言っていいの」
彼女は少し考えてから、付け足した。
「でも、今日はそんな暇もなかったわね」
昼間の道で黒服を倒した人物の言葉とは思えない。
僕は運ばれてきた紅茶へ手を伸ばした。
温かかった。
口に含むと、先ほどまで冷えていた喉が緩んだ。
「それで、八神さんって、普段からあんな感じなの?」
「あんな感じ、の範囲によります」
「話を聞かない。説明しない。急にすごいことをする」
「おおむね、そのとおりです」
「あなた、大変じゃない」
「今ご理解いただけて、何よりです」
天使さんは真剣な顔をした。
そこから、質問が始まった。
出勤は何時か。
帰りは何時か。
学校のある日も働くのか。
食事の時間はあるのか。
仕事内容は、どこまでなのか。
「掃除と会計だけじゃないのね」
「品物の管理もあります」
「危ないものも?」
「不用意に触れなければ」
「触ったらどうなるの?」
「品物によります」
彼女の眉が、だんだん寄っていく。
僕は説明する内容を慎重に選んだ。
夜の地下道で一人待たされたことも、廃病院で背後の足音を数えたことも、話すべきではない。
ただ、話さないようにするほど、彼女は別の方向から尋ねてきた。
「昨日は何時に帰ったの?」
「日付は変わっていました」
「それで朝は学校に来て、昼から連れてこられて、あのオークション?」
「ええ」
「そりゃ、顔色も悪くなるわよ」
天使さんが溜息をついた。
心配されている。
それは分かっていた。
けれど、彼女が何か言うたびに、返事を組み立てる時間が少しずつ長くなっていった。
風が入ってくる。
紅茶の香りが、薄く流れる。
椅子は、ひどく座り心地がよかった。
「今度、ちゃんと休み方を話し合った方がいいわ」
「……そうですね」
「間久部君?」
「聞いています」
「目、閉じてたけど」
「考えていただけです」
さっきも使った言い訳だった。
天使さんの顔を見ると、信じてもらえていないことがよく分かった。
僕も、信じてもらえるとは思っていなかった。
「部屋へ戻りましょう」
今度は彼女が言った。
僕は頷いた。
頷いたはずだった。
気づくと、彼女が席を立ち、僕の鞄を持っていた。
◇
部屋までの道は、ところどころしか覚えていない。
昇降機の鏡。
廊下の花。
天使さんが、係員へ礼を言う声。
自分の足で歩いているつもりだったが、右腕にはずっと支えがあった。
「もう少しだから」
「分かっています」
「分かってる人は、壁の方へ歩かないの」
方向を直される。
扉が開いた。
居間を抜け、寝室へ入る。
大きなベッドが見えた。
それを見た途端、身体が勝手に目的地を決めた。
「あ、待って。上着だけでも――」
天使さんの声がした。
返事をしようとした。
けれど、膝が先に曲がった。
支えてくれていた腕を離すのが遅れる。
柔らかなものへ身体が沈んだ。
「きゃっ……!」
すぐそばで、声がした。
淡い青が視界へ入る。
天使さんまで引き込んでしまったらしい。
謝らなければ。
そう思ったが、口が動かなかった。
「ま、間久部君……!」
顔が近かった。
彼女の頬が赤い。
腕が上がった。
握られた拳が見えた。
今のは、怒られても仕方がない。
僕は目を閉じた。
衝撃は来なかった。
代わりに、長い息が聞こえた。
「……本当に寝ちゃうの?」
返事ができない。
手の中にあった布が、そっと抜き取られた。
ベッドがわずかに揺れる。
首元へ指が触れた。
タイが緩められ、襟の締めつけが消えた。
「ちょっとだけ、動いて」
促されるまま、肩をずらす。
上着が引き抜かれた。
靴が片方ずつ脱がされる。
自分でできます、と言うつもりだった。
けれど、身体はもうその仕事を手放していた。
「こんなになるまで、我慢しなくていいのに」
声が近くで落ちた。
額に触れていた髪が、指先で払われる。
その手は、黒服の男を倒したときとは、まるで違う動き方をした。
何か、旋律が聞こえた。
低く、小さな声。
歌詞は聞き取れなかった。
子守り唄だと気づいて、少しだけ気恥ずかしくなった。
僕は、子供ではない。
そう言うには、ひどく心地がよかった。
「おやすみなさい」
その言葉だけが、はっきりと届いた




