1話 街道の男
夜が明ける前に、目は開いている。
いつからそうなのか、本人ももう数えていない。床の中で夜明けを待つことはせず、起きて、着替え、髪を結い、戸を開ける。東の稜線はまだ黒く、井戸端の水甕に星が残っていた。
水汲みが、一日の最初の仕事である。
井戸の縄は夜露を吸って冷たく、釣瓶の落ちる音が、眠っている街道にひとつだけ響く。桶に八分目。零さないためではなく、汲みすぎないための量である。担いで戻る道すがら、水面はほとんど揺れない。揺れない水面に、明けきらない空が映って、それはまだ夜の色をしていた。
薬草を洗い、竈に火を入れ、湯が沸くまでのあいだに前日の薬研の目を検める。その頃にようやく空が白み、軒先の雀が鳴き交わし始めた。
薬研の音で、街道筋の家々は朝を知った。ごり、ごり、と規則正しく、雨の日も欠かさない。あの音が止んだら先生に何かあった時だと、村の者は冗談めかして言う。冗談で済んでいるのは、沈曉がこの街道に居着いてからこちら、一度も止んだことがないからだった。
薬を求める客は、朝のうちに来た。畑へ出る前に寄っていくのである。
「先生、爺さまの咳がまだ抜けんのだわ」
「夜と明け方では、どちらが重いですか」
「明け方。起き抜けにひとしきり」
「では、前のものにひと味足しましょう。熱い湯で溶いて、寝る前に。……三日分で足りますか」
「足りる足りる」
量り、包み、表に用法を書いて渡す。それだけの商いである。包み紙の表書きは癖のない楷書で、飲み終えた紙を捨てずに伸ばして取っておく家が、村には何軒かあった。字が良いから破れた窓に貼るのだと聞かされた時、沈曉は少し困った顔で礼を言った。以来、その家の分だけ、心持ち字が小さい。
勘定はいつも言い値で、まけろと言われればまけた。
「先生、今日は五文しか持っとらん」
「では、五文で」
「……あんた、それではお店が立ちゆかんよ」
「足りております」
まけた当人が呆れて説教を始めるのだから、世話がない。隣の婆に至っては、勘定のついでに縁談まで持ち込んできた。
「いい年をして独り身はいかんよ、先生。三つ先の村にな、器量のいい後家さんが」
「婆さん。湿布は、いつも通り七枚ですか」
「……七枚」
「切らさぬよう、少し多めに包んでおきます」
遮ったのではない。話が二つ同時に来ると薬の方から先に片付ける、それだけの男である。婆は湿布の包みを抱えて帰り、それでも三日にあげず様子を見に来た。
札書きも、商いのうちである。
戸口の厄除け、竈の神の札、年の変わり目の書き替え。日取りを問われれば見て、軽い祓いを頼まれれば断らない。街道筋の村々にとって、先生は薬も商う道士だった。道士であることを、沈曉は隠したことがない。隠しているのは、それより奥のことだけである。
札を書く時、沈曉の手は急がない。
硯に水を落とし、墨を磨る音が、しばらく店先に続く。筆が紙に下りると、頼みに来た者は、たいてい口を噤んだ。話しかけてはいけない気がする、と皆が言う。一画が終わるまで、筆は一度も迷わず、一度も速くならない。書き上がった札は、どの家のものも同じ字で、同じ黒さだった。ありがたみがあるよ、と村の者は言う。何のありがたみなのかは、誰も言葉にできなかった。
昼は薬草の始末に費える。筵に広げて干し、日の傾きに合わせて裏を返し、乾いたものから刻んで、篩にかける。返す刻限も刻む厚みも決まっていて、狂ったことがない。棚の生薬は引き出しごとに名札が下がり、並びは一年を通して変わらなかった。変わらないものだけで組み上げられた家である。
薬草を刻む間、店先を子供が覗くことがある。
刻む手元を、飽きずに見ている。見られていることを、沈曉は知っていて、手を止めない。止めないまま、刻み終わった甘草の欠片を、時々、縁台の端へ置いた。置くだけである。子供が取っていくのを、彼は見ない。翌日もまた、同じ場所に小さな影が立った。
昼下がりに、旅の武人が店先に立った。
北へ行くという剣客で、物腰が荒い。傷薬をくれ、上等なのをだ、と銭を鳴らして言う。沈曉は棚から二種を出し、片方を勧めた。
「そっちは安い方だろう」
「効く方です」
剣客は鼻を鳴らし、それでも勧められた方を取った。沈曉は包みにもうひとつ、小さな貼り薬を黙って添える。
「頼んでおらんぞ」
「左の膝に。先を急がれるなら」
剣客の顔から、初めて剣呑なものが引いた。庇っているつもりの、本人にもなかった膝である。余分に銭を置いていこうとするのを、沈曉は受けなかった。武人は妙な顔で笑って、北へ歩き去った。
街道は人通りが絶えない。行商、巡礼、江湖の者。道を訊かれれば教え、傷薬を求められれば売った。どこから来てどこへ行くのか、誰も尋ねないし、尋ねられない。それがこの道の気安さだった。沈曉は店先から、去っていく背が街道の照り返しに紛れるまで見送った。
夕餉は一汁一菜である。
竈の前に円座がひとつあり、沈曉はいつも火に背を向けて座った。火の始末は誰より手早い。燠の照り返しが土間の壁に揺れているあいだ、彼はそちらを見ない。見ないままで、爆ぜる音の数だけは正確に聞いていた。
部屋の隅に、古い葛籠がひとつ置いてある。
朝の掃除のたび、蓋の埃は払われた。払われるだけで、この家に来てから一度も開かれたことがない。中身を尋ねた者もいない。薬売りの家の葛籠など、誰も気に留めないのである。
夜、灯りを一つに落とすと、家の中で動くものは、その灯りの影だけになる。沈曉は帳面をつけ、翌日の包みを揃え、それが終わると、しばらく手を膝に置いて座っていた。何をするでもない。土間の暗がりの中で、葛籠の輪郭だけが、他の影より少し濃い。彼はそちらを見ない。見ないことに、十年をかけて慣れた。
灯を消すのは、村のどの家よりも早い。早寝の先生、と村では言われている。消えた灯りの内で眠っているのかどうかまでは、誰も知らない。
その日は、隣村に届け物があった。
寝付いた年寄りの煎じ薬を十日分。頼まれた日に届けると決めているから、日のあるうちに家を出た。梅はもう終わりかけで、風が変わると、乾いた土の匂いに薄く緑が混ざる。畦の水が温み始める頃だった。
道々、田の面に空が映っている。
水を張ったばかりの田は、山も雲も逆さに湛えて、風が渡るたび、その景色ごと細かく震えた。畦で子供が二人、泥の中の何かを追っている。沈曉が通ると、先生、と声だけが飛んできた。手を上げて応える。それだけの往き来である。それだけの往き来を、この街道で十年、彼は続けてきた。
年寄りの家は、村はずれの一軒である。土間に入ると、煎じ薬の古い匂いに、藁と、日向の布団の匂いが混ざっていた。枕元で嫁に手順を説く。朝と晩、食事の前に。苦がるようなら、飴をひとつ含ませてから。年寄りは半分眠りながら聞いていて、帰り際、布団から手だけを出して沈曉の袖を取った。
枯れ枝のような指である。その指が、袖布を確かめるように、二度、緩く握り直した。
「先生の手は、温いなあ」
「……それは、何よりです」
答えるまでに、一拍あった。一拍あったことに、気づいた者はいない。
温い、と言われた手を、沈曉は帰り道で一度だけ開いて見た。夕日を受けた掌は、掌の色をしていた。それ以上のことは、何も書かれていない手である。彼は指を畳み、歩を進めた。
嫁が、礼にと蒸し餅を包んでくれた。断りかけて、やめた。断ると却って角の立つ近さの村である。受け取って、懐に入れた。布越しの温みが、帰りの間ずっと胸のあたりにあった。
帰り道は西日が長い。
街道は乾いて、轍の影ばかりが濃い。日暮れまでには戻れる刻限で、沈曉の歩幅はいつもと変わらなかった。
その足が、止まった。
道の端に、黒いものが点々と落ちている。
乾いた土の上で、そこだけ色が濃い。しゃがんで指先を近づけ、触れる手前で引いた。まだ新しい。夕方の光は物の色を奪っていくが、これの黒さは、光のせいではなかった。
点は間を詰めながら街道を横切り、草むらの方へ続いている。間が詰まる、ということの意味を、彼は知っている。歩幅が縮んでいるのである。踏み倒された草が、人ひとり分の幅で倒れたまま、起き上がっていなかった。
風が、草の上を渡った。
倒れた草だけが、揺れなかった。
沈曉は立ち上がり、街道の先と後ろを見た。人影はない。日は稜線にかかり、自分の影だけが東へ長かった。
それから草を分けて、跡を辿った。
草いきれの中に、鉄気の匂いが薄く混ざっている。跡は浅い窪地へ下り、灌木の陰で途切れていた。
若い男が、倒れ伏していた。
旅装に、腰の剣。背中の衣が大きく裂けて、下の土が黒く染みている。裂き方が、刃のものではなかった。刃は、こういう裂き方をしない。こういう裂き方をするものの名を、彼はいくつか知っている。知っていることを、いま数え上げる必要はなかった。
沈曉は膝をつき、男の首筋に指を当てた。
まだ、息がある。
浅く、速い。だが、途切れてはいない。若さが、糸の細りを踏み止まらせている脈だった。
日は、稜線に半ば沈んでいる。
家まで、半里。戻って戸締りをして、見なかったことにする道が、そこにはあった。行き倒れも、行き倒れを見過ごすことも、街道では珍しくない。誰も彼を責めない。
沈曉は、その道を考えなかった。
考えなかったことに、彼自身は気づいていない。気づかないまま、薬箱を下ろし、男の傷の具合を検め始めていた。西日が、二人の影を一つに繋げて、草の上へ長く伸ばしている。




