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天理の石  作者:
序章
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1/3

序章 乱


 火は、稜線の向こうにあった。

 麓の農家へ薬を届けた帰りである。届け先の婆は床についたきりで、枕元には孫が二人、代わる代わる団扇を使っていた。礼にと持たされた蒸し餅の包みが、懐でまだ温かい。戸口まで送りに出た嫁が、夜道に気をつけなさいよ、と言った。その声を背に受けて、少年は提灯を断った。この山の道なら、爪先が覚えている。

 山道の入り口で、足が止まった。

 空を仰ぐ。夜の底が、赤い。

 祭の篝にしては高すぎ、野焼きの季節でもない。雲の腹が下から染まって、稜線の形だけが黒く抜けていた。月がどこにあったのか、後になっても思い出せない。あの晩の空にあった色は、あれひとつきりである。

 あの赤の下に、玉雲観(ぎょくうんかん)がある。

 包みが手から落ちた。拾わなかったことに気づくのは、ずっと後のことになる。


 使いは持ち回りで、その晩はたまたま彼の番だった。行きたくないと言えば、誰かが代わってくれたはずの、その程度の用である。

 夕餉の後、厨で兄弟子に呼び止められて、行きがけに麓の水車小屋へ寄って粉を受け取ってこい、と頼まれた。忘れるなよ、と念を押された。分かりました、と答えた。それが、山の上で交わした最後の言葉になる。

 そういうことを、人は選べない。

 最後の言葉も、最後の膳も、最後にくぐる門も、それと知らされずに通り過ぎて、後から数えることしかできない。

 少年は駆け出した。


 石段は、三百と六段ある。

 七つの年に数えた。数え終わるまで隣で歩を合わせてくれた人がいて、麓と山門とで段の高さが違うわけを、その人は登りながら教えてくれた。人の脚は登るほど草臥れる、だから上の段ほど低く刻んである。刻んだ者の名は残っていないが、心遣いだけは残っている――そういうことを、あの人はいつも急がない声で話す人だった。

 その三百六段を、少年は数えずに駆ける。

 夜気は冷えて、吐く息だけが熱い。段の縁の苔の滑りも、雨の日に水の走る筋も、脚が勝手に避けていく。中腹の松の枝が張り出すあたりで一度風が抜けて、それきり、山が妙に静かだった。夏でもないのに、と思う。夏でもないのに、虫の音がない。夜の山の鳴くものが、みな口を噤んでいる。

 いつもの夜なら、と考えるともなく考えていた。いつもの夜なら、暮れ六つの鐘のあと、山の上には決まった順で灯りがともる。まず正殿、それから庫裏と薬房、最後に回廊の角の常夜灯。白壁がその灯りを受けてほのかに浮かび、黒瓦の連なりは山の稜線と見分けがつかなくなる。風向きによっては麓の集落まで香の匂いが降りることがあって、村の者はそれを山の匂いと呼ぶ。物心のつく前にこの観へ上がった少年にとって、それは家の匂いだった。観は、家族の数だけ灯りのある場所である。

 半ばを過ぎたあたりで、匂いが変わった。

 木の焼ける匂いに、別のものが混ざっている。薬房の棚を端からすべて火にくべたような、幾種類もの薬草と丹砂の焦げる匂いだ。薬房の当番を何年もやってきた少年に、それが何の匂いかは分かる。当帰の焦げる匂いは甘く、黄連は苦い煙を立てる。何年もかけて棚に納めてきたものの名が、匂いのまま、順不同に降ってくる。なぜその匂いがするのかだけが、分からない。

 息が肺の奥で音を立てる。脚は止めなかった。

 残りの百段を、少年は覚えていない。覚えているのは、常夜灯のことである。石段を登り切る手前、回廊の角の常夜灯が、いつもなら木々の間に見えてくる。夜道を帰る者のために、観でいちばん遅くまで残される灯りだった。それが、ない。代わりに、すべてが明るかった。灯り一つを探した目に、山全体の火が応えた。


 山門は、開いていた。

 見上げる扁額に、火明かりが揺れている。玉雲観の三字は開祖の手になると聞かされ、正月には皆で梯子をかけて埃を払ってきた。その字が、いま下から炙られて赤い。

 風鐸が鳴っていない。この門をくぐって、あの音のしなかった夜を、少年は知らない。風は吹いている。頬を炙る熱を運ぶほどには、確かに吹いている。それでも軒の風鐸は黙ったままで、代わりに火の爆ぜる音だけが、観の声のように高い。

 少年は敷居の前で一度だけ立ち止まり、それから、またいだ。

 中庭が明るかった。夜なのに、影の置き場がないほど明るい。正殿の屋根はすでに骨だけになって、梁の落ちるたび、火の粉が柱のように立ちのぼる。朝な夕なに皆で磨いた石畳の上を、熱でうねる大気が水のように流れ、回廊の朱は端から黒へ塗り替えられていく。中庭の真ん中には、腰の高さの銅の香炉が据わっている。倒れもせず、いつもの場所に、いつものかたちで。ただ、立てる者のいなくなった香だけが絶えていた。

 三十幾人が寝起きする山の上で、人の声がひとつもしない。誰かの名を呼ぼうとして、最初に浮かんだ名が誰のものだったのか、それすら声にならなかった。

 鐘楼の影が、火明かりの中に黒く立っている。

 変事の折には、あの鐘を撞くのだと教わっていた。麓まで届く音である。撞かれた夜は、一度もなかった。今夜も、鐘は鳴らないまま、撞くべき者たちの上で黙っていた。誰も、鳴らす暇さえなかったということを、その沈黙が語っている。

 前庭に、倒れているものがあった。

 ひとつではない。

 少年は跨がなかった。跨げなかったので、遠回りをする。遠回りをしながら、顔は見ない。数えない。数えてはいけない気がした。数えてしまえば、それが本当のことになる気がした。

 草鞋の裏に、乾いていないものを踏む感触があった。少年は下を見ずに歩いた。

 薬房の前を過ぎる。

 戸は倒れ、棚が火の中に透けて見えた。端から順に、引き出しの名札が燃えている。今朝、彼が水をやった薬草の筵も、裏を返す刻限を待たずに火の中である。当番を始めて何年にもなる。棚のどこに何があるかを、彼は目を閉じても言えた。言える棚が、いま音を立てて崩れていく。

 少年は、そこでも足を止めなかった。

 止めれば、二度と動けなくなる気がした。


 丹房の前に、人が立っていた。

 焔を背にして、剣を提げている。

 あの人だった。

 少年が最初に見たのは、顔である。煤も、返り血も、あったのかもしれない。見えていたのは顔だけだった。書き取りの筆の持ち方を直してくれる時の。熱を出した晩に、額へ手を置いてくれた時の。静かな、いつもの顔。

 それが、一番分からなかった。

 燃える観も、倒れている兄弟子たちも、分からないなりに目の前にある。だがあの顔だけは、この庭のどこにも繋がっていない。昨日の夕餉の膳の向こうにあった顔が、そのまま、火の前に立っている。

 火のはぜる音の向こうで、あの人の周りだけが静かだった。

 焔が渦を巻いて夜気を吸い上げていくのに、あの人の袖は、ほとんど揺れていない。提げられた剣の切っ先から、雫がひとつ、石畳へ落ちた。落ちる音は、聞こえなかった。聞こえないのに、少年の目はその一滴の落ちる速さだけを、妙にはっきりと覚えている。

 少年は名を呼ぼうとした。

 声は出ない。喉は動いたはずだった。ただ、音にならない。

 あの人が、こちらを向いた。

 目が合った、と思う。合ったのかどうか、本当のところは分からない。あの目に自分が映っていたのかどうか、十年経っても、少年には分からないままである。

 剣が上がるのを、少年は見ていた。

 見ていて、動かなかった。動けなかったのか、動かなかったのか、それも分からない。逃げるという考えが浮かばなかったことだけは覚えている。あの人から逃げるという形の動きを、彼の体はそれまでの生涯で一度も覚えたことがない。

 あの人が、間合いへ入った。

 足音は、しなかった。歩いたはずである。歩かなければ、届かない。それなのに、風の動いた気配だけがあって、次の瞬間にはもう、剣の間合いだった。稽古場の隅から幾度も盗み見た、あの静かな剣の運びである。美しいと思っていた。美しいと思っていたものの内側に、自分が立っている。

 一太刀だった。

 熱より先に、胸の奥で何かが砕ける感触がある。骨ではない。もっと内側の、名を知らないものだ。砕けた瞬間、体の中を巡っていた温かいものが、行き先をなくして止まるのが分かった。井戸の底へ落ちる桶の、綱の切れる音に似ていた。汲むものだけが、暗いところへ落ちていく。

 痛みは遅れて来る。来た時にはもう、地面が近かった。

 倒れながら、少年はまだ、あの人の顔を見ていた。剣を引いたあの人が何を見ていたのかは、傾いでいく視界の外である。

 何か言おうとした。今度も、言葉にならない。

 あの人も、何も言わなかった。

 足音が遠ざかったのかどうか。火の音に紛れて、それも聞き取れない。


 そこから先を、少年は覚えていない。


 覚えているのは、断片がひとつきりである。

 頬の下で、土が冷たい。火の熱はもうどこか遠くにあって、体の右半分だけが、濡れたように重い。石畳ではない。草の匂いのする土である。どうやってそこまで動いたのか、それも覚えていない。ただ、爪の間に土が入っていたことだけを、後になって知った。

 近くに、誰かが倒れている気配があった。

 誰なのかを、確かめる力はもう残っていない。ただ、独りではないということだけが、冷えていく体のどこかで、微かな灯りのように点っていた。それが慰めであったのか、そうでなかったのか、決められるようになるまでに、少年は十年を要することになる。

 夜が薄れて、山の稜線が白い。その白い空から、白いものが降ってくる。

 雪だ、と思った。

 雪の降る月ではないことは、分かっている。それでも、雪だと思った。降りしきるそれは音もなく袖に積もり、触れたそばから黒く崩れる。灰だと分かってからも、少年は雪だと思い直すことを、やめなかった。

 目を閉じる、その時まで。


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