第2話 客
男は、見かけより重かった。
背負うと、湿った熱が背中に伝わってくる。息は浅いが、乱れてはいない。鍛えた体である。家までの半里を、沈曉は休まずに歩いた。
土間に筵を敷き、灯りを二つに増やす。裂けた衣を鋏で開くと、傷は左の肩から腰へ斜めに走っていた。深いが、腱までは達していない。裂き方は、やはり刃のものではない。爪に似て、爪にしては間隔が広い。沈曉はそこで手を止めず、考えることを後に回した。
考えは、手を遅らせる。いま要るのは、手際だけである。
焼酒で洗い、針を通す。若い体は針にも唸らなかった。気を失ったままでいてくれる方が、縫う側には都合がいい。針目は細かく、間隔は揃い、一針ごとに指が同じ弧を描く。土間の灯りの下で、その手だけが、別の生き物のように正確だった。
膏薬を厚く延べ、晒しを巻き、血で駄目になった衣は竈の脇に畳んで置く。捨てるかどうかは、本人が決めることである。
男の顔に、汗が引いた跡が白く残っていた。歳の頃は、二十四、五。眉のあたりに、まだ何かを疑うことを知らない造作がある。それが、いまは苦痛に固く寄っていた。
薬を煎じる匂いが、夜更けの土間に満ちた。
表はすっかり夜である。時折、夜風が戸板を軽く叩き、灯りの炎が身じろぎをした。街道の夜は早く、犬の遠吠えが一度、それきり物音が絶える。土鍋の中で薬湯の煮える音だけが、低く続いていた。
熱は、夜半過ぎに上がった。
うわ言は切れ切れで、意味を結ばない。すぐ戻る、と男は言った。待ってろ、とも言った。誰に向けた言葉かは分からない。ただ、どの断片も、戻ろうとしていた。
行きたい、でも、帰りたい、でもない。戻る、である。戻るという言葉を使う者には、戻るべき場所と、そこで待つ者がある。熱に浮かされた頭が選ぶ言葉に、噓はない。
沈曉は手拭いを替え、匙で薬湯を含ませ、円座に座り直す。竈の燠に背を向けた、いつもの位置である。男の呼吸を数えるともなく数えるうち、灯りの油が一度尽きて、注ぎ足された。
夜半、男の手が、宙を掴んだ。
何かを取り落とした者の手つきだった。掴んで、閉じて、力が抜ける。それが二度あって、二度目の後、沈曉はその手の上へ、掛け布を重ねた。
明け方、熱が引いた。
引いたあとの眠りは深い。戸の隙間から差す光が土間を斜めに切り、埃がその中をゆっくりと昇っていく。男が目を開けたのは、日がだいぶ高くなってからである。土間には裂いた晒しが重ねてあり、その朝に限って、薬研の音は鳴らなかった。
薬研を挽けば、病人が起きる。起こさないという判断を、村の者は知らない。あの音が止んだら先生に何かあった時だ――冗談がひとつ、この朝だけ、誰にも知られずに本当ではなくなっていた。
目覚めは静かだった。天井を見て、二度三度と瞬きをして、それから男は首だけ動かして土間を見回す。見知らぬ梁、薬棚、竈。ひとつずつ確かめていった目が、最後に沈曉のところで止まった。
目が合って、男は身構えなかった。
江湖を歩く者は、見知らぬ場所で目覚めれば、まず枕元の得物を探す。この男の手は、剣ではなく、自分の背の晒しへ先に動いた。触れて、手当ての跡を確かめて、それから、確かめた相手を見た。
「……あんたが、拾ってくれたのか」
「通りがかっただけです。傷に障りますから、そのままで」
白湯を差し出す。男は身を起こしかけて傷に阻まれ、それでも肘をついて半身を起こした。器を受け取るより先に、頭が下がる。
「楊文という。白澗観の門下だ。この恩は必ず――」
「白湯が冷めます」
口上の途中で腰を折られて、楊文は一瞬、言葉の置き場を失った顔をした。恩義の口上は、江湖の礼である。受け取られなかった礼を、この男はどう畳めばいいのか知らないらしい。結局、畳まずに、器を受け取った。
楊文は器を両手で包み、少しずつ飲んだ。飲みながら、器の縁越しに沈曉を見る。
「……あんた、名は」
「沈曉と申します。しがない道士です。いまは、薬を商って暮らしています」
「道士様か。……どうりで」
何がどうりでなのか、楊文は言わなかった。介抱の手際のことか、この家の静かさのことか。それきり器に目を戻して、また少し飲んだ。
「……ここは、どのあたりだ」
「白澗の山からは、南へ十里ほど下った街道筋です」
「十里」
自分の足がどう運んだのか、思い出せない顔である。
「俺は、どれくらい眠ってた」
「見つけたのが昨日の夕方です。一晩と、半日」
一晩と半日、と楊文は繰り返した。繰り返した途端、器を置いて起き上がろうとし、傷が引き攣れたのだろう、息が短く詰まる。沈曉は手のひらで、軽くその肩を押し戻した。
「傷を検めます。話は、それからでも」
晒しを解くと、縫い目は保っていた。膏薬を替えるあいだ、楊文はされるがままでいる。手当てを受け慣れた体だった。門派で育った者は、傷の前で素直になる。目だけが、竈の脇に畳まれた自分の衣に向いていた。血で黒く染まり、背が大きく裂けた衣である。
その目の動きを、沈曉は背中で知っていた。
知っていて、衣を片付けなかった。見えない場所へ隠せば、この男は話の糸口ごと失う。糸口は、本人の目の届くところに置いておくものである。
巻き終わる頃、楊文がぽつりと言った。
「……あんた、あれを見て、何も聞かないんだな」
「話したくなれば、話すでしょうから」
楊文は短く息を吐いた。笑おうとして、笑いにならなかった音である。
沈曉は自分の湯呑みにも白湯を注ぎ、手を添えて、待った。
「薬の買い出しで、山を下りてた。二日だ。たった二日、留守にしただけだった」
そこから先は、順序が壊れていた。
戻ったら山門が開いていた、と言い、その前に麓で妙な噂を聞いたのだ、と言い直す。門の中は静かだった。静かなわけがない、朝はいつも誰かしら怒鳴っている――そう言ううちに、声が低くなっていく。庭に兄弟子がいた。名を呼んだ。呼んだら、振り向いた。
「振り向いたんだ。……なのに」
器の中で、白湯が震えている。
「息をしてなかった。息をしてないのに、立って、歩いてた」
沈曉の手が、湯呑みの上で止まった。
注ぐでも持ち上げるでもない形のまま、指が動かない。楊文は自分の器を見つめていて、気づいていない。
「囲まれて、気づいたら山門の外にいた。剣は――」
腰の剣に、楊文は目を落とす。
「抜けなかった。あの顔に向けて、抜けるわけがない。逃げて、走って、どこをどう来たのかも覚えてない。……門下の癖に、剣も抜かずに逃げた」
「抜いていたら、あなたは今ここにいません」
沈曉の声は低く、平らである。楊文は何か言い返しかけて、やめて、残りの白湯を飲み干した。空になった器を、両手で持ったままでいる。
それきり、土間が静かになった。表を荷車が通り、鶏が鳴き、日が筵の端まで伸びてくる。土間の梁で、埃がまた光の帯を昇っていた。沈曉は口を挟まない。楊文の話は前後し、途切れ、同じところへ戻り、それでも少しずつ進んで、最後に山門の外の斜面で終わる。そこから先の記憶を、楊文は持っていない。
語り終えた男の器は、とうに空である。
空の器を、両手が離さない。離せば、話が本当になるとでも言うように、指が縁を握っている。その指の白さを、沈曉は見ていた。見ていて、何も言わなかった。慰めの言葉というものを、彼は幾つか知識として知っている。どれも、この指には届かない。届かない言葉を並べることは、届く沈黙より、罪が重い。
「戻る」
と、楊文は言った。
空の器が、ようやく手から離れて、筵の上に置かれた。置いた手が、そのまま拳になる。
「歩ければ、明日にでも。放っておけるか。あそこには、まだみんなが――」
言いかけて、言葉の行き先が失せる。いる、と言うのか。いた、と言うのか。どちらの言い方も、もう正しくない。
正しい言い方が見つかるまで、この男は、あの山をそのままにしておけない。それだけのことが、失せた言葉の跡に残っていた。
「三日は塞がりません」
「三日も待てるか」
「傷が開けば、山の前で倒れます。それでは、戻ったことになりません」
楊文は黙った。黙って、器の底を見ている。頼める義理ではないことくらい、この男は分かっているのだろう。会って一夜の相手に、頼んでいい話でないことも。
土間に、昼下がりの光が満ちている。
竈の燠はとうに白く、薬棚の名札が、それぞれの持ち場で静まっていた。変わらないものだけで組み上げてきた家である。十年、そのように組んできた。組み方を知っているのは、組んだ者だけである。
沈曉は自分の湯呑みを置いた。中の白湯は、とうに冷めている。
息をしていないものが、立って、歩く。その言葉が、湯呑みを置いた手の下で、まだ低く鳴っていた。知っている音である。葬ったはずの棚の、いちばん奥の引き出しが、遠くで軋んだ音だった。
視線が一度だけ、部屋の隅の葛籠へ流れて、戻った。
「――案内して欲しい」
先にそう言ったのは、沈曉の方だった。




