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反転世界の鏡像界調整機構《K.M.A.》  作者: 比古狭霧


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3/5

第3話 反転する正義

その日は良く晴れた日だった。


小さな期待すら生まれそうもない

閉塞感漂う日常、父親の医療費や母親の看病にも

ようやく出口の光が差したように感じた。


昨日の越境で異常反応の翌日、

K.M.A.本部に呼び出された透は、

受付で挨拶を済ますと、資料室へと案内された。


そこには、霞野と主任と呼ばれる人物がいた。

御堂みどうと書かれたIDカードを首から下げている。


壁には鏡像界の協定文書が並び、

空気は冷たく整っている。


御堂は透を一瞥すると、

用意された資料が置かれた席に通した。


透はその束を見つめながら、

給料の高さ、自身の適合率の高さ、

現実世界の弱者達から感謝をされる仕事に、

小さな期待と失くした矜持が生まれかけていた。


御堂は新たに数枚の資料を取り出し、

透に見えるよう1枚ずつ机に並べた。


「突然ですが、鏡野さん。

 鏡像界で裁かれるのは、

 どのような人間だと思いますか?」


透は率直に答える。


「現実世界で凶悪な事件を起こした人間……

 とかですかね」


これまで何度も説明して来たかのように、

手慣れた口ぶりで御堂は解説を続ける。


「現実世界での人格はそれで正しいのですが、

 実際に処理するのは“鏡像界の人格”です。

 現実世界の人格や記憶はリンクせず、

 人格情報は共有されません。

 しかし、『存在』だけは互いに対応しています」


透は軽く頷いた。

言葉としての意味は分かるが、実感はない。


「今、鏡野さんが答えた

 現実世界で凶悪な事件を起こした人間。

 そのような人間の鏡像体は、

 反転した世界でどのような生活を送っていると思いますか?」


現実世界なら間違いなく警察に捕まり、

刑務所に収監されているだろう人間。


犯罪が犯罪で無くなる?

しかし「犯罪そのもの」が無くなるのなら

"反転"にはならない……


犯罪者の人物像を反転してみる……

透には具体的なイメージがつかめないでいた。


御堂は見透かしたように、

透から見て左から1枚目の資料を示した。


「まずは、

 こちらのケースから

 見ていきましょう」


現実世界で連続殺人を犯した男の写真。

透もニュースで見たことがある。


SNSでも多くの人間が

極刑を望んていたのを覚えている。

透も少なからず、彼らに同調していた。


御堂は持っていた別の資料を重ねる。


「この人物は、

 先ほど鏡野さんが答えた人物に近いケースです。

 鏡像界での同一人物がこちらです」


そこには、現実世界のイメージとはかけ離れた、

白衣を着て子どもに絵本を読んでいる男が写っていた。


柔らかい表情。

子どもたちに囲まれ、笑っている。


白衣の胸には、

感謝状のミニチュアが

いくつも縫い付けられていた。


子どもたちは男の腕にしがみつき、

一人の少女は「先生ありがとう」と

書かれた手紙を掲げて笑っている。


およそ同一人物とは思えぬ姿形に

透が反応に困っていると、

御堂は資料へと視線を落としたまま続けた。


「彼のように鏡像界で人格が反転すると、

 小児科医として13人の命を救うケースもあります」


透は言葉を失った。

鏡像側で処理の対象になる人物は

現実世界から見ると善人に他ならない。


御堂は構わず、

さらに別の資料を示す。


「次はこちらのケース」


現実では強盗殺人で逮捕された男。

粗暴で、反省の色もないと報じられていた。


重ねられた資料によると、

鏡像界の同一人物は、

災害救助隊員として表彰されていた。


瓦礫の中から子どもを抱き上げている写真。


泥だらけの顔で、

それでも誰かを探し続けている姿。


透は喉が乾くのを感じた。

理解は出来ても理解を拒絶したかった。


御堂はさらに別の資料を指し示した。


「こちらは現実世界で

 “被害者”として扱われた女性です」


新たな資料が重ねられる。


そこでは、

鏡像界の同一人物が企業の内部告発を行い、

“共同体を乱した者”として裁かれていた。


透は小さく息を吸った。

胸の奥が、ゆっくりと沈んでいく。


御堂は静かに言った。


「鏡野さん。

 我々の依頼の発端となるのは現実世界です。

 しかし、実際に処理対象となるのは

 鏡像界に存在する同一個体です。

 その際に、鏡像界で善人か悪人かは、

 選定条件には含まれません」


その言葉は、

事務処理のように言葉を連ねた。


透は文字通り、

言葉を失くしたまま動けなかった。


霞野が口を開く。


「鏡野さん。大丈夫です。

 私も最初は同じような反応でした。

 一旦、休憩にしましょう。

 自由にしてくれていいので、

 この部屋で少し休んでいてください」


そう言い残し、

2人は資料室を出ていった。


資料室に静寂が落ちた。

空調の音すら遠く感じる。


机の上には、透の価値観を歪めた

現実と鏡像界の“同一人物”の資料が並んでいる。


透は1枚を手に取った。

そこには、子どもを抱いて笑う小児科医の姿。


その笑顔が、胸に刺さる。


病室の父の横顔が浮かんだ。

あの治療費を払えるなら。

そう思って応募した。


それなのに──


透は目をこすった。

疲れている。


昨日に引き続き、

今日も色々ありすぎた。


資料を閉じようとしたが、指が止まった。

閉じることができなかった。


開かれたままの写真では、

子どもを抱いた男が笑っている。


その笑顔から、

どうしても目を逸らせなかった。


冷静になろう。

透は深呼吸、軽いストレッチをしながら

部屋を見回す。


壁時計を見る。

まだ2人は戻って来そうにない。


時計は進んでいる。


なのに、

秒針だけ一瞬止まる。


カチ


……


カチ


その瞬間だけ

部屋中の鏡が微かに軋む。


部屋の隅に立てかけられた姿見。

資料室の備品だろうか。

さっきまでは気にも留めなかった。


透は無意識にそちらへ視線を向けると、

鏡の中には部屋だけが映っていた。


椅子も机もある。

資料もある。


ただ、


透だけが映っていなかった。

息が止まる。


次の瞬間──

水色の髪が映った。


あの少女がそこにいた。

現実の空気とは違う、静かな光をまとって。


「……透くん」


透は声を出せなかった。


少女は資料を見ない。

事件にも触れない。

ただ、透だけを見ていた。


その視線は、一度も机の上へ向かわない。

まるで、その紙切れに何の価値もないように。


「苦しい?」


その一言で、胸の奥が揺れた。


透は何も言えなかった。

言葉にした瞬間、何かが壊れそうで。


少女は小さく笑った。


「そうだよね」


少しの沈黙。


「初めて知った人は、みんなそうなる」


透は視線を落とした。

資料の文字が滲んで見える。

少女は続けた。


「私は違う」


透は顔を上げた。


「……違う?」


少女はゆっくり頷いた。


「私は、最初からこっちで生きてるから」


その言葉は、

説明ではなく“事実”として落ちてきた。


透は喉の奥がひりつくのを感じた。


「……向こうの人を……

 僕には殺せない」


少女は少しだけ悲しそうに笑った。


「“殺す”って言うんだ」


否定しない。

肯定もしない。


ただ、透の言葉を受け止める。


「透くんは、そう思ったんだね」


透は息を吸った。

胸の奥が冷たくなる。


「……違うの?」


少女は少し考えるように目を伏せた。

そして、静かに言った。


「私はね」


「誰かを救うことだよ」


その言葉は、

優しくて、

残酷だった。


「でも、人を……」


「うん」

「だから救えるの」


透は何も返せなかった。


少女は透を見つめたまま、

静かに続ける。


「透くんは、苦しいって思えた」


「そのままでいてね」


そして、微笑んだ。


「だから、あなたを待ってた」


鏡面が静かに揺れ、少女の姿が消えた。


部屋は静かだった。


透は資料を手に持ったまま、

閉じることもできなかった。


開かれたままの写真では、

子どもを抱いた男が笑っている。


その笑顔から、

どうしても目を逸らせなかった。


透は資料から目を逸らした。

その時だった。


部屋の姿見鏡に、

もう誰もいないはずの少女が

一瞬だけ映っていた。


少女は口だけを動かした。


『次は、本物の向こう側で』


瞬きをした時には、

もう誰もいなかった。

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