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反転した世界で、今日も僕は善人を殺す──鏡像界執行官  作者: 比古狭霧


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第2話 鏡の向こう側

──ずっと、待ってたよ。


鏡に触れた瞬間に聞こえた声が

透の頭から離れない。


だが、部屋の空気はあまりにも静かだった。


「あの……

 今、誰かの声で

 "待ってた"と聞こえたんですが、

 あれは一体……」


思わず漏れた言葉に、

担当者の男性は瞬きを一度だけして、

透を見つめる。


「声、ですか?

 私どもは特に何も喋っておりませんが」


受付の女性も同じ反応だった。

2人とも、本当に何も聞こえていない顔をしている。


聞こえた声と言葉を伝えると、

端末を確認しながら、担当者が眉をひそめた。


「越境安定鏡から

 “音声反応”……?

 そんな事は今までに一度も……」


受付の女性が小声で何かを告げた後、

担当者の表情がわずかに強張った。


「鏡野様、申し訳ありません。

 予定していた説明は一旦中断します。

 別室で上席が改めて

 対応させて頂きたいそうです」


予定変更ではなく、中断。

その言い方に、透の頭に不採用の言葉がよぎる。


「……あの、何が起きてるんですか」


「申し訳ございません。

 そちらも含めて説明させて頂きますので、

 どうぞこちらへ」


担当者はそれ以上何も言わず、

廊下の更に奥へと案内した。


透の心境と反転するように

白い廊下は静かで、

空調の音だけが微かに響いている。


透は歩きながら、さっきの声を思い返していた。


──ずっと、待ってたよ。


あれは確かに、自分に向けられた声に感じた。

優しく、懐かしさすら感じる響き。

だが、聞き覚えはない。


担当者が立ち止まり、会議室の扉を開けた。


「こちらでお待ちください。

 すぐに上席が参ります」


白い会議室。

壁には「鏡像界協定」と書かれた

文書が額に入れられている。

机の上には何も置かれていない。


部屋の奥に通され、

落ち着かない呼吸を整えようとしたその時。

扉にノックの音が響く。


入ってきたのは、50代ほどの男性だった。

スーツは皺ひとつなく、表情は無機質。

だが、その目だけが透を“観察するように”見ていた。


「鏡野透様ですね。

 私は霞野かすみのと申します。

 本日はバタバタさせてしまい、

 申し訳ありません」


透は立ち上がりかけたが、霞野は手で制した。


「どうぞ、おかけください。

 先ほど鏡野様が体験された現象について、

 データベースにて過去の記録と

 照合しておりました」


「現象……?」


霞野は端末を開き、淡々と告げた。


「実は、越境安定鏡を通して、

 “音声反応”が確認された事はありません。

 機構設立以来、初めての事でした」


透は息を呑んだ。


「……初めて?

 でも、さっきは確かに聞こえました」


霞野はまっすぐに、

透の目を見つめながら続けた。


「越境安定鏡による適合率測定は、

 一時的に鏡像界の波長と接続するだけで、

 鏡像界と相互干渉できないはずなのです」


「念のため確認しますが……

 鏡野様には、

 その声に心当たりがあったのでしょうか?」


透は迷った。

言うべきか、黙るべきか。


だが、嘘をつく理由もない。


「……女の人の声が聞こえました。

 どこかで聞いたことがあるような、

 懐かしい感じは……しました」


霞野の目がわずかに細くなった。


「そうですか……

 やはり」


霞野は端末を閉じた。


「まずは簡単に、

 鏡像界について説明しましょうか」


透は息を飲んだ。


「鏡像界は、現実世界と“反転した世界”です。

 国家間協定は存在しますが、一般には非公開。

 現地法があり、越境には適合者のみが許可されています」


淡々とした説明が続く。


「……僕は、

 その……適合してるんですか?」


霞野は短く答えた。


「この部屋にお呼びしたのが、

 その答えになるかと思います」


透は胸の奥底で静かな、

だが、確実に鼓動の振動を感じた。


「いや、申し訳ない。

 我々は色々と慣れてしまっていますが、

 実際にご覧いただく方が早いかもしれません」


霞野は立ち上がった。


「先ほどは適合率を測るだけでしたが、

 観察越境用に設定を変更すれば、

 実際に鏡像界を見ることが可能です。

 鏡像界を見てみたくありませんか?」


透は小さく頷いた。


「……少しだけ」


反転した世界が見れる。

興味がない人間などいないだろう。


霞野は端末に何かを入力し、

短く指示を飛ばした。


「観察越境の準備を。

 遮断値は通常より低めの設定に」


受付の女性が頷き、

別の職員が静かに部屋へ入ってくる。


霞野は静かに頷いた。


「どうぞ、こちらへお進みください」


“越境安定鏡”が、

部屋の中央に運ばれると

霞野が説明を続ける。


「観察越境は、視覚的反応のみです。

 接続は特殊な情報転送システムを使用し、

 我々の存在を鏡像界側からは認知できません」


霞野は職員に目配せをした。


「遮断値、設定完了しました。

 観察越境、起動します」


部屋の照明が落ち、

鏡面だけが淡く光を帯び始める。


透は鏡の前に立たされた。


「鏡野様。観察越境中、

 何かしら異常を感じたら

 すぐにお知らせください。

 こちらで遮断します」


透は喉を鳴らした。


「……はい」


鏡面は水面のように、

静かに、深く、不規則に揺れている。


吸い込まれるように、

透はゆっくりと手を伸ばし、

指先が鏡面に触れた。


その瞬間──


共鳴反応を合図に、

鏡面が指先を中心に渦を撒きながら

徐々に加速しながら収束していき、

霞野の声が遠くなる。


「観察越境──開始」


透の視界が急反転した。


左右が入れ替わると同時に、

遠近感が歪むような、

耳鳴りとも違う低い振動が頭の奥を揺らす。


透は思わず目を閉じた。

だが、聞こえて来る現実世界と同じ音は、

徐々に心を落ち着かせた。


──そこは、確かに“世界”だった。


空は薄い逆光に包まれ、太陽の位置を見失う。

影は透の足元から“逆方向”に伸びている。


道路標識は左右反転し、

信号は青なのに誰も渡らない。


透は足元を見た。

地面は確かに“地面”だが、

踏みしめる感覚が一瞬遅れて返ってくる。


そのとき。


前方から老人が歩いてきた。

互いに干渉できないと分かっているが

思わず道を空ける。


老人は透の横を通り過ぎ──

その先にいた若い男に深々と頭を下げた。


「本当に……本当にありがとうございました」


若い男は困ったように笑う。


「いや、そんな……大したことじゃないですよ」


老人は涙を浮かべて続けた。


「息子を殺してくださって……

 あの子も、ようやく救われました」


老人は何度も頭を下げ、

若い男は照れたように肩をすくめている。


「いやぁ……あれくらいなら、誰でも……」


「いえ、あなたで良かったんです。

 本当に……本当に、ありがとうございました」


老人は満足そうに去っていく。

若い男はその背中を見送り、

何事もなかったかのように歩き出した。


透は震える声で呟いた。


「……なんだよ、それ……」


霞野の声が遠くから響く。


『鏡野様、精神負荷が上昇しています。

 深呼吸を──』


その瞬間。


透の視界の端で、

“何か”が揺れた。


鏡面のような揺らぎ。

水面のような波紋。


透は反射的に振り向いた。


そこに──

水色の髪が揺れた少女が立っていた。


声だけ聞こえた、あの少女に間違いない。

透はそう直感した。


少女は透を見つめながら微笑んだ。


「また、会えたね」


透は息を呑む。


「……君は、僕を知ってるの?」


少女は答えない。


ただ、

懐かしいものを見るように、

優しく目を細める。


「ようやく、ここまで来てくれたんだね」


透は一歩近付こうとした。


その瞬間。


ピィーーーーーッ!!


鋭い警告音が辺りに響いた。


「接続異常!

 情報流量が急激に上昇しています!」


霞野の声が遠くから聞こえる。


「強制遮断しろ!

 今すぐだ!」


少女は少しだけ寂しそうに笑った。


「まだ、だめなんだね」


透は叫びながら、

思わず手を伸ばす。


「待って!」


少女は首を横に振る。


「大丈夫。

 すぐにまた会えるよ。

 今度は——こちら側で」


鏡面が大きく波打ち始めると同時に、

意識が身体の外側にすり抜ける。


透の視界が白く弾け、

気がつくと、床へ膝をついていた。


息が苦しい。

鼓動が止まらない。


霞野が珍しく表情を崩していた。


「……あり得ない」


職員もモニターを見つめたまま固まっている。


「遮断まで8秒、通常の4倍です!

 しかも、鏡像界側からの干渉……

 逆接続です!」


部屋に沈黙が落ちる。

霞野は透を見た。


数秒迷ったように見えた後、

静かに口を開く。


「鏡野様。

 補助員として、

 本日付で採用させて頂きたい。

 これはあなたの為でもあります」


透は顔を上げる。


「ただし、

 配属先はこちらで

 再検討させていただきます」


駅のホームでベンチに座ると、

帰りの電車を待ちながら、

透は今日の事を思い返していた。


飲み干した空き缶で手を温めていると、

ホームのアナウンスが流れた。


自販機横のゴミ箱に近付くと、

その上に備え付けられた鏡がふと目に入る。


ガラスに映る自分の鏡像を見つめると、

ほんの少し遅れて目が合った後、

それは微笑んだように見えた。


そしてそれは、ゆっくりと、

水色の髪の少女へ姿を変える。


「……またね」


電車の風が透の背中を横切る。


鏡の中には、

透しか映っていなかった。

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