鐘が鳴る前に選べること
第三層の橋の中央に、新しい守り手が立っていた。
アインではない。第一層のブリキの像とは別に、アインの初期出力を元に橋用に作った、黒鉄の訓練像だ。大きさは百二十センチ。低出力。盾を構え、剣を下げ、橋の真ん中で石像のように動かない。
「ここの鐘ですが」
雫は橋の欄干に取り付けた小さな鐘を、杖で軽く叩いた。低く柔らかい音が、闇に広がる。
「これが退避。橋の上の人が、元の位置に戻れる合図です」
次に、高い音。
「これが開始」
最後に、短く尖った二連音。
「これが危険。直後に、像の大技が来ます」
欄干の下に細い光の筋が走り、音に合わせて色が変わった。退避は緑、開始は白、危険は赤。
「戦闘中に音が分からなくなる人がいる、と言っていたので。光と振動も、合わせました」
「いつ言った」
「先週です。創真さん、覚えてないですよね」
覚えていなかった。
*
試験は翌日、B級のテスターに任せた。
柊という三十二歳の剣士で、落ち着いた物腰の男だった。初めての橋に慎重に足を乗せる。
鐘が低く鳴る。柊は動きを止めた。
高い音。踏み込んだ。
訓練像が盾を構え、剣を振る。低出力でも、一撃の圧は並ではない。柊は半歩下がって受け流し、突きを返した。盾が弾く。
そこで、二連音が鳴った。
柊の動きがぴたりと止まり、次の瞬間、体が床に伏せた。頭上を大剣が風を切って通る。欄干が悲鳴を上げ、粉塵が舞った。
「うまい」
思わず声が漏れた。
勝負は八分続いた。最後は柊が、危険音の直後に像の脇へ回り込み、盾の縁を一度叩いて勝った。
橋の端に戻ってきた柊は、息を弾ませて笑っていた。
「面白い。戦ってる間に、音で相手の動きが読める。次の危険の予告があるから、避けるか攻めるか選べる。選べるから、負けても納得できるな」
雫が、息を吸った。目がゆっくり見開かれる。
「いまの、聞きましたか」
「聞いた」
雫はそれ以上、何も言わなかった。両手を握っているだけだった。
*
その夜、管制室で雫は鐘の音を調整していた。
小さな部屋に二人きり。モニターに三つの音の波形が並んでいる。雫が小さく口ずさんだ。低い音から高い音へ、また低い音へ。調整の確認かと思ったが、聞き覚えのある旋律だった。
「それ、鐘の音と同じだな」
「あ」
雫が口を押さえた。
「癖なんです。落ち着くとき、いつも」
「いい歌だ」
「歌じゃなくて、ただの鼻歌です」
「俺は、好きだ」
言ってから、自分の言葉に気づいた。
雫が俯く。耳の先まで赤い。
「……波形、もう一度確認しますね」
「ああ、頼む」
二人ともモニターを見たまま、何も言わなかった。鼻歌は、小さな声で続いていた。
*
予約表に、見覚えのある所属が並んでいた。
『蔵田 宗介 天嶺ギルド所属 A級』
三人組が顔を見合わせた。栞がぼそっと言う。
「あー。偵察だ」
「正面から予約してくるあたり、まだましなほうだな」
拒否はできる。でも拒否する理由がない。
「規則通りに入場する人は、客だ」
当日、蔵田は予定の時刻ぴったりに現れた。三十代半ばの、肩幅の広い男だった。笑顔は愛想がいいのに、目だけが、石室の壁と柱と継ぎ目を一つ残らず測っている。
「天嶺から参りました。見学をかねて、挑戦させてください」
「どうぞ。条件は入口に」
「ありがとうございます。写真は?」
「禁止です」
蔵田の笑顔が、一瞬だけ止まった。
「構造を撮られると、攻略より先に複製される。それが嫌なんです」
「当然ですね」
肩をすくめて、蔵田は入場門に足を乗せた。
俺は区画の外で、読みを立てた。蔵田は偵察だ。勝つために来たのではない。見るために来た。見る人間は、床を見ない。壁と梁と継ぎ目を見る。橋の下の斜めの梁を見たら、そこで足が止まる。
止まった足の下に、アインを置く。
*
結果から言う。蔵田は四十秒で送還された。
橋は、足取りの速さで渡りきった。訓練像は一太刀で抜けた。A級としての動きは悪くない。速い。重心の運びもきれいだった。ただ、橋の中ほどで、蔵田の視線が欄干の下へ逸れた。
斜めに刻んだ梁の、その継ぎ目を、彼は目で追った。
橋を渡った先の石室に、アインが立っていた。蔵田が最後の一歩を踏み出した瞬間、黒鉄の騎士が前に出た。それだけで床が低く震えた。
蔵田は反射的に剣を構えた。目はまだ、石室の壁の厚みを測っていた。足元の線は、見ていない。二歩目。アインの盾の縁が蔵田の剣を押し下げる。三歩目で大剣が脇腹の横を通り抜け、風圧だけで蔵田の体が浮いた。
次の瞬間、蔵田は入口の帰還座で、呆然と座っていた。
「…………え」
「お疲れさまでした」
雫が水を差し出した。
「いま、何が」
「四十秒で送還されました。盾に一撃は届いていません。二十四時間は再挑戦できません」
蔵田が頭を抱える。
「馬鹿な。守護者が、あんなに——」
言葉の続きは出てこなかった。苦いものを噛んだ顔のまま、彼は規定の参加報酬の魔石を受け取った。高純度の石だった。
*
蔵田は出口で、一度だけ立ち止まった。
懐から端末を取り出して、石室の方へ掲げかけた。
雫が、こほん、と咳をした。
蔵田は端末を持った手を下ろし、にこやかに頭を下げて、坑道を出ていった。
「氷室さんが見たら、どう思うでしょうね」
栞が楽しそうに言う。
「黒神山は利益源だと思う」
「それが狙い?」
「狙いじゃない」と俺は言った。「客として来て、客として帰っただけだ」
「やさしい」
「嫌がらせの種を撒く必要は、ないだろ」
栞は頷いてから、にやりと笑った。
「でも、あの顔は、ちょっと気持ちよかった」
「それは否定しない」
「創真さん」と、雫が小声で言った。「あの人、帰り際に、橋の梁を三回見ました」
「写真は撮らせてない」
「写真じゃなくて、頭に撮ってたら?」
答えなかった。梁の継ぎ目は、明日の朝いちばんに、もう一度測り直すことにした。




