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承認印を拒んでクビになった迷宮設計士、祖父の廃坑の一部屋でダンジョンマスターになる ~客が勝つほど迷宮が育つので、安全第一で最高の攻略を待っています~  作者: 雅龍(がりゅう)
第一部 ブリキの騎士と、出口のない図面

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10/27

土地を売れば、問題はなくなる

「天嶺の客足が、三割落ちてます」


雫がタブレットを見せた。探索者協会の公開データ。訓練施設ごとの月間利用者数のグラフに、天嶺ギルドの第三訓練場の折れ線が、先月から急降下している。


「理由は二つ。黒神山に人が流れていること。もう一つは、過去の工事に関する噂です。第二訓練場の崩落が、探索者の間で再燃しています」


噂の出所は分からない。蔵田が持ち帰った情報かもしれないし、誰かが記録を掘り返したのかもしれない。


「氷室は、焦ってる」


「焦った人は、危ないです」


その日の午後、天嶺の使者が買収の書状を持ってきた。


『黒神山の土地および迷宮設備一式を、六百万円にて譲渡されたし』


「安い」と、書状を覗いた源蔵が言った。「この山の木だけで、それ以上になる」


「断られる前提の、揺さぶりでしょうね」


俺は書状を畳み、使者に告げた。


「お断りします。売る物が、ありません」


それ以上は言わなかった。使者が帰ったあと、雫が受付の机の端に、小さなレンズを据えた。


「録画ですか」


「受付の右の壁にも、電話番号を貼ります。二十四時間対応の、通報先です。三枚」


「通報されたいのか」


「通報されたときに、すぐ押せる場所に貼りたいんです。先に貼ってあれば、貼ってある、という事実が残ります」


雫は赤いランプを確かめて、机を離れた。理由はよく分からなかったが、任せた。


*


夜、作業場の書類棚を開けた。


二年前の第二訓練場の図面。納品書。議事録。そして、古い録音機の記録。


病院のベッドで何度も聞き返した。崩落の三日前、氷室が現場で言った一言が残っている。


『排水と退避路は後回しだ。責任は現場で取れ。それが設計部の方針だ』


あの録音は、今も俺の手元にある。けれど、この音が本物だと、誰が証明する。


「それ、聞かせてもらっていいですか」


雫が棚の前に立っていた。


再生すると、氷室の声が作業場に響いた。雑音が混ざっている。鉄骨を叩く音。遠くのクレーンの唸り。


雫は目を閉じた。三分間、一言も発さず、聞いていた。


「……創真さん。この録音、本物です」


「どうして分かる」


「部屋の響きが残っています。音が壁に当たって返るまでの時間、床の材質、反響の癖。天嶺の第二訓練場、東棟の二階。わたしは、あの建物に入ったことがあります」


背筋が冷えた。


「それ、証拠になるか」


「録音機の記録時刻と、機材の型番、ファイルの形式。そこに反響の特徴を合わせれば、日付と場所を裏付けられます。ただ」


声が、小さく低くなった。


「これを使えば、創真さんの昔の話を、全部ほじくり返すことになります」


録音機を見つめた。二年間、胸の奥にしまっていた音だ。


「頼む。やり方は任せる」


雫の肩が、微かに震えた。


「……前の職場では、わたしの録音は、誰にも聞かれませんでした」


「俺は、聞く」


「聞いてくれる人のために、ちゃんと使います」


録音機の赤いランプが、机の上で小さく点滅していた。


*


氷室が来たのは、受付小屋の屋根が上がった日の午後だった。


黒塗りの車が坑道前の空き地に滑り込み、後部座席から見覚えのある背中が降りた。仕立てのいいスーツに磨いた靴。両脇には、書類鞄を提げた男が二人。


「久しぶりだな、夜久」


「社員証は、もう返しました」


「そう睨むな。今日はお前のためを思って来た」


氷室の笑顔は、昔と同じ角度で止まっていた。


小屋に通した。源蔵が組んだ新しい小屋は、窓から山の緑が見え、継ぎ目はすべて、人の手が入る形になっている。氷室は部屋を一瞥し、鼻で笑った。


「小屋か。ままごとだな」


俺が勧める前に、彼は奥の椅子にどかりと座った。俺の椅子だった。背もたれの高さが合わず、彼は一度座り直して、もう一度座り直した。


「お茶をどうぞ」


雫が黙って湯呑みを置いた。氷室は目も向けない。


鞄の男が、書類を一枚、机に滑らせた。


『黒神山の土地および設備一式を、八百万円にて譲渡する』


「六百万から上げた。誠意だ」


「お断りします」


「聞け。ここはお前が思っているより、ずっと危うい。無届けの営業は違法だ。人が死ねば刑事責任を負う。俺はそれを、親切心で防いでやろうとしてる」


「通報の用意もできております」と、鞄の男が口を挟んだ。低くてよく通る声だった。


懐柔、脅し、その次が通報。俺は湯呑みの縁を指でなぞって、続きを待った。


引き出しから封書を取り出した。迷宮庁特別監査室の許可書と、十一項目の別紙。その隣に、毎日の入場記録、帰還座の動作ログ、テスターの署名つきの同意書を重ねる。紙の山が、氷室の湯呑みの前で、とん、と音を立てた。


「届出は出してあります。人数限定の試運転許可も、受けています」


「……暫定だろう。あんなもの、いつでも取り消せる」


「ええ。だから毎日、俺が証明してます」


氷室が、初めて俺の目を見た。


「何を」


「戻ってこられない場所は、訓練施設じゃないって」


小屋の隅では、源蔵が板に鉋をかけている。しゃー、しゃー、と間延びした音が続いて、氷室の呼吸の合間を埋めた。


「通報したければ、どうぞ」と、雫が静かに言った。「通報先の電話番号は、受付に貼ってあります。右の壁の、三枚目です」


氷室がそちらを見た。確かに貼ってあった。大きな字で、二十四時間対応、と書いてある。


「それと、録画をさせていただいています。この小屋の中は、全て規則上の保存対象ですので」


雫は、机の端の小さなレンズを指さした。赤いランプが、小さく点っている。


氷室の頬が、一瞬、引きつった。


「……お前みたいな補助設計が」


吐き出すように、彼は言った。


「お前が成功したら、俺が間違ってたことになる」


しばらく、誰も何も言わなかった。しゃー、という鉋の音だけが、遠くで続いていた。


聞き逃したふりをしてやるのが、礼儀かもしれない。でも俺は、聞いてしまった。


そしてそれは、雫の録画に、はっきり残っている。


「比べなくていいですよ。俺は、あなたの場所に興味がありません」


「ふざけるな」


椅子が軋んだ。氷室が立ち上がり、その時、小屋の戸がからりと開いた。


入口に立っていたのは、黒鉄の騎士だった。


腰をかがめないと戸をくぐれない巨体。青く灯る目が、静かに氷室を見下ろす。剣は抜かない。ただ、鴨居の下で身を折ったまま、深く、ゆっくりと、頭を下げた。


客に向ける、正式な礼だった。


氷室の喉がひゅっと鳴った。鞄の二人は、無言で半歩下がった。


「……帰る」


「お気をつけて」


氷室は振り返らず、戸口を突き抜けるように出ていった。車が砂利を撥ねて走り去る。


小屋の中に、鉋の音だけが戻った。


「お茶、冷めちゃいました」


雫がぽつりと言った。


俺は吹き出した。源蔵が肩を震わせて、鉋の手を止められずにいる。アインは礼の姿勢のまま、まだ頭を下げていた。鴨居の下から、戻れなくなっている。


「お前、もう上げていいぞ」


アインの兜が、ほんの少し上がって、また下がった。氷室の車が、坑道を完全に出るのを待っていたらしい。


雫が机の上の許可書を取り上げ、「暫定」の二文字を指で押さえた。


「氷室さんの言ったことで、本当なのはここだけです」


「分かってる」


「次に来るのは、橘さんですよね。……すみません、先に緊張しておきます」


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