監査官は味方だから止める
橘響子は、約束の時刻より五分早く来て、五分遅く帰る人だった。
三十前の細身の女性。黒縁の眼鏡に、黒いスーツ。手には年季の入った黒い手帳。胸ポケットには、使い込んだペン。
「特別監査官の橘です。本査定の前に、現場を見ます」
彼女は入場門から第三層の橋まで、全部歩いた。止まって、触って、書いて、また歩いた。風鳴り回廊では雫に音を出させ、橋では床を踏み、石室ではアインの足元に膝をついて床の線を指でなぞった。一時間半のあいだに交わした言葉は、「次」と「戻ります」だけだった。
最後に、橋の中ほどで足を止め、彼女は欄干の下を覗いた。
「停電を想定して、電源を落とします」
響子が手元の小さな箱のボタンを押すと、橋の灯りがすべて消えた。闇の中で、欄干の非常灯だけが、ついてくれるはずだった。
点かなかった。
暗闇の底で、響子の声が淡々と響いた。
「本日から二十四時間、営業を停止します」
「待ってください、予約が」
「予約は払い戻してください。非常灯の作動確認は、公示の義務項目です。確認できなければ、停止です」
反論の言葉を探して、見つからなかった。確認項目の表には、確かに載っていた。載っていたのに、橋の欄干の裏の配線を、俺は確認し忘れていた。
「……すみません。気づきませんでした」
「謝罪は不要です。直してください」
「夜通し、やります」
「明朝七時に、再確認に来ます」
響子は手帳に何かを書き込んだ。ペン先の動きが、少しだけゆっくりだった。
*
徹夜だった。
源蔵は何も言わずに橋の下へ潜り、配線を引き直した。雫は非常灯の光量を計り、三種類の色で試した。俺は欄干の裏の端子を一つずつ指差し確認しながら、自分の頬を二回叩いた。
午前五時、橋の非常灯が点った。三つの色が、闇の中で順番に灯った。
午前七時、響子は予告通りに現れた。再確認は三十分で終わった。
「非常灯、動作確認。合格です」
「ありがとうございます」
「礼を言うほどのことではありません」
響子は手帳を閉じかけて、開き直した。
「帰還座の数が足りません。本査定では、最大十二名の試験班が入場する予定です。現在の帰還座は四名分」
「知ってます。先に言います。拡張公開を延期します。査定は、現状の枠で臨みます」
「自分から言うのですか」
「言わないと、あなたに止められる。止められる前に、止まります」
響子がペンを止めた。眼鏡の奥で、視線が動いた。
「帰還座の筐体の新設は建築の費用、保護用の充電は安全の貯金から。混ぜていませんか」
「混ぜてません」
「よろしい。座の増設を、査定前にあと八つ。計十二名分あれば、全員が同時に入っても、送還が詰まりません」
「分かりました」
「本査定の条件をお伝えします。独立判定者は、わたしを含む三名。入場者は、複数の試験班。そのうち天嶺の班は、破壊耐性の試験を担当します」
「天嶺が」
「驚きましたか」
「いえ。来ると思ってました」
雫が横で、息を呑んだ。
響子はペンを胸ポケットにしまった。
「一つ、先に言っておきます。わたしは、あなたの味方になる可能性があります。ですが、味方だから止めます。不備があれば、いつでも営業を止める。それは、あなたのためです」
「ありがとうございます」
「礼を言う人は、珍しい」
少しだけ、響子の口元が緩んだ。彼女は黒い缶コーヒーを一本、俺の机に置いて帰った。
*
査定の三日前、俺は一日で三万五千ポイントを使い切った。
《第4〜5層・黒鉄の聖堂:形成を開始しますか。三万五千》
「頼む」
核が脈を打つ。石室の奥の壁がゆっくり割れて、左右に広がっていく。床が沈み、天井が持ち上がり、巨大な空間が口を開けた。
幅二十メートル。奥行き六十メートル。高さ十八メートル。
八対の黒鉄の柱が並び、その奥に玉座が置かれている。第五層・聖堂。アインの本拠地だ。
足を踏み入れた瞬間、空気が冷えた。鉄と古い石の匂いが鼻に刺さる。足音は柱に吸われて、半拍遅れて天井から返ってきた。
床には、淡く光る細い線が縦横に走っていた。ところどころに円を描く紋様がある。円の中は、重力が最大一・八倍になる。入口には、そう公示した。
「線は、何ですか」
「踏んでみれば分かる」
そう答えて、俺は後ろを見た。源蔵が、大きな木槌を肩に担いで立っていた。
「叩かせろ」
「どれくらいの強さで」
「いつもの、全力だ」
源蔵が壁の前に立った。両足を線の上に置いて、木槌を振りかぶる。
ごっ、と鈍い音がした。木槌の頭が壁に沈む。次の瞬間、源蔵の足元の線が白く光った。
「うおっ」
爪先に反動が来た。靴底がずず、と後ろへ滑る。体は倒れなかったが、驚きの顔で壁を睨んだ。
「ほう。返すのか」
「公示済みの上限内です」
「悪くねえ」
木槌を降ろした源蔵は、床の線を靴の先で突いた。
「全員で壁を殴ったら、どうなる」
雫が代わりに答えた。
「全員で押し返されます」
「性格が悪いな」
「公示した上で、です」
「公示すれば許されると思ってるだろ」
「思ってます」
俺が答えると、雫が横でぷっと吹き出した。源蔵は鼻を鳴らして、聖堂の天井を見上げた。
「死角はあるか」
雫が杖で、玉座の左後ろの柱を指した。
「ここの柱の影に、挑戦者の足音が溶けます。もう少し、柱を細くしたいです。あと、床の線の一部が薄暗くて、見えません。端を光らせてください」
「直す」
十分で直した。
最後に、アインが入場した。
黒鉄の騎士は、玉座の前に立ち、聖堂を見渡した。青い目が柱と床と天井を順に撫でる。それから、床の線の一本に、足をそっと乗せた。
線が光り、アインの足が半歩だけ、前に出た。
ずしん、と重い。それでも俺の耳には、あの日の小さな足音と同じ拍に聞こえた。
試験は成功した。帰還の予備には、手をつけていない。残高は、ちょうど二千になった。
「創真さん」
聖堂の中央で、雫が振り返った。天井から落ちる青い光が、彼女の横顔を照らしている。
「この景色、一番最初に見せたい人は、いますか」
「いる」
「誰ですか」
言葉に詰まった。
答えは、思い浮かんだ。けれど口に出したら、この聖堂の空気が変わってしまう気がして、俺は柱を叩いた。
「……源蔵さんだ」
「そこ、本当ですか」
「本当だ」
雫がくすくす笑って、先に歩き出した。
源蔵は柱の陰で、聞こえないふりをして木槌を磨いていた。
査定まで、あと三日。帰還座は、まだ四つしか動いていない。




